あっちから変なの出てきた

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第五章 【 バス・ストップ 】


 大家貴信の個人研究所(奏とラナ・カンが居た施設。現在、ユーナとナユタが幽閉されている)の所長室にて、大家貴信は相馬(人外特殊災害対策室での大家の腹心)に報告を受けていた。
「逃げたか」
「はい」
 相馬が恐縮して頭を下げる。
「ですが、まだ本部ビル内を脱出できていないと思われます。本部ビル周囲には一般人に扮した術師が――」
「話にならんだろ、お前の抱えている術師程度じゃ」
 大家の口調に鷹揚が無かった。相馬は大家の怒りを悟って口を噤んだ。
 大家は煙草を咥えると、火をつけないまま「ふうむ」と唸る。
「相馬よ、確かに鳴音奏が現れるとは想定外だったが、所詮は力も無いガキと瀕死の人外一匹だろう。放って置け。ラナ・カンも長くは持たんだろう。藪北の連中に任せておけばどうにかするだろう」
「はい」
 相馬の元に入った報告によれば、藪北ファミリーの俵原が人外に深刻なダメージを与えたとのこと。
 転じて藪北ファミリー側に被害は全く無い。
 手負いの者を追い詰めるだけなら、現場の人間だけで充分だろう。
「それより、相馬。例の件は……」
 大家は煙草に火をともしつつ訊ねた。
 例の件、で通用する話といえばひとつしかない。
「ええ。報告しようと思っておりました。先ほど、例の人外が目を覚ましました。弱っていたのは確かなようなのですが、やはり目を覚まそうと思えばさめることが出来たようです。専門家に脳波を計らせたところ、二時間に一回は目を覚ましているとの結果が出たので」
「やはりな……そういうからくりだったか」
「失礼ですが、どうして……先生には分かったんでしょうか。あの人外が狸寝入りしていることを」
「簡単な理屈さ。説明するにはラナ・カンと一ツ目の出現の経緯を説明しなきゃならんが」
「お手数でなければぜひお聞かせください」
「いいだろう」
 説明することがまんざらでもなさそうに大家は解説を始めた。
「ラナ・カンの話に寄れば、ラナ・カンも一ツ目も、狭いイスカ領域の穴を通るために退化して力を縮小する必要があった。縮小した形は『ネジマキ猫』と『一ツ目ボタン蟻』だったかな。ところが隔世には力を圧縮する技術は一つしかない。隔世では力の強い人外を退治するために使用する術があるそうだ。それが『圧縮』という退化の術さ」
「はあ」
 相馬は曖昧に頷く。うまく理解できない。
「隔世では一ツ目のようなオツムは足りないが馬鹿でかい力を持ち、そのままでは退治が困難な人外を『圧縮』して退治するという。例えれば猛獣を殺すのにまず麻酔弾を打ち込むようなもんだろうが、急遽、現世に渡ってこなくてはならなかったラナ・カン達の国際連盟は、その技術を使用するしかなかった。改良する暇も無かったんだろう。だからバクチのような渡航をしたんだな」
 それが山で発見された人外の発見とどう繋がるというのだ。相馬の心境を悟ったように回答を漏らす大家。
「ラナ・カン達の国際連盟は、という話だ。先に現世に渡ってくる技術を手に入れ、充分に計画、準備する時間のあったレジスタンス側はどうだ? 『圧縮』して退化した人外を元の姿に『解凍』する方法を確立してから渡航してきたと考えてもおかしくない」
「つまり……」
「退化した一ツ目と一緒に、イスカ領域の小さな穴を通れるくらい力が弱く、ある程度知的レベルの高い人外が同行したに違いない。『一ツ目ボタン蟻』に退化した一ツ目を復元させる役割の人外が。そう考えれば『一ツ目ボタン蟻』が元の姿に復元できた理由が説明できる。さらに言うなら隔世のレジスタンスは一ツ目と二ツ目だと言うではないか。ここまで符号点がそろえば導き出されない答えはない」
 なるほど。そういう理屈か。
 相馬が納得したように頷くと、大家は機嫌を良くしたのか、紫煙を燻らせる口元を吊り上げると言った。
「その事実から導き出される想像は幾つもあるが、とりあえず脇においておこう。ここで最も重要なのは、一ツ目ボタン蟻に同行した人外は当然、知的レベルの高いものであると考えられることだ。あるいは現世に渡ってくる技術も持ち合わせているかもしれないと考えるのが自然の道理だろう」
「あ……」
 大家が以前言っていた言葉を思い出す。
 相馬が大家に対して「どうしてラナ・カンにイスカ領域の渡航の技術を訊ねないのか」と訊ねたときだ。大家は確かに言った。「そんなもの、別の人外に聞けばいい」と。
「しかし、先生。例の人外が、渡航の技術を持っている保証はどこにも無いんじゃないんですか?」
「五分五分だな。まあ、話をしてみて考えよう。しかし、仮に知らなかったとしても、その人外は来るべき二日後の人外来襲について知っているだろう。狸寝入りまでして力を温存していたのも役割を果たすためだろう。例の人外は二日後にやってくる人外たちの手引き役であることは間違いない」
 大家は煙草を灰皿に押し付けると、高級チェアの背もたれに埋もれながら言った。
「面白い話が聞けそうだ。いろんな意味でな」
 この男、やはり計り知れない。
 長い付き合いの相馬でさえ、大家の真意は読み取る事が出来なかった。
「なあ、相馬よ。隔世での『圧縮』の技術、あるいは技術ではなく、ただの『術』かもしれないが、この理屈が何かに似ていると思わないか?」
「何かというと……? 現世のものでですか?」
「そう。力を『圧縮』して閉じ込め、ある条件下の元、発動するもの」
 相馬ははっとする。
 そこまで説明されれば、気づかないほうがおかしい。
 しかも、相馬は恐ろしい事実にまでたどり着いてしまう。
「そっくりじゃないか。現世での『御札』に」
 相馬は口が利けなかった。
 御札の製造方法、素材、その全てが極秘とされていた。
 その秘密が解明されたとき。しかも大家貴信という男がその技術を手に入れたとき、一体どういうことになるのか。
 相馬は寒気を通り越し、恐怖に全身を凍てつかせた。
 同時に安堵も感じる。最悪な状況が訪れたとき、もっとも敵に回したくない大家貴信の「味方」でいることができるからだった。
 
 
 
 ラナ・カンは階段の途中に結界を張っている奏の肩に乗りながら訊ねた。
「なぜ結界を張っている?」
「なぜって、追っ手を防ぐためだよ」
「防ぐと言っても、結界は我々のような人外境の者に有効な道具だと言ったのは奏のはずだ」
「ああ」
 奏は怪我をした右腕をかばうように、せっせと結界を張りながら答える。
「こうも言ったろ。『人間用の御札を使わなけりゃいけなくなった』って。こいつは人間の情気に反応する御札なんだよ」
「ふうむ、確か前に聞いた事があったな。しかし、そんなものが足止めになるのか?」
 ラナ・カンは自分が結界をたやすく打ち破った経験から、結界というものの強度を訝しんだ。
「多分ね。こんなのすぐに壊される結界だけど、人間は自分たちに対する結界なんて食らった前例なんて無いはずだよ。多分、戸惑うと思うんだ。時間稼ぎくらいにはなるよ」
 そんなことより先に進んだほうが良い。そう思うラナ・カンであったが、ここは奏を信用するしかない。なにより、すぐに逃げるのではなく、どこかに寄り道しなければならない。だからこそ、追っ手の足止めをして時間を稼ぐ必要があるのだろう。
 再び階段を下り始めた奏に訊ねる。
「ところで奏。これから行こうとしてるのは一体どこなんだ?」
「このビルの地下だよ」
「地下? そこに何がある?」
「S級の御札」
「S級?」
「うん。多分、この世に存在する御札で最高レベルの御札だよ。日本に二つしかないし、世界にも五つしかない。そのうちのひとつがここの地下にあるんだ」
「なるほど。その高出力の御札で人工的にイスカ領域を作り出そうとしてるんだな」
「いや、そうじゃないんだ。その御札のことは実際よく分からないんだよ。ただね、その御札には曰くがあってさ。高出力の御札であったとしても、簡単には発動できないんだよ」
「強い瘴気にしか反応しないとか」
「へえ、ラナ・カンも仕組みを覚えてきたね。でもそうじゃない。説明するには御札の起源から説明しないといけないんだけど」
「ほう、御札の起源か」
「実はまだ良く分かってなくてさ。読んだのが古文書だから解読困難でさ。御札の起源についてはスクールで習ったけど、この日本とは別の国の中国ってところで生まれたらしいんだ。はじめて御札を誕生させたのが宋劉明という中国の伝説の偉人で、強い通力の持ち主だった。中国の宋劉明が『人外』というものを初めて認識して、物の怪や妖怪の類が隔世からの来訪者であると説いたんだ」
「貴殿の世では歴史が明確なのだな」
「そうでもないよ。中国での自然管理委員会と同列の組織といえるのは『道教』に含まれる一部の『人外道』という民間組織だそうだよ。日本のように国家機関ではなくて、古くから道教を信仰する民間の『人外道士』が、国や一般人から報酬をもらって人外駆除を行ってるんだ。ラナ・カンには理解が難しいかもしれないけど、道教の起源が曖昧なように、中国の術師である『人外道士』の起源も曖昧。ただ、御札の歴史も中国の歴史の深さにすれば割と新しいから信憑性は高いと思われてる」
 二十階もの階段を下り終えた先に、待ち構える敵はいなかった。まさか、奏は妨害する敵は前方にはいないと予想していたのだろうか。そうでなければこんな無謀な逃亡劇を出来るわけが無い。
 ラナ・カンと奏はそのまま地下二階まで下ると、生体認証の必要な扉があった。
「ラナ・カン、この扉を破れる?」
「ああ、問題ない」
 ラナ・カンは奏の肩から飛び降りると子猫サイズのままで扉に向かって火を吹いた。思いのほか時間がかかる。ラナ・カンは自分の力が落ちていることを意識したし、自分の体が後どれだけ動くか不安に思いながらも、鉄の扉を溶かし続けた。
 扉のあった場所を縁取るように真っ赤に溶けた鉄が粘液となって垂れ下がる。床の上も溶岩のような焼けた鉄の液体が水溜りを作っていた。
「焼けた鉄に気をつけろ、奏」
「分かってるよ。飛び込み前転の要領だ」
 そう言って奏は数歩下がると、駆け出した勢いで扉の向こう側へ飛び込んだ。
 ラナ・カンは溶けた鉄の水溜りをひょいっと飛び越えると、飛び込み前転に失敗した奏が、怪我をしている右腕をさすりながらうめいていた。
「腕は大丈夫か、奏」
「大丈夫。折れてはいないとおもうし。今日中くらいは動かないかもしれないけど」
 扉を越えた向こう側は周囲を金属に囲まれた廊下になっている。上を見上げると大小さまざまな管が血管のようにめぐっている。
 ラナ・カンが再び奏の肩に乗ると、奏はあちこち見渡しながら廊下を進む。廊下を進んだ先に少し開けた空間があった。
 人は居らず、空間の端のほうに業務机が孤独に置かれていた。
 開けた空間の一番奥には、三メートル四方の巨大な扉が設置されており、扉には二組のハンドルと、暗証コードを入力するための電子パネルがあった。
「中国では妖怪、化け物と形容されていた未知の動植物たちを、千五百年くらい前に宋劉明という人が最初に『人外』と位置づけて、隔世からの来訪者であると説いた。どうして宋劉明には、それがが隔世からの来訪者と知る事が出来たのか、その辺の理由も良く分からないし、結局、宋劉明という人が作ったとされる御札の誕生秘話も分からない」
「その話が、奏のいうS級の御札や隔世に渡る方法とどう関係するんだ?」
「う〜ん、うまく説明できないな。宋劉明が世界で最初に御札を作ったらしいんだけど、実際に御札を使用した記録の残ってる文献はたった一つだけ。というより、使ったのがたった一回だけ。そのとき使ったのがS級の御札」
「最初に使った御札がS級の御札で、それが最初で最後になった、ということだな」
「うん。宋劉明は生い立ちも没年も分かってない。いつ死んだのか分かってないんだ。ただ、宋劉明の最後の文献が残っているのが、唯一彼が御札を使用したとき。それ以降の宋劉明の文献は残っていない」
「そのとき死んだ、ということではないのか?」
「分からない。ただ、御札が日本に伝えられたとき、御札を日本で使用した最初の人は二階堂明星という平安時代の陰陽師だった。安倍清明っていう有名人の仲間だった人らしいけど、その人も普段はA〜C級の御札を使っているんだ。でも、公家に現れた妖怪――人外を退治するためにS級御札を使用したのが最後の彼の記録になってる」
「同じことだろう。そのとき命を失ったのではないか」
「それにしてもおかしい。死んだなんて一言も記録されていないし、自然管理委員会が発足してから誕生した明治時代の英雄の伊集院照子も、S級の御札を使った後、突然文献が途絶えるんだよ。よく分からないんだ。歴史上、強い人外といってもB級の御札で対処できるレベルだった。A級は北京条約で必要性がないって製造禁止にされてるんだけど、S級に至っては製造方法が不明だし、現存も世界に五つだけ。しかも、歴史上の英雄は三人ともS級の御札を使ったと同時に、その後の記録が途絶えるんだ。しかも没年も分からない。S級の御札を使用したときに死んだとは一言も書かれていないからね」
 奏は大きな扉の前に立つ。
「S級の御札を使用すると文献が途絶える。つまり、S級の御札を使用すると使用者は死ぬか、消えるか」
 ラナ・カンはある事実を導き出した。
「まさか、S級の御札を使用すると……」
 奏は肩に乗ったラナ・カンをちらりと見てから言った。
「隔世に行くことが出来る……というわけじゃないよ。違う違う。それも一瞬考えた。でも、そんな都合よく行かないよ。そうだとしても、納得いく説明なんかひとつも出来ないし」
「要するにS級の御札とは何なんだ、奏。他の御札より強いわけではなく、S級の御札を使った人間はそれ以降消息不明となる。その原因が分かっているからここまで来たんだろう、奏」
「想像だけどね。俺が考えてるのは、誰もS級の御札なんて使ってないんじゃないかってこと」
「使ってないとはどういうことだ」
「過去の日本の英雄二人は、S級の御札を使ったときに消失したんじゃない。S級の御札を産みだしたときに消失したんだよ」
 ラナ・カンは頭を整理しようとした。奏の言おうとしていることを必死に理解しようとしたが無駄で、黙って話の続きを促すしかなかった。
 奏は言った。
「S級の御札は術師そのものなんだよ」
 奏はそう言って、ラナ・カンを床に下ろした。
 もちろん、奏は目の前にそびえる巨大な扉を正式な方法で開くことは出来ない。
 奏は話を中断して、目の前の巨大な扉を指差した。
「厚さが1.5メートルある。素材は特殊合金。通常の鉄より硬いし、融点も高い。いけるか、ラナ・カン」
「いけるさ」
 強がった。
 奏も分かっている。
 無理を承知で頼んでいるのだ。
 この痛んだ身体。
 いま力を大量放出することは致命的である。
 体内の心的エネルギーを使い果たしたあと、こちらの世界にいては心的世界からのエネルギーの供給はないのだから、負った傷の回復も望めない。
 それでもやる。
 奏を助けることは、しいてはラナ・カンの世界を助けることにつながるとラナ・カンは信じた。
 信じたかった。
 ラナ・カンは火を吹いた。
 まるで深海に沈んでいくような心境。
 呼吸も出来ず、水圧が徐々にラナ・カンの全身を締め付け、押しつぶしていく。
「話の続きだけど、古代では情気を放出するのに媒体を必要としなかったらしい。つまり御札とか戒具とかを使わず通力を発揮できたんだ。御札とか戒具は広く一般的な人間にも超能力を授ける道具みたいなもの。そんなものが存在しない昔は、選ばれた小数の人間か、ものすごく修行した人間しか通力は使用できない能力だったんだ。現代にもたまにいるよ、御札や戒具を使わなくても物を破壊したり、火を出したりする人間は。ほとんどはイカサマだろうけど、家の弟も手を触れずに軽いものを少し動かすくらいのことは出来るみたいだし」
 ラナ・カンは火を吹いているので口は利けないでいる。
 だが聞いている。
「御札を最初に生み出した人。その人は身をもって御札の製造方法も示したんだ。御札の主な構成している物質は人体組織だろうと思う。この世に情力を溜めることのできるのは人間だけだから。たぶんS級の御札とは、人間の情気を持った身体を『圧縮』した究極のものなんだ」
 ラナ・カンは火を吹きながら考える。
 ラナ・カンの世界では手に負えない強力な力の持ち主を退治する場合、いったん相手の力を『圧縮』し、力を押さえ込んだ後に退治する。『圧縮』とは技術や装置ではなく、個人の能力だった。相手の力を『圧縮』できる希少な能力者がいる。その『圧縮』の能力を持つものは例外なく英雄となりうる強力な通力の持ち主だった。
 こちらの世界でもかつて『圧縮』の能力者がいたと奏は語っている。宋劉明、二階堂明星、伊集院照子。それらは圧縮の能力の持ち主だったのだろう。
『圧縮』の能力者の話を以前に山の中で過ごした一ヶ月の間に、何度か奏に説明した事がある。奏はその話を基にして、今の答えを導き出したのだ。
「日本にあるS級の御札は、過去の二代英雄である二階堂明星と伊集院照子が圧縮されて御札に形を変えたものだと思う。確信はないけど」
 ラナ・カンは火を吹くのをやめた。
 扉は中央が溶け、バターを投げつけたかのようにたるんでいるが、穴が空くまでには迫っていない。
 火を吹くのをやめたのは、水中で息が続かなくなったのと同じ。火を吹けなくなったからだ。
 ぐったりとうな垂れ、浅く息をつくラナ・カンに対して、奏は何も言わなかった。
 だが「無理でもお前を責めたり恨んだりしない」と無言で語りかけているのが聞こえてきて、ラナ・カンは「少し休憩する。話の続きを聞かせてくれ」と言った。
「いいよ。日本の二大英雄がなぜ自ら御札になったのか、理由は分からない。二大英雄が御札になったって言うのも、ただの俺の想像だしね。だけどもし、その英雄を復活させることが出来たら、俺たちは『圧縮』の能力者を手に入れることが出来る」
「S級の御札を手に入れなくとも、他にいるんじゃないのか? 御札を作っている人間が何処かにいるはずだろう。その人間たちは『圧縮』の能力者じゃないのか?」
「違うと思う。御札の成分は人体だろうけど、力を圧縮するわけじゃない。御札を生成してから力を封じ込めるわけだし、御札は最初は何も入ってない空の容器なんだ。いま日本に伝わっている御札の技術は、人外討伐組織の祖である宋劉明が身をもって構造を示して、中国人が複製したものだと思う。そう考えれば、御札の製造方法、素材が極秘にされている理由もうなずけるだろ。人体を使ってるなんて倫理的に問題があるし、北京条約でA級の御札が製造禁止になったのも、級が高くなるとより多くの人体が必要になるからだと思う。倫理的判断で禁止にしたんだ」
 ラナ・カンはたまらず身体を横たえた。
 もう一度火を吹く力は残っているか。
 奏は話を続ける。
「ラナ・カンは最初、ネジマキ猫だったよね。でもゼンマイを回すことによって元の身体に戻った。御札もきっかけを与えると発動する。だから、S級の御札も構造は同じだと思うんだ。何かのきっかけを与えてやれば、きっともとの姿に戻る」
 奏は横たわって息をつくラナ・カンのそばによって、身体をそっと撫でた。
「だけど、発動条件はまったく分からない。手に入れても無駄になるかもしれない。−−ラナ・カン、もういいよ。S級の御札を手に入れるなんて最初から無謀な考えだった。無理するな。別の方法を考えるから」
 これは宿命だ。
 もはや奏の目的、思いは関係ない。
 ラナ・カンはこの扉を開けなければならないと思ったし、それは自分の意思であると自覚した。
「続きをやる。頼む、奏。気が紛れる様に話の続きを頼む」
 奏は今にも泣き出しそうな顔をした。
 それでいい。貴殿は無理して冷酷なふりをする必要はない。ありのままでいればいい。そうすれば、私は幾らでも貴殿に協力しよう。
 ラナ・カンは火を吹いた。
「越えなくちゃいけない壁は多いんだ。まずS級御札の発動方法。それを見つけて仮に『圧縮』の能力者を手に入れたとして、二階堂明星か、伊集院照子が復活するわけだけども、説得してやってもらわなければならないことがある。それはラナ・カンたちの『圧縮』。素直にやってくれるかどうかもわからないし、人外を圧縮できるのかどうかも分からない。それから、残りは隔世に渡る方法だけど」
 遠い。
 この扉を破るには、後どれほどの深海にもぐらなければならないのか。
 100メートル、120メートル、130メートル……。
「来るべき二日後の人外来襲。その瞬間しかない。こちらから開ける術がない穴を、向こう側から開けた瞬間、その穴に飛び込むしかない」
 吹く火の勢いが弱まる。そのたびに自分を叱咤し、大きな炎を扉に吹き付けた。
 この先に家族がいる。この先に希望がある。ラナ・カンはそう信じて炎を吹き続けた。
「ただ、一体どこに穴が開くのか、正確な位置を知る必要があるし、何よりラナ・カンは人外来襲がやってくると同時に隔世に戻るわけだから、一番重要な使命を放棄してもらわなくちゃならない」
 そう。
 私は戻れない。
 私の最大の目的は、人外によるこの世への干渉を阻止することであるのだから。
 最初から分かっていたこと。
 後二日、自分の淡い命の灯火が燃え続けてくれるかも分からない。
 だが、ユーナとナユタは帰ることが出来る。
 それでよい。
 そう思える。
「ラナ・カン、もういいよ。火を止めてくれ」
 奏が言った。
 何を言う。
 私はまだ諦めていない。
 私はこの扉を破り、希望を手に入れ、使命を果たす。
 それまでは。
「ラナ・カン、火を止めるんだ。もういい!」
 奏が言ったわけではないが、ラナ・カンは火を吹くのをやめた。
 体力はもう。
「奏、また休んだらもう一度火を吹く。少し時間をくれ」
「必要ないよ」
「なぜだ。あれほどユーナとナユタを隔世に戻したがっていたではないか」
「違うよ」
「違う? なにがだ」
「開いたんだ」
「開いた?」
「ラナ・カン、ありがとう。苦しかったろうな。おかげで扉に穴が開いたよ」
 奏が指差した方向を見る。
 そこには1.5メートルの厚さを誇る合金が、見事赤い穴を開けているのが見えた。
「私もやれば……でき……る」
 自分の言葉が遥か遠くに聞こえてきた。
 最後に見えたのはひどく苦しそうな奏の顔。
 その顔が渦巻くように暗闇に消えていった。


 先頭を歩いていた俵原が階段の中腹で突然悲鳴を上げた。
 後続を歩いていた藪北ファミリーと遊里たちは何事だと足を止める。
 見ると俵原は顔面を両手で覆ってうずくまり「おおお」と呻いている。
「ここ、なんかあるぞ!」
 俵原が階段の中腹あたりの空中を指差している。目を凝らしてみたが、遊里には何も見えず、怪訝そうに首をかしげた。
「剣山に顔を突っ込んだみてえだ! くそ!」
 俵原は顔に張り付いた手を離そうとしない。心配したクリスティーヌが覗き込んでいる。
「何があるっていうの? 何も見えないわよ」
 鳩谷多恵が俵原の指差した場所にそっと手を伸ばす。
「触るな!」
 俵原が怒鳴ったので、多恵は慌てて手を引っ込める。
 何があるのか。
 遊里が近寄ってみる。
「それ以上近寄ると食らうぞ。あんたの鼻先十センチだ」
 遊里の目の前に何かあると主張する俵原。振り返ると、十数名の遊里の同僚たちが不思議そうに遊里を見ている。
 遊里は視線を転じて、天井、階段、手摺などを見て、ようやく「そこにある何か」の正体を見破った。
「結界よ。まさか、本当に食らったの?」
「これが演技に見えるか?」
 顔に張り付いていた手を離し、見せたその顔は、まるで張り手を何発も食らったように真っ赤に染まっていた。
 思わず笑い出しそうになるが、どうにかこらえる。
 ところがクリスティーヌがたまらずクスクスと笑い出すと、遊里の同僚たちもどよどよと笑い出した。
 バツの悪そうな俵原は、自分に向けられる嘲笑を払拭するかのように「結界なら壊せ」と遊里に命令口調だ。
 若干頭にきた遊里は「人間で結界を食らったのはあなたが世界で始めてじゃない?」と皮肉ってやると、俵原は今にも噴火しそうに口元をわななかせた。
 それ以上相手にしないようにして、遊里は仕掛けられた御札を確認する。
 それにしても、本当に結界なのか。
 本物だとしたら、紛れもなく禁術。人間に対して有効な御札を使用するなど、遊里にとったらめまいがしそうなほどの重大な反逆行為である。
 やはり、奏が人外と逃亡する瞬間、投げつけたものは御札だったのか。あの閃光弾のような目くらまし。情気に反応して炸裂する御札? そしていま目の前にある結界もまた、俵原の情気に反応して発動したのだ。
 遊里は効果キャンセルの御札を使用して、結界を解いた。解きながらある重大な事実に気づく。
 結界札は四隅、あるいは三角形の三隅で完成する。ところが、この結界札が仕掛けられているのは二つだけである。
 二つの結界札を使用して、本来『囲う』はずの結界を『壁』としての平面利用している。どうしてこんなことが出来るのだろう。遊里にはまったく想像できない。奏が自分自身で創造し作り出したのだろうか。
 間違いなく、御札の技術の進歩を彼一人で何年も進めてしまっている。
 遊里は奏に対して畏怖を感じるとともに、全身に鳥肌を立てた。
「他にもあるのでしょうか」
 クリスティーヌが遊里を振り返って訊ねてきた。
「当然あるでしょうね。注意して進むしかないわね。エレベータは使えないだろうし」
「ほかの階段は?」
 たずねてきたのは多恵だ。
 遊里は頭の中にビル内の地図を広げる。
「東に階段がある。だけど、七階から三階の間で工事が入ってるから使えない。今は十階だから、結界の罠があったとしてもこのまま進んだほうが効率がいい。大丈夫、結界は御札で作られているから、注意すれば二度と食らわないわ」
 でも、これが幾つも仕掛けられているとしたら、鳴音奏に十分すぎるほどの逃亡時間を与えてしまう。
 頭の良い子。
 遊里は素直に感嘆する。
 こんなところまで人外を助けに来た無謀さゆえ、愚かさを感じていたものの、決して無策で乗り込んできたわけではないのだ。
「千佳、チーフマネージャに連絡。どうやら逃げられてしまいそう。助力を求めて」
「待て」
 俵原がまるで赤鬼のような表情で身を乗り出してきた。
「俺たちが、手負いの人外とガキ一人捕まえられないと?」
 遊里は俵原の威圧感に内心気おされながらも、毅然と答える。
「捕まえられないわ。逃げるものを追う難しさを知らないの? ハンターがどんな強力な拳銃を持っていたとしても、気配を消して逃げる獲物を捕らえるのは至難の業なのよ。頭を冷やしなさい。力だけでは彼を捕まえられないわ」
「なんだと、このやろう」
 威嚇的な態度。遊里はカチンと来た。
「立場をわきまえろ」
 遊里が大声を上げると、俵原は戦いたように一歩後ずさった。
「私はあんたからすれば目上の人間なのよ。態度を改めなさい。上司に対する態度が不適切と審議会に申請して、あんたを処分することも出来るのよ」
 語気を強めて睨みつけると、遊里の背後に立っていた同僚たちも階段の踊り場から俵原を威嚇した。
 俵原は苦々しそうに顔を背けるしかない。
 遊里は背後の同僚たちを振り返って言った。
「先頭は私が行く。みんなも注意して付いてきて」
 同僚たちが一斉に返事をした。
 人間に対する結界に戸惑ったものの、モチベーションは取り戻したようだ。
「うちのリーダより求心力はあるようだね」
 鳩谷多恵がそう漏らした。皮肉を言われたのだと思ったら、多恵はにっこり笑って、親指を突き立てている。
「でも、藪北ファミリーはこんなもんじゃないからね」
 多恵はそう言ったが、遊里はそれをただの強がりだと判断した。
 でも、外からの救援は恐らく不可能であると遊里は思った。
 現実的に、救急隊員さえもシャットアウトして中に入らせない徹底様だ。委員会の人間が中に入ってくるなど、野次馬の中にあって怪しさを大々的に宣伝してしまっているようなものだ。
 外からの救援は無理。ビル内の現存戦力でどうにかするしかない。
 だがせめて、ビルの外を委員会の術師で固めて、鳴音奏が出てきたところを保護することくらいなら出来るだろう。
 背後をちらりと振り返ると、千佳がチーフマネージャーに電話しているところだった。
 千佳が応援要請を終え、電話と閉じた瞬間だった。
 −−防災センターです! 防災センターです!
 突然、前触れもなく館内放送が始まった。
 その口調の慌てぶりに、遊里を始め、集団は足を止め、天井付近を見上げながら館内放送に聞き入った。
 −−ただいま、地下二階金庫室より警報! 地下二階金庫室より警報! 人外が進入したものと思われます! 監視カメラは全面的に停止しているため、確認はできません! 館内にいる術師、防災センター職員はただちに確認に向かってください! 人外はAIセキュリティーの拒否を無視して、強引に突破した模様! 金庫室には重要機密書類が存在します! 盗み出されてテロリストの手に渡った場合の被害は想像をはるかに超えます! お願いです! 館内の勇士は地下二階の金庫室に急いでください!
「なんてこと……!」
 遊里は思わず口遊んだ。
 逃げるだけでなく、金庫室に?
 なんてしたたかな。
「急ぐわよ!」
 遊里は怒鳴った。

 

「奏が逃亡したそうだ」
 弦の乗ってきた車の中。
 後部座席に座る琴と階にそう伝えると、階は歓声を上げながらこぶしを突き上げたが、琴はほっとしたような不安そうな曖昧な表情だ。
「どうやら対人間用の御札を使っちまったらしい」
「対人間用?」
 首をかしげたのは階だ。琴も弦も奏が人間用の御札を持っていることを知っている。
「奏の奴が御札を改造して、人間の情気をトリガーにして発動する御札を作りやがったんだ」
「奏兄ちゃんが? まさか、不可能だよ」
「でも作ったんだよ。前に奏が工事中のマンションに逃げ込んだことがあっただろう。あの時つかった閃光も対人間用の御札だ」
「だって、作り方なんか誰も知らないはずだろ。作成マニュアルを手に入れようと思ったら刑務所の脱獄より何倍も難しいよ」
「マニュアルを手に入れようとしたらな。だけど、奏はマニュアルを見て作ったわけじゃない。あくまで規制の御札を改造して作ったんだ」
「それこそ不可能だよ。奏兄ちゃんが御札の構造を知ってたって言うのか? そんなの老師レベルの術師だって不可能だよ。自然管理委員会の組織を運営してるのがAIコンピュータだって知ってるだろ。AIに正当な理由を申請して、承認が降りなけれりゃ自然管理委員長だってそんな技術を手に入れることも出来ない」
「だから、奏は人間用の御札の製造方法を独自に編み出したんだよ」
「だから……」
 階は言葉を詰まらせる。
 弦は携帯をたたみながら言った。
「今はそんな議論より、目の前の問題がある。電話は俺の部下からの救援要請だった。俺は奏をとっ捕まえるために動かなくてはならない」
「自分の弟のことだろ」
 階が口調を荒げて責めると、階は冷たく頷いて「そうだ」と答える。
「救急隊員もビル内に立ち入れない中、委員会の人間が容易に入ってはいけない。ということは一般人に紛れて、周囲に委員会の人間を張り巡らせて、出てきたところを捕らえるという手順になりそうだ」
「どうするの?」
 琴が訊ねる。
 心情を判別しにくい表情で弦が答える。
「その通りに調整するさ。委員会各所に要請して、この場に術師を派遣し、ビルの周囲を固めさせる」
「どうして? せめて手を出さないようなことは出来ないの?」
「琴、どう考える? 俺はこのことをお前らに話してはならない守秘義務がある。だけど話してる。それはお前らからアイデアが欲しいからだ」
 琴は弦の心情を理解した。
 弦だって人間だ。
 迷ったりもする。
「ここで俺が部下の要請を無視すれば、現場からの信頼を失い、二度と現状の情報は俺には入ってこない。俺がやらなくても、同様の判断を他の誰か下すのは間違いないしな。それより要請に答えて、いつでも情報を得られる立場でいたいと考える。依存があるか?」
 階は気に入らない素振りでそっぽを向いたが、反論は無い。
 琴も頷いて肯定した。
「俺たちはなにも出来ない。言われたことをするしかない。逃げられるのか、捕らえられるのか。後は奏しだいだ」
 琴は再び頷いてみせる。
 だけど、本当に見ているしか出来ないのか。
 この中で、誰よりも自然管理委員会という組織の明るみも暗がりも知っているのは弦だ。
 へたに動いた途端、大口を開けて私たちを食らおうとする醜悪な悪魔の、その強大さと恐ろしさを知っているのも、また弦だけである。
 考えろ。
 どうすればいい。
 弦にだって答えは無い。
 ならば私が何かアイデアを……。
 琴は両手で顔を覆った。
 泣くな。
 泣いたらなにも考えられない。
 奏。
 どうすればいいの?
 
 
 
 奏は呆然と立ち尽くしていた。
 背後を振り返る。
 焼けて解かされた扉の向こう側の床に、横たわる子猫サイズのラナ・カン。
 今目の前にある事実を、誰かに相談してみる相手は居ない。
 正面を向き直る奏。
 そこには広い空間に金塊。
 だが、奏を驚かせたのは金塊の山ではなかったし、積み上げられている古びた古文書の山でもない。
 それらの貴重な文献、金塊に囲まれるようにして、ガラスケースに収められたS級の御札の存在だった。
「なんなんだよ、これ」
 その呟きは誰にも届かない。
 ふと我に帰る。
 呆然としている暇は無い。
 奏は近くにあった金の延べ棒でガラスケースを突付いてから、次に叩き割った。
 電流が流れていたりはしないようだ。
 その奇妙なS級の御札を手に持ったとき、初めて金庫室に警報が鳴り響いた。
 奏は心臓を鷲づかみにされた思いがして縮み上がった。
 踵を返して金庫室を出ると、緊迫感を煽るようなけたましいサイレンと、いたるところの赤い回転等が金庫室を真っ赤に染めていた。
 床に横たわっていたラナ・カンを抱き上げたとき、奏たちが入ってきた扉に突然鉄格子が降りてきた。
 降りてきた鉄格子は、奏たちを金庫室に閉じ込めるためのものであると思われたが、鉄格子はラナ・カンが溶かして変形した扉につっかえて、中腹までしか降りなかった。
 ラナ・カンがあけた扉の穴を半分填めるようにしている鉄格子をくぐって、奏は慌てて金庫室を脱する。
 けたましいサイレンは金庫室の外は鳴っていないようだ。
 慌てて階段を上る。
 地上一階まで上ったときだった。
 途中に仕掛けた結界のおかげか、藪北ファミリーはまだ追いついてきていなかった。
 だが、非常階段から抜け出したエレベータホールには一人の男が立っていた。
 奏が現れたことで大して驚いた様子も見せず、非常階段から出てきた奏の目の前に立ちはだかって居た。
 放水車からの放水で水浸しになった床に鏡移しになった男は、一度見た事がある。
「君には研究所で一度会ったね」
 そう言ったのは、少女漫画からそのまま飛び出てきたかのような美少女のような美男子。
 佐々倉想平だ。琴が術師として派遣されている隣町のイスカ領域の担当者である。
 同時に、藪北ファミリーの一員。
「僕は万一に備えて、一人待機してたんだけどね。まさか、こんな形で仕事が回ってくるとは」
 奏は気を失っているラナ・カンを抱きかかえながら考えた。このイケ面やろうが悠長に話している間に、どうにか逃げる作戦を考えないと。
「ときに訊くけれど、君はどうして人外をかばって逃げてるんだい? 僕は人外は殺せても、人間は傷つけたくない。大人しくその人外を渡してくれれば、僕は君に危害は加えないよ。部下の弟というよしみもあるしね」
 佐々倉想平も藪北ファミリーに居る限り、戒具を使うのだろう。
 でも研究所で見たのは鳩谷多恵と俵原孝司の二人の能力だけだ。
 川本クリスティーヌが結界を作るのはさっき見た。
 ならば佐々倉想平は何を使うのか。
 奏は襷掛けしたバックから御札を取り出す。
 どんな力を持っているのか、分からないのはお互い様である。
「訊いてるぞ。君は人間に有効な御札を使うそうだな。まさに反逆者に相応しい道具だな。でも、僕には利かないぞ」
 利かない? 本当かどうかはやってみないことには分からないが、相手の力が未知数である以上、不用意に動けなかった。
 手に持ったのは閃光札と殲滅札。
 攻撃してきたとしても、情気を形に変えた武器であることに変わりはない。殲滅用の御札で防げるはずだ。
「それで? まずは返事を聞かせて欲しいんだが、大人しくその人外をこちらに引き渡してくれるかい?」
「引き渡すわけが無いだろ」
「まあ、そうだろうけど」
 奏は閃光札を左手につかむ。右手は使えない。口に咥えて安全シートを引き剥がす。
 佐々倉想平が不思議そうな顔をして何かを言うと口を開きかけたとき。
「奏、私を奴のほうに向けてくれ」
 不意にラナ・カンが口を開いた。目を覚ましたらしい。
「ラナ・カン、大丈夫なのか?」
「大丈夫だ。それより、私を奴に向けてくれ。自分では動けない」
「向けてどうするんだ」
「火を吹く」
 そんな体力が?
 不穏な空気を感じ取ったのか、佐々倉想平が身構えた。
「早くしろ、奏」
「駄目だ」
「心配するな。殺しはしない」
 奏は佐々倉想平の身体より、ラナ・カンの身体を心配した。
 これ以上、体力を喪失しようものなら隔世に変える前に息絶えてしまうではないか。
「ちょっとまて。ストップ!」
 突然そう声を上げたのは佐々倉想平だった。
 佐々倉想平を見ると、引け腰になってこちらに手を向けている。
「済まなかった。降参だ」
「は?」
「僕に戦う能力は無いんだ。実は僕の能力は人外の察知能力。戦闘能力じゃない」
「うそつけ」
「本当だ。どうにか虚勢を張って君を足止めせよとのことだったが、炎を吐かれては防ぎようが無い。降参だ」
 奏はじっと佐々倉想平を睨みつけた。
 本当のことを言っているのだろうか。
「信じるな、奏。奴の隠している右手から異常な気配がする。あいつは武器を隠し持っている」
 武器を隠し持っている。強い武器を。それなのに戦闘を回避するような口ぶりだ。
 確かにラナ・カンに火を吹かれたら。人間などひとたまりもない。
 考えろ。
 これは駆け引きだ。
 佐々倉想平は自分の能力が有利に働く状況を作り出そうとしているのだ。
 それならば、佐々倉想平の能力は……。
 奏は小声でラナ・カンに伝える。
「あいつの能力が分かったよ、ラナ・カン」
「分かったのか?」
「ああ。あいつの能力は恐らく体術系。前にあいつを見たとき、妙にごつい手袋をしてたんだ。それにあのブーツ。あいつの戒具はあれだろう」
「直接攻撃で戒力を与えるのか?」
「多分。だからラナ・カンの飛び道具である炎は相手にとって相性が悪いんだ」
「なるほど、一理あるが……」
「だから、佐々倉想平が言ってるのは本当のことだよ。こちらが火を吹こうとしている以上、あいつはこちらを攻撃できない。大丈夫、このまま逃げれるよ」
「油断するなよ、奏」
 奏は神妙に頷いてから、佐々倉想平から距離を置いた。
「少しでも近づいたら火を吹くからね」
 そう言うと、佐々倉想平は「嘘は言わない」と真剣な顔をして頷いている。
 奏は正面を佐々倉想平に向けるように後ずさりした。
 目指すは出口だ。
 少しずつ、後ずさりして佐々倉想平に距離を開ける。
 佐々倉想平は特に不審な行動を見せないまま、奏とラナ・カンを見ている。
 距離が十メートル開く。
「確かに何かする様子はないな」
 ラナ・カンが呟くが、返事は出来ない。
 スプリンクラーと外からの放水で床は盛大に濡れ、靴を濡らし重くしている。
 何かしてきたとしても、床に広がった水溜りお互いに足枷となる。
 身体捌きを必要とする体術ならばなおのこと、この場所は不利である。
 不利であるはずなのに、佐々倉想平はこの場所で待っていた。
 そして自ら攻撃の意志は無いと、逃げる奏をただ見つめているばかり。
 広いホールの端から端までの距離が開く。距離にして二十メートルほど。
「ここまでくれば」
 奏はそう言って、佐々倉想平に背中を向けた。そのまま、正面にある玄関を目指す。
 そのときだった。
 空気を切り裂く、異様な音が奏の耳に届く。
「馬鹿が!」
 同時に、佐々倉想平の声が無人のホールにこだました。
 奏は慌てて佐々倉想平を振り返る。
 振り返った先、佐々倉想平の位置は変わっていない。
 しかし、別のものが迫ってきていた。
 矢のように鋭角な何かが空気を切り裂いて、奏に迫る!

 

 やはり、ただの子供!
 佐々倉想平は勝利の予感に、口元が緩むのを我慢できなかった。
 二十メートルの距離が開いた奏と人外。
 この距離、この水溜り、障害物も無いこの場所こそが、佐々倉想平にとって立地的、環境的に最高の場所だったのだ。
 安心できる距離と判断したのか、奏が背を向けたその瞬間だった。
 佐々倉想平は喚起とともに右手を持ち上げる。
 持ち上げた右手の先端を奏にロックオンする。
 佐々倉想平の力は、戒具であるグローブから放たれる戒気の砲撃である。
 おおよそ射程距離は見渡せる限り。
 照準の制度は、何年もの修行にて鍛えており、二十メートルくらいなら百パーセントの確率で当てたい場所に炸裂させる事が出来る。
 佐々倉想平は愚かしくも背を向けた奏の背中に向かって、立て続けに戒力の矢を三本放った。
 見る見る三本の矢が奏の背中に迫ってゆくのが見える。
 振り返ったときにはもう遅い。
 この矢が自分の胸に刺さっているのを目撃するだろう。
「馬鹿め!」
 佐々倉想平の喚起の声と同時に、戒力の矢が突き刺さる!
 ――はずだった。
 バリバリと稲妻が落ちるような音がしたと思うと、三本の矢は奏の一メートル正面で停止していた。
 確信していた。
 この矢が相手に炸裂するまでの駆け引きの完璧さ。環境の完璧さ。
 飛び道具である戒力の矢の射程距離は長い。転じて、ラナ・カンの炎はいいところ十五メートルの射程距離だろう。
 ここまで離れれば相手の攻撃は届かないし、この水溜り。矢を躱そうにも水溜りが足かせとなり、機敏な動きなどできるはずが無い。加えて矢の精密度。状況は佐々倉想平の勝利を物語っていた。
 なのになぜ!
「なぜ止まった!?」
 矢が届かない。
 いや、奏に炸裂する直前、一メートルの距離で停止している。
 佐々倉想平は慌てて第二段の矢を放った。
 三本。
 メジャーリーガーの投球を凌駕する速度で襲いかかる矢は、やはり奏の一メートル手前で停止した。
「なぜだ!」
 奏は佐々倉想平の声には何の回答もせず、背中を向けるとそのまま正面玄関を出て行った。
 呆然と立ち尽くす佐々倉想平。
 奏と人外が玄関を出ていなくなると、佐々倉想平は慌てて、空中で停止する矢の元へ駆け寄った。
「これは……!」
 空中に停止する矢を見て、佐々倉想平はその場にへたり込みたくなった。
 どうにか経ち続けると、背後から声がしてゆっくりと振り返る。
 見えたのは鳩谷多恵や俵原孝司、山本クリスティーヌたち。他にも見た事のない人間が沢山玄関ホールに現れた。
「佐々倉! 奴らは!?」
 怒鳴りながら近寄ってきた俵原孝司に、物言わず空中に停止する戒気で出来た矢を指差す。
「まさか」
「逃げられたよ。こんな防ぎ方をするなんて。いや、方法よりもむしろ、あの駆け引きの中、僕の能力を見破っていたことだ」
「ぐたぐた言うんじゃねえよ。結局逃げられたってことだろ」
「ぐっ」
 失態をどうにか格好付けて体裁を取り繕おうとしたのに、無粋なことを言う男だ。
 デリカシーの無い大男の背後から、見たことの無い女が現れて「どっちに逃げたの?」と訊ねてきた。
「正面玄関から出て行った」
「正面玄関? まさか、だって正面から出て行ったら、捕まえてくれって言っているようなものでしょ」
「さあ、どうかな。僕が彼の立場でも正面玄関から逃げると思うよ」
 見知らぬ女が振り返る。
 童顔の小柄な女だが、その双眸には知的な光が見える。
 言わずとも、理由を悟ったらしい。
 彼女は天を仰ぐように溜息を漏らす。
「なんてこと。ここまで翻弄されて、挙句の果てには逃がしてしまうなんて」
 うな垂れている暇は無い、という決意の篭った表情で自分を取り戻した女は、自分の部下であろう女に指示をした。
「千佳! すぐに救急車を抑えて!」
 千佳と呼ばれた女は、訳のわから無そうに首をかしげた。
「奏くんは救急車で逃げるはずよ! 逃げ切られる前に、奏くんの乗った救急車をこちらで抑えて、彼の所在を把握するの! 絶対に逃がさないで!」
 理解したのか、千佳という女は慌てて携帯電話を取り出してどこかに連絡を取った。
 しかし、僕の矢を結界で防ぐとは。
 彼は最初から、僕の武器が飛び道具だと気づいていたのだ。人外と茶番めいた会話までして距離を置き、こっそり結界を張って攻撃を防ぐとは。
 僕が自分に有利な環境を選んだことで、逆に彼にヒントを与えてしまったのか。
 だからと言って……。
 彼にしてみたらパニック状態に陥っても仕方無いような窮地だったはずだ。
 そんな状態で、この大家貴信のお抱えの一流軍団である藪北ファミリーから見事逃げ出すなんて。
「非常に興味がある……」
 佐々倉想平の呟きは誰にも聞かれることはなかった。

 

 正面玄関より出てきた奏に群がってきたのは委員会の術師などではなく、消防隊の隊員たちだった。
 一人に毛布をかぶせられ、もう一人に肩を抱かれて、もう一人に待機していた救急車へ案内された。
 救急車までの道のりで、周囲を観察してみた。
 不安げな顔、心配そうな顔、野次馬根性丸出しの興奮気味に高潮した顔。その中にあって苦々しげにこちらを睨む人間、無表情で瞬きもせず睨みつけてくる人間が委員会の術師だと思われた。
 救急車の中で救急隊員に「気分は悪くないか」「痛いところはないか」と質問攻めに遭いながら、おそらく誰にも見えていないラナ・カンを抱えながら、どうやって逃げ出そうか考えた。
 このまま病院に担ぎ込まれては、袋小路に追い込まれたのと同じだ。
 逃げる方法を考えなければならないのに、頭の中では先ほど手に入れた奇妙な御札のことで頭がいっぱいになる。
 見てくれは普段使用している御札と変わりはない。ところが、発動条件のキーワードとなる文様は存在しなかったし、どこからどう見てもただの立方体の木片のような御札。
 だが、一目見てその異様さは否応なしに目立った。
 これは一体何なのか。
 どうしてこのことは誰にも伝えられないのか。
 これが極秘にされる意味が分からない。
 行き先の病院を探している救急隊員の横でこっそりラナ・カンに声をかけた。
「俺を背負って走れる?」 
 奏のひざの上に丸くなっていたラナ・カンは愛らしい顔を上げ、奏を見上げた。
「それは大きくなれるかってことか?」
 愛護欲を煽る愛らしい声でそう問われ、奏はうなずいてみせる。
「出来たとして五分。火を吹くよりは優しいが、長い時間大きくはなれないだろう」
 五分。
 五分を道なき道を行けば、追っ手は撒けるだろう。
 何から何までラナ・カンに頼っていることに情けなく思いながらも、奏は改めて「頼む」と小声で伝えた。
 これが最後。
 もうラナ・カンには頼らない。
 お前を隔世に戻すんだ。
 もう力を使わせるようなことはしない。
 後二日。
 隔世に戻る方法。
 力を圧縮し、退化してイスカ領域の穴へ飛び込む。
 それには圧縮の能力と、例の山に空くはずのイスカ領域の穴の位置と、穴の開く時刻を正確に知る必要がある。
 世界には復元力があるはずだ。無理やりこじ開けられたイスカ領域の穴は、きっとすぐに閉じようとする。閉じる前に隔世に渡らなければならない。
 難関は多い。
「脱出できたらラナ・カンは例の山で休んでいて。ユーナとナユタをつれて、必ず時間までには戻るから」
「その必要はない。私も奏に同行する」
「駄目だよ。もうラナ・カンは動けるような状態じゃないだろ」
「運んでくれさえすれば、いざとなったとき大きくなって力を貸そう」
「もういいんだよ、ラナ・カン。充分力を貸してもらったし、もうラナ・カンは隔世に戻ることだけ考えて」
 ラナ・カンは答えなかった。
 分かってる。ラナ・カンは隔世には戻らない決意で現世に来たのである。力尽きるそのときまで、人外の襲来の戦いに参加するつもりだ。
 だとしても、奏は無理やりにでもラナ・カンを隔世に戻すつもりだった。
 気に入らないが藪北ファミリーの力は本物であったし、日本に術師は一万二千人も存在する。集結すれば、力の弱い人間だって人外危機に対抗できるはずだ。
 ラナ・カンは充分に貢献した。
 家族に会うために帰るべきだ。
「ラナ・カンには隔世に戻って、現世の状況を報告する必要もあると思うんだ」
「詭弁だな。我々の国際連盟はレジスタンスにやや遅れを取っているが、いずれ我々の世界とこちらの世界を行き来できる方法を見つけ出すだろう。まだ先の話になると思うが、私はそれまでこちらでレジスタンスたちの活動を阻止するのが目的だ。報告は必要ない」
 何を言ってもラナ・カンの意思は変わらない。
 奏の意思だって変わらない。
 どうにかするんだ。
 大家貴信だろうと鳴音弦だろうと委員会だろうと何でもいい。
 現世の出来事は現世側の人間たちで解決しなければ、この先の世界の変動にいずれ人間は敗れてしまうのだ。
「そろそろラナ・カン」
「承知した」
 奏は救急隊員の隙を見て、後部の扉を開け放った。
 観音開きの救急車の後部を開くと、過ぎ去っていく道路のアスファルトが見え、後続の追っ手だと思われる車が付いてきているのが見えた。
 車内は騒然となる。
 風と罵声が飛び交い、救急隊員が奏の異常行動を阻止しようと掴みかかってくる寸前でラナ・カンが巨大化した。
 巨大化すると同時に奏がラナ・カンの背に乗り、ラナ・カンは救急車を飛び出すと、後続の車を踏み台にして高く高く飛び上がったのだった。

 

 自然管理委員会が来るべき人外危機を大家貴信から知らされたのが、来襲から数えて七日前だった。人外災害対策室の室長である大家貴信が人外危機に対する対応策を自然管理委員会に提示、プレゼンを行ったのはラナ・カンが自然管理委員会本部を襲撃する前日だった。
 大家貴信が講じた対応策とは以下のもの。
 北京条約で禁止されているA級の御札の解禁、および大家貴信が新規開発した新型の戒具の使用。
 この二つの提案にはもちろん乗り越えなければならない壁があった。
 まずひとつに北京条約で禁じられているA級の御札であるが、国際社会にあって条約を反古することは容易ではない。人外対策国際連盟の連盟国を説得するだけの理由が必要であるからだ。
 強力な人外が現れるという人外危機の信憑性の証明が急務となる。
 それは大家貴信が幽閉中である二体の人外のうち、一体をお披露目することで証明しようとしたが、すでに大家の胸中には翌日行われる予定の「自然管理委員会への人外急襲」が出来上がっていたので、それは実現されることはなかった。
 人外襲来の証明の手段はある。ならばあとは大家貴信が開発した戒具の使用の承諾を連盟に承認させなければならなかった。一国の技術力の特化を嫌う国連は強力な武器、新しい技術の使用に神経質だ。連盟国の力関係を一定、平均に整えて力関係が崩れないようにバランスを保つことが連盟の役目なのだから仕方がいないが、新規開発の戒具を使用しなければ、来るべき人外危機に対し、現在のところ有効な手段がない以上、自然管理委員会はある程度の妥協を強いられた。
 まずは、日本だけに現れる前代未聞の希少な人外を、貴重なサンプルと捉える各国の科学者たちへ「サンプル」の提供を約束しなければならなかった。
 強いては主に中国、アメリカ、ドイツから派遣される術師、および研究者たちを日本に迎え入れを承諾しなければならなかった。
 海外からの人員派遣は、オリンピックの混乱同様、海外からのスパイの進入を許してしまう危惧がある。人外殲滅の技術の先端を行く日本の技術力が海外に流出することで、連盟国間のバランスの悪化、日本の発言力の低下が懸念された。
 貴重な人外の標本を日本だけで独り占めすることも出来ず、極秘にしようともいずれ知られてしまう人外来襲について、口を閉ざすリスクを負うよりは海外人員を受け入れる選択をした。
 連盟国の当座の信頼を得たことで、大家貴信が極秘裏に計画したラナ・カンによる自然管理委員会への急襲(これは自然管理委員会も真相を知らず、大家の茶番劇だと知る人間は大家貴信本人と数人の腹心だけである)。
 このことで世界中の人外殲滅組織に対し衝撃を与え、新規開発された戒具を全世界に宣伝したのである。
 誰にでもある程度の力を発揮することの出来る戒具。
 これは手間や単価の高い御札の終焉の鐘を鳴らすきっかけとなった。
 御札が人外殲滅の主役を演じていた時代は終わり、もっと安価で効率の良い戒具が主役に躍り出る。大家貴信は想信じて疑わなかった。
 事実、ラナ・カンの襲撃により新規開発された戒具の力が実証され、世界中からの買い注文が自然管理委員会に殺到したのである。
 大家の手の内で踊らされる自然管理委員会。
 真相に気づく者は居たかもしれないが、大家貴信の影響力のもと、異論を唱えるものなど皆無だった。
 A級の御札が大量生産され、情力を御札に入れ込むために多くの術師が力を使い果たした。
 大家貴信の腹心である藪北ファミリーを中心とし、編成された人外危機対策部隊が人外討伐に先頭を切る機会は早々に実現したのである。
 すべて大家の思惑通りに進む中、あとひとつの課題のみが残されていた。
 ラナ・カンが証言した、人外襲来を前日に控えた午後。
 大家貴信が私的な資産を投じて作った研究所。
 今となっては公になった研究所の地下施設の一室。
「もう……許してください……」
 何の温かみもない黒い壁の部屋。
 部屋の中央に両手首を縛られつるされた人外がいた。
 人外の半裸の体には、いたるところの皮膚が破れ、血がにじんでいた。
 腫れ、出血、火傷、さまざまな傷が体を縦横している。
「なぜこんなことを……」
 悲しみに暮れた声が誰もいない一室に力なくゆらぐ。
「私はなにも……」
 万歳する形で腕をつられ、足は床を離れかすかに揺れている。
『そろそろ喋ってもらいたい。時間もないしな。耐えれば耐えるほど、つらい目に遭うだけだぞ』
 部屋の天井付近に取り付けられたスピーカーから漏れてきた無機質な声は大家貴信のものだった。
 黒い部屋には大きな鏡がある。鏡は吊るされて痛んだ人外の全身を映しているが、その向こう側では大家貴信がマイクに向かって口を開いる。
『何度でも繰り返し聞く。明日の人外襲来の位置は? 時間は? 正確な情報を知っているはずだ。それと、勢力だ。どんな人外が、何体やってくる?』
「知りません……わたし、そんなこと……」
『ならば君はいまなぜ目を覚ましている? 力を使い果たして昏睡状態ではなかったのか?』
「……帰れると……あの人が言ったから……力を温存しようと……」
 消え入るようにそう言った人外は、がっくりとうな垂れて意識を失った。
『やれ』
 大家貴信の合図とともに、人外は雷に打たれたかのように体を激しく震わせ、壮絶な悲鳴を上げた。
 音はない。
『目を覚ましたところでもう一度たずねるが、明日の人外の襲来が起こる正確な場所と時間――』
 そんなやり取りが何度も、何度も続けられた。
 永遠に思える反復の中、人外は観念したようにポツリと漏らした。
 まるで寝言のように。
 悲痛の極まった慟哭のように。
 人外の頬に伝った滴が床に落ちるまでの間、きらりと煌いた。
「七色の洞窟に――」
 人外は再びがっくりとうな垂れると、次からは大家貴信が『やれ』と言って人外に苦痛を与えようとも、二度と目を覚ますことはなかった。
 やがて反応のなくなった人外から視線をそらし、大家は隣に控えていた相馬に視線を転じる。
「聞いたか、相馬」
「ええ、確かに『七色の洞窟に』と」
「場所の見当は付くのか?」
「いいえ、残念ながら。しかし、これから部下に総出で当たらせれば明朝までには見つけられるかと思います」
「言葉の意味そのままの場所があるのなら見つかるだろうが……」
 大家貴信は口元をぬぐうように思案をめぐらせた。
「最後の力で言った言葉だ。虚言とは考えにくいな。『七色の洞窟』か。何らかの比喩だろうか。本当に七色の洞窟など存在するのか」
 大家には、傷つき悲しみ苦しみ、絶望する人外などに微塵の同情心も興味もない。
 すでに思考は人外から離れ、別の海を漂っている。
「あの人外も、やはり駆除するおつもりで?」
 相馬は興味本位に尋ねてみる。
「当たり前だろう。生かしておいて何の意味がある?」
「いえ、そのとおりです」
 大家は彫りの深い相貌を相馬に突き刺した。
「勘違いするなよ、相馬。これは現世での人間同士の戦争じゃない。相手はたかが人外。家畜以下の存在だ。お前が人権だの同情心だの抱いているのなら考えを改めろ」
 相馬は恐縮して頭を深々と下げる。
「人外に人権なんて考えるな。あいつらはクソだ。俺たちに何の利益も生み出さず、無利益どころか百害をも足らず病原菌だ。そして俺たちは抗生物質。抗生物質が病菌を殺すのにためらうと思っているのか?」
 興味本位のいたずらな質問が大家の気分を害してしまった。
 相馬は冷や汗を流しながら、ハンカチ片手に何度も頭を下げるしかなかった。
 
 
 
 少し眠る。そう言い残して奏の腕の中で意識を失っているラナ・カンを、怪我のしていない左腕でかかえながら「園山」にやってきたのは昨日のこと。
 自然管理委員会本部ビルから脱出して、人目を避けながらたどり着いたのはラナ・カンと初めて出会った山である。山の正式名称は「園山」というらしいが、もはや園という漢字に当てはまるような優しい場所ではなくなる。
 明日、正確な時間は分からないがこの山は戦場になる。
 園山の入り口はごく目立たないように警戒態勢が敷かれており、何人もの自然管理委員会の術師を見かけた。
 山の中に立ち入ってからも同様で、様々な言語を発する多国籍の術師を見かけた。
 自然管理委員会の事情は良く分からないが、この窮地に委員会は海外勢の術師を呼んだらしい。
 奏は園山を徨って見つけた洞くつにラナ・カンを休ませた。小さな洞窟の入り口には巧妙に枯れ木でカモフラージュして隠した。
 奏は一人、洞窟から出る。
 痛む右手を持ち上げてみた。
 それだけでバットで叩かれたような激痛が走り、慌てて右手を力なく下げる。
 怪我の具合は良くなっていない。
 ラナ・カンには折れていないと言ったが、もしかしたらひびくらいは入っているかもしれない。
 腕をまくり、患部を観察すると二の腕辺りが紫に腫れ上がっている。
 それでもやるしかない。
 ユーナとナユタはきっと浅薄で軽々しく口にした奏の「隔世に帰す」という言葉を信じているはずだ。
 もう裏切ることはしない。
 もう諦めないと決めた。
 奏は自然管理委員会本部ビルの地下から盗み出してきたS級の御札を取り出すと、槌の中から頭を覗かせる岩の上に置いた。
 発動させる方法。
 つまり、過去の英雄を復活させる方法。
「奏」
 声をかけられて振り返ると、子猫サイズのラナ・カンが起き出して洞窟から出てきた。
「まだ休んでろよ」
「動く分には大丈夫だ。それより、ここは例の山なのか?」
「そうだよ」
「ふうむ。隔世からの解放軍が襲来するのは明日だ。奏も休んでおけ」
「そういう訳にもいかないよ。明日までにやらなけりゃいけないことは沢山あるんだ。ユーナとナユタを連れ戻す。それにこの御札の発動。それから、この山に開かれるイスカ領域の正確な位置……」
「奏よ、何度も言うようだが、それだけの課題があって時間も無い。貴殿も怪我を負って満身創痍だ。貴殿にはなんの責任も義務も無いのだ。実現できなくても誰も貴殿を恨んだりしない」
「でもあとちょっとなんだ。綱渡りみたいだけど、あとちょっとなんだ」
「しかし、その御札を発動する条件さえ分からないんだろう」
「御札……」
 岩の上に置かれた十センチ四方ほどの黒色の物体。
 通常の御札とさして変わりはない。
 だが、この異様さはなんだ。
「ラナ・カン。なんなんだろう、この御札。奇妙じゃないか?」
「奇妙? いつも貴殿が持ち歩いている御札と大して変わりはないじゃないか」
「俺が持ってる御札はこんなの出ないよ」
 ううん、と唸ってみる奏。
 その御札が締めるメッセージの意味合いを考える。
「一体どういう意味なんだろう。『封じる準備は出来ているか』って」
「なに? 何を言っている?」
「伊集院照子のメッセージなんだろうけど」
 ラナ・カンがとことこと回り込んで、奏の正面に立った。
「貴殿はさっきから何を言っている?」
「だから、書いてあるだろう。伊集院照子の名前とメッセージ」
「どこにだ?」
 ふ、と奏の思考が止まる。
 一瞬後、ふたたび思考回路が動き出したとき、口が勝手に動いた。
「ラナ・カン、見えないのか?」
「だからなにがだ」
 奏は呆然とラナ・カンの顔を見返していた。ラナ・カンには見えていない? あれは自分の幻覚なのか?
 奏は再び御札を睨みつける。
 御札の上部に、まるで近未来のホログラムのように立体に飛び出した文字。
 確かに見える。
 ラナ・カンが御札を振り返りながら言った。
「なるほど、あの御札にメッセージが書かれているのだな。だけどそれは私には見る事が出来ない。人間だけに向けられたメッセージなのか」
「いや、そんな器用な真似はできないよ」
「まあいい。なんて書いてあるんだ? 読んで見てくれ」
「うん」
 文字は短い。
 だが、内容は余りにも奇妙で滑稽。これを口にして読むのは、ちょっと抵抗があるのである。
「いくよ」
 ラナ・カンの瞳が興味津々そうに輝いた。
「『この中には絶世の美女であるわたくし伊集院照子が入っているので取り扱いは慎重に! 読んだあなたに質問。封じる準備は出来ているのか』って内容」
 拍子抜けしたように「はあ?」と息を吐くラナ・カン。
「それだけなのか?」
「そのまま正確に全部読んだよ」
「その内容では意味が――」
 ラナ・カンが言い終わらないうちだった。
 
 ちゅどおぉぉぉぉん!
 
 轟音が鳴り響いたと思うと、周囲が土煙にまみれ、視界が失われたと思うと、劈く轟音に聴力も奪われた。
 気づくと本能的に地面に踞っていた自分に気づく。
 何が起こったのか。
 自分は無事なのか。
 近場での爆音。
 自分の腕や足が吹き飛んではいないか。
 ふとラナ・カンの行方が気になり「ラナ・カン!」と怒鳴った。
 頭上から巻き上がった土が雨のように落ちてくる。
「なんだこれは!」
 ラナ・カンの叫び声が遠くから聞こえた。
 弦を弾いたかのような耳鳴り。土煙でふさがれた視界。
 頭は混乱。
 目と鼻の先に爆弾でも落とされたのか。
 思わず手足の所在を確認して、無事であることに安堵する。
「大丈夫か、奏!」
 土煙の中、ラナ・カンが近寄ってきた。ラナ・カンの純白の毛並みは土煙ですっかり茶色に変化している。
「何が起こった!?」
「分からない! 何か爆発したみたいだ!」
「爆発って……!」
 ラナ・カンが奏を見上げた。
 その顔を見下ろしながら、ラナ・カンの思い至った結論と、奏の結論とが合致し、しばし見詰め合った。
 まさか……!
 奏は全身を粟立たせながら顔を起こし「御札のあった岩」の場所を睨みつけた。
 土煙は徐々に風に流され、視界から横滑りして行く。
 ラナ・カンも注目した。
 さらさらと音を立てて、やがて土煙が森の奥に飲み込まれていくと、風に払拭されクリアになった視界に飛び込んできたのは、直前まで御札の置かれていた岩の上にうずくまる人。
 奏とラナ・カンはただひたすらに注目しているしかない。
 やがて、ゆっくりと岩の上の裸体がうごめき始める。
 半裸である。
 身に着けているものは腰に巻いた布一枚。
 見るからに隆々とした筋肉と、大きな骨格。
 ――男だ。
 男は石になっていた筋肉を砕くように、石臼を回すような音を立てて、ゆっくりと身体を起こし始めた。
 背を向けている。
 男はこちらに気づいていないのだろうか。
 あれが――伊集院照子?
 伝説の明治の英雄?
 何かが沸き起こるように立ち上がった男は、強固そうに発達した後背筋を躍動させながら、翼を広げるように両手を広げた。
 そして振り返る。
 まるで優雅に踊るように。
 長髪の黒髪。
 その奥に隠れた瞳。
 その瞳が確かに奏を捕らえた。
「緑眼――!?」
 奏が呟いたとき、男が不意に右腕を持ち上げた。
 その表情から、心情は読み取れない。
 男は物言わず、持ち上げた右腕を額の付近に持ち上げると、まるで周囲に飛び交うハエを振り払うかのように右腕を横薙ぎにした。
 何をしたのか。
 奇妙な行動。
 男は驚愕の表情を浮かべた。不可解そうな表情を浮かべている。
 何かしようとしたのか。
 何かしようとして、結果、思い通りの現象がおきず、納得いかなそうな表情。
 男はおもむろに奏から視線を外らすと、ゆっくりと周囲を覗う。
 るるる、と男の喉が鳴った気がした。
 すると男はまるで跳躍するように駆け出した。
「あ!」
 声を上げたときにはもう遅い。
 男は疾風のように森の奥に走り去って行った。
 しばし、呆然と金縛りにあう奏とラナ・カン。
「なんだ、今のは」
「なんだろう……伊集院照子は女性じゃないのか?」
 女性だったはず。絶世の美女かどうかは分からないが、少なくとも残っている文献には女性と書いてあったし、実際御札に残されたメッセージには伊集院照子からと思われる文面が載っていたではないか。
「なんで……逃がしたんだ」
 背後から声がして、奏は殴られたかのように振り返った。
 振り返った先に、地面に横たわる――今度は女性。
「お前……封じる用意もせず……封印を解いたのか?」
 喋るのも辛そうに地面にひれ伏したまま苦しげな声を出す。
 長い髪に顔面は覆いつくされている。
 奏は恐る恐る訊ねた。
「あなたは……伊集院照子さん?」
「あ……たり前だろう」
 そう言ってゆっくり立ち上がろうとしている女性は細すぎるほどの肢体だった。
 身長は奏と同じくらいと想像される。これが伝説の英雄……。
「なぜ封じる用意もせず……御札を発動した?」
「発動って……どうして発動したのか良く分からないし……」
「分からない? 発動方法はしっかり残していたはずだ。解読しなければ発動は不可能」
 そう言って顔を上げた女性。
 これが……伊集院照子。
 髪は残バラに乱れ、まるで寝起きの様相である。
「お前は自然公安保全局の者か?」
 伊集院照子が額をなでつけながら訊ねてくる。自然公安保全局は自然管理委員会の旧称である。
「はい。……あ、いえ。元保全局の人間です。保全局は現在では自然管理委員会といいます」
「元? そんな人間が私を復活させたのか? それにしてもここはどこだ。今は明治何年だ?」
「明治……いや、いまは平成って言う世の中で、伊集院照子さんが居た時代から百年近く……」
「百年後……!? そんなに眠っていたのか? では、百年もの間、人間はわたしの封印を説く手立てを発見できなかったということか!?」
 どうやら憤慨しているらしいが、理由も事情も全く分からない。
 発動するて手立てが無かった?
 S級の御札はただ保管されていただけではなく、発動方法が分からないまま保管されていたということなのだろうか。
「おい」
 伊集院照子が奏を睨みつけながら、踏みよってきた。
「とりあえず、現在の自然公安保全局まで連れて行け。それから食事と寝床の用意だ。事情はそれから聞こう」
 委員会に連れて行く。
 そんなことは出来ないし、事情も説明しづらい。
「あの……伊集院照子さん……」
「なんだ」
 まるで突き刺すような視線。
 奏は事情を説明したら、抹消されるのではないかと恐怖を抱きながら言った。
「委員会には戻れなくて……」
「なぜだ」
「それが……」
「しっかり説明しろ、奏」
 そう言って、奏の肩口に乗ってきたラナ・カン。
 それを見て、伊集院照子が目を丸くした。
 口をわなわなと震わせて、ラナ・カンを指さした。
「わ、わ、わたしの聞き間違いでなければ、いま猫が喋ったように……」
「猫とは失敬な。私はラナ・カン。貴女で言うところの『隔世』の住人だ」
 伊集院照子は絶句を絵に描いたような表情で、しばし大口を開けて愕然とした。
 数秒後、自分を取り戻した伊集院照子は「まてまてまて」と呪文のように唱えて、おぼつかない足取りで岩の上に腰掛けた。
 頭痛がするのか、コメカミの付近を揉みながら唸っている。
 伊集院照子はふらふらと定まらない指先をラナ・カンに向けながら言った。
「とりあえず事情を説明してくれ。それは人外だな? なぜ術師と人外が親しくしている? いやまて。いい。とにかく事情を説明してくれ」
 明らかに取り乱している様子。
 奏は心底不安に思いながら、事情を説明し始めたのだった。

 

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