あっちから変なの出てきた

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第四章 【 プレイバック Part 2 】


 奏は家に帰ってきてからというものの、丸二日間部屋に閉じこもりっぱなしだった。帰ってきた直後、奏の姿を見た琴はまず思い切り頭を引っ叩き、次に思い切り抱きしめた。
 奏が琴の胸の中で大泣きし始めたことで、奏の一ヶ月あまりの旅がいかに過酷で、奏を痩せ細らせてしまうほどに追い詰められたものだったのか思い知り、琴は奏を抱きしめながらひどく切なくなった。
 事情はほとんど知らない。だけど無垢な奏は一ヶ月あまりでひどく傷つき、しばらくは立ち直れないほどに精神に傷を負ってしまったことは分かった。
 父親も「落ち着くまでは」と奏を叱り付けるのは後回しにしたようだ。父親もこの事態の後始末に翻弄する必要があるらしく、朝早くから家を出て行った。
 長男の弦は、失態を犯した奏の監視役、監察官としてしばらくは実家に居座るようだったので、幾度となく事情を説明しろと詰め寄ったが、結局何も話してはくれない。
 特に弦の様子もおかしかった。深刻そうな顔をして、家にいる間も幾度となく携帯電話で誰かと連絡を取り合っている。
 弟の階も無関心を装っているものの、奏の様子が尋常ではないことは気づいているようで、意味もなく家をうろついて、奏の様子を気にしているような場面を多く見た。
 琴は母親の仏壇に手を合わせながら「奏を元気にしてあげて」と母親に頼み込む。この一ヶ月、いったい奏に何が起こって、どうして影を落としたように暗くなってしまったのか。琴は心配で仕方がない。自分にできることはないかと探しても、結局は日に三度、食事を部屋まで持って行ってドアの前においてやるくらい。次の食事の時に全く手をつけられていない食事を回収する度に涙が出そうだった。
 琴はいつもの調子で奏をしかり付けることも出来ず、「食べないとだめだよ、死んじゃうよ」とドアの前で繰り返し問かけるばかり。琴があまりにも心配し過ぎるものだから、見かねた弦が私を安心させようと言った。
「そんなに心配するな。人間、生きてりゃ苦しむこともある。時間が解決するさ。それに俺は奏とは日に二度の面会を義務付けられてる。あいつはちゃんと喋ってるし、俺が持っていったパンや飲み物を目の前で無理やり食わしてる。そのうち復活するさ」
 そのときだけ、張り付いたような微笑を作る弦。私を安心させたいのなら、事情を説明して。この一ヶ月、奏はどこで何をしてたの? 一緒に逃げていた人外はどうなったの? 問い詰めても言い渋る弦。
 奏が部屋に篭って二日が経ったお昼時のことだった。

 その衝撃的なニュースは、まずテレビ報道の速報で知った。
 前代未聞の、それこそ地球の創始以来、初めての世界を震撼とさせた衝撃の事件だった。
 琴は奏の件以来、仕事以外は大学を休んで家にいるように努めていたので、その日も台所で昼食の準備をしながら時々テレビのワイドショウを眺めていた。
 最初は気づかなかった。
 ただの火事の報道だった。
 それが後に、人外に携わる全世界の人間を震撼させるニュースだと気づいたのは、弦が真っ青な顔をして今に飛び込んでくる五分後のこと。
 琴は火事の報道をリアルタイムに放映しているワイドショウを眺めながら一切の嫌な予感も、その火事が如何に身近に起こったことなのかも気づかなかった。
 レポーターが興奮気味な声を上げて、火事の現場を指差しながら必死に説明しているが、それは文字通り対岸の火事であり、内容も頭に入ってこなければ、昼食のハンバーグを焼く手も止まらない。
 火事は神奈川県の某市にある高層ビルで起こった。
 派手に燃え上がるような火事ではない。最新の高層ビルが炎を巻き上げて燃え盛ることはまずありえない。ビルの複数の箇所から煙が上がっているのが見え、消防車が連なって放水を続けている。
 誰か死んだりしたのだろうか。閉じ込められている人は?
 神奈川県の某市。
 あれ、そこは。
 気がかりがあって、焼きあがったハンバーグ四つ(兄弟四人分)を食卓に置きながら、テレビ画面を注視した。
 その時だった。
 弦がけたたましい音を立てて居間の扉を開いたと思うと、携帯電話片手に真っ青な顔をして私を見た。次に殴られたかのようにテレビ画面を見ると携帯電話に向かって「まさか」と呟いた。
 尋常ではない雰囲気に一抹の不安に駆られる琴。
「なに? どうしたの? 何かあったの?」
 振り返った奏の目。なんて顔だろう。こんな弦の表情を普段見たことがない。
 全身に嫌な汗を掻いた。
「気づかないのか? このビルは自然管理委員会の本部ビルだ」
「えっ!?」
 琴はテレビ画面に駆け寄って、念力でテレビに穴が開くほど睨みつけた。
「た、確かに……!」
 本部が火事。
 確かに一大事だ。
 本部ビルは当然、その業務内容を世間に公開できるようなものではなく、表向きは別の顔を偽っているはずだ。
 火事という災害だけではなく、こんな形で世間に注目されてしまうのもまた、大問題である。
 確かに大事である。だが、そうだとしても、弦の慌てぶりは尋常じゃないと琴は思った。
 誰か身近な人が亡くなったのか。説明が欲しくて弦を見ると、携帯電話を閉じたところだった。
「大変なことが起こった。……何てことだ。大家貴信、ここまで狂った男だったとは……」
「大家貴信? 大家貴信ってあの大家貴信のこと? あの人が何の関係があるの?」
 弦が睨み付けるように琴を見た。その緑眼に内心、恐れて慄く琴。
「ち、俺としたことが」
 口を滑らせたらしい。気になって「どうしたって言うのよ」と詰め寄ると、弦は絶対に口外しない約束を私に結ばせ、説明を始めた。
「大家貴信のテロ行為だ。あの狂人が本部に攻め込んだんだ」
「攻め込んだ?」
 意味が分からない。なぜ大家貴信が本部に攻め込む必要が? しかも日本の自然科学技術界の至宝といわれるあの英雄が。
「大家貴信が仕組んだ茶番さ。そうか。こういうことだったんだな」
「ちゃんと説明してよ。どういうことなの?」
「テレビ画面からは見えてこないが、この映像の先に一匹の人外がいる。それも強力な人外だ。ビル一個くらいなら燃やし尽くせるほどのな」
「人外って……そんな、まさか」
「信じられないだろうが本当だ。一等級などというレベルを遥かに飛び越した人類史上最強の人外が本部に攻め込んだのさ」
 なんでそんな人外が現れたの? 誰か死んだの? 本部の術師たちはどうしているの? 質問が怒涛のごとく湧き出してくるが、琴はいま一番気になっている質問をした。
「大家貴信が何の関係があるの?」
「仕方無い。教えてやるが、さっきも言ったとおり間違っても誰かに喋ったりするなよ。それに、ある程度覚悟もしてくれ」
 覚悟?
 この場面で使用するには、あまりにも危険な香りを放つ言葉だった。
 琴は逡巡したが、琴にだって弦の立場の危うさは理解しているつもりだ。弦が「口外無用」と言うのなら、それに従おうと思った。
「以前、隣町の山奥で人外の亡骸が見つかった。体長十五メートルを超える巨大な人外だ」
「十五メートル……」
 そんな事実、誰も知らされていない。
「そいつの仲間ってこと?」
「いや違う。どちらかといえば、そいつの敵だな。十五メートルの巨大な人外を葬った人外が、いま本部を攻撃してる」
 意味が分からない。いや、まだ説明は充分ではない。琴は弦の説明を黙って促す。
「実は、その山には奏と、奏が助けた人外も一緒にいた」
「奏が? ちょっと待って、やっぱり分からない。奏が関係あるってことなの?」
「俺はこれから本部に行かなければならない。だから奏の監査役をお前に任せる代わりに、事情を説明してやるが、時間がないから簡単にいくぞ」
 今までに無い絶望感を抱かせる予感。
 平和な世界が崩壊して行くような音を聞きながら、琴は神妙に頷いた。
「奏は俺たちから逃げた後、助けた二体の人外と山奥に逃げた。しばらくは山で過ごしていたが、突然その山奥に十五メートルを越す巨大な人外が現れたんだ。奏たちが現れたのと、巨大な人外が現れたことの因果関係は分からない。偶然かもしれないし、必然かもしれない。だが、事実は以下だ。奏たちは突然現れた巨大な人外に追い詰められることになる。当然、奏には強力な人外に立ち向かう力も経験も無い。だが、奏は生き残った。なぜならそこでまた別の人外が現れて、奏たちは助けられることになるからだ」
 一等級以上の人外のオンパレード。確実に世界が変動しつつあるのを感じながら、琴は嫌な汗を掻くしか術が無い。
「――奏たちを助けた人外。そいつが本部のビルを攻撃してる人外だ」
「分からない。分からないよ、弦。なぜその人外は本部ビルを攻撃してるの? まさか、奏が良くない形で関係してるって言うの?」
「残念だが、全部は話してやれない。だが、これだけは信じろ。奏と関係のある人外がいま本部を攻撃しているが、奏は一切この件に関与していない。あいつは何も知らないんだ」
「俺が何も知らない?」
 琴と弦の背後から、奏の声がして飛び上がるほど驚いた。弦が背後に立っていた奏を見ると、天を仰ぐように唸った。
「いつからそこにいた!」
 奏は心なしか覚束無い足元で近寄ってくる。
「弦兄さんが事情を説明してるときからだよ。どういうこと? まさか、本部のビルを攻撃してるのはラナ・カンだっていうのかよ」
 弦は観念したかのように苦々しく「そうだ」と答えた。
「なんでラナ・カンが!? あいつは人間を攻撃するような奴じゃないよ!」
 奏がものすごい形相で現に詰め寄った。弦が思わず後ずさるほどだ。
「おちつけ、奏。ラナ・カンがどんな人外なのか俺は知らない。知らないが、大体からくりは想像できている」
「からくり? どうしてラナ・カンが本部を攻撃してるの?」
「『共通の敵』だ」
 弦は額に手を置きながら呻くように答える。こんなはずではなかった、という弦の嘆きが聞こえてきそうだ。
「どういういみ?」
「ラナ・カンという人外は嵌められたんだ。あのビルを攻撃することが良い結果を産むとラナ・カンは思い込まされてるんだ」
「そんなこと……」
「どう思い込ませたのかは分からない。あそこが敵の本拠だと信じ込ませたのか。あるいは、先ほども言った『共通の敵』だ。大家の考えそうなことだ。巨大人外の襲来以来、大家貴信が自然管理委員会に対して強力な発言力を手にしたものの、それでも本部の重役たちの腰は重い。大家は業を煮やして暴挙に出たんだろう」
 弦は一つ溜息をはさんだ。
「いいか、お前を信頼して事情を話してるんだからな。間違っても暴走しないと誓え奏。続きはそれからだ」
 緑眼が奏を捕らえる。以前の奏ならそれだけで卑屈そうに目を逸らし、黙って頷いていたはずだ。
「誓うよ」
 よどみなく答えた奏に、琴は不安を覚える。ところが弦は目を瞑りながら何度か頷いて、説明を続けた。
「大家貴信は本部と大家に共通するひとつの敵を明確にすることで、本部の重い腰を無理やり起こそうとしている。より良い形で本部が大家貴信に協力する体制に持っていこうとしてるんだ」
 弦が言い終わるか終わらないかのうち、奏はすでに駆け出していた。
 ――やっぱり!
 琴が慌てて奏を追いかけるより早く、弦が追いかけて奏の腕を掴んだ。
「どこに行くつもりだ。まさか、俺の許可なく外出なんて認めると思ってるのか?」
 弦の表情は険しかった。奏の「誓う」の言葉の嘘など、簡単に見破っていたらしい。
 あ、緑眼が……。琴は全身を粟立たせた。
 琴は一瞬、弦の緑眼が光ったのを見逃さなかった。それは奏も同様だろう。奏は途端に泣き出しそうに眉を顰めた。
 弦は琴を振り返る。
「時間がない。本部には俺が仕切ってる部署もある。俺は本部に戻って事態収拾の指揮を執らなければならない。奏はお前に任せたぞ。絶対に家から出すな」
 琴は曖昧に頷いた。ひどく奏が気の毒になった。だが、奏が本部に出向いたところで何にもならないのだ。弦の許可なく外出したことが知られれば今度こそ鳴音家は立つ瀬を失い、信用喪失どころか業界を追放されかねない。
 琴は責任の重さを思い出し「奏は任せて」と確かな意思を持って答えた。
 納得した弦はすぐに家を出て行った。
 その後、奏は大人しくテレビを睨みつけていたが、琴は一時でも奏から目を離さなかった。

 

 それが起こったのは正午を二十分ほど回ったころのことだった。
 表向きは「総合自然研究所」と名目を持った自然管理委員会の本部施設。神奈川県某市に聳え立つ真新しい高層ビルである。
 本部ビルにはさまざまな部門が無数に入り込んで、日々の自然管理委員会の管理業務、運営に勤しんでいる。
 昼を過ぎた頃、弦の秘書であった遊里が昼食を摂ろうと席を立った。
 遊里は昼食に何を選ぼうかと考えていたかもしれない。昼食時のエレベータの混雑様を懸念して憂鬱になっていたかもしれない。
 だが、事が起こった直後、そんな小さな杞憂など吹き飛んだ。
 地上十八階「イスカ領域調査部」という部門がある。弦が管理責任者であるチーフマネージャーを勤める部門。細かい業務内容は省くが、要するに「イスカ領域」の調査が目的の部門である。
 所属の職員は日本中、時には海外まで飛び回っているため、普段、事務室にはほとんど人はいなかった。
 この日も自宅待機中の弦に変わって職場を取り仕切っていた遊里以外に、出張帰りの数名の職員が出社しているのみで、しかも昼時ということもあり、事務室には遊里を合わせて四名しかいなかった。
 事務所に残っている職員に昼食に出かけようと声を掛け回っていた時、事務所内が微妙に振動し、近くの棚や机の上に置かれた備品が音を立てた。
 それが始まりだった。
「やだ、地震」
 遊里はそう呟いて天井を見上げた。
 震度8までの地震に耐えるし、あらゆる災害に備えて現代のコンピュータ管理における欠点(災害時の停電でエレベータや電子扉が作動しなくなる等の問題)もクリアされた最新鋭の高層ビル。
 ただし、それは「自然災害」に限ってのことだった。人外を相手にする自然管理委員会本部ビルといえども、皮肉なことに「人外災害」に対する備えは一切なかったのである。
 再び床や天井が痺れたとき、遊里は微かな不安を覚えた。事務所に残っている四人も何かを感じ取ったのか、騒然と色めきたつ。
「これは……瘴気?」
 遊里のそばにいた女子職員が呟いた。自然管理委員会に所属している以上、どんな職種の人間でもすべてスクールを卒業しているし、イスカ領域に出向いて調査を行う必要性がある部署であることから、調査員は全員、術師の二級免許を取得している。
 遊里はなるべく焦っている内心を悟れないように、会議室に歩いていった。会議室にはテレビがあるからだ。
 会議室に入ってテレビを点けると、どのチャンネルにも地震速報は流れていない。
 いよいよ異常事態だと悟ったのは、ビル内にけたたましい警報が鳴り響いたときだ。危機感をやたらに煽る警報とともに、不安になった職員たちが寄り添うように会議室に入ってきた。
「遊里さん、これは……」
「分からない」
 答えたとき、館内放送が鳴り響いた。
 −−防災センターよりお知らせです。防災センターよりお知らせです。ただいまの警報は火災探知機による警報です。検知箇所は一階ロビー。ただいまセンター員が確認に向かっております。館内におります職員の方々は次の連絡をお待ちください。なお、これは訓練ではありません。繰り返します――。
「一階ロビーで火災ですって?」
 遊里は声を上げた。
 もっとも火事の起こりそうもないビルの正面玄関である。
 これは、何らかのテロがあった? 先ほどの二度の振動。なにかの爆発によるものではないか。まさか、そんなことが……。
 職員たちが「逃げなくて大丈夫でしょうか」と遊里に不安そうな視線を送る。
「指示を待ちましょう。きっと大したことないわ」
 根拠のない慰め。とうぜん、職員たちは納得しない。
「でもあの振動。それに瘴気。様子を見に行ったほうがいいんじゃないですか?」
 どうするべきか。まだ何もわからない状態で安易に動くべきじゃない。ああ、どうしてこんなときに鳴音弦が不在なのか。
 そのとき、再びビルが振動した。それだけではなく衝撃音がその場にいた全員の耳に届いた。
 職員の女性が悲鳴を上げたのは、窓の外に夜の訪れのような黒煙が舞い上がったときだ。
 下の階から立ち上った黒煙が太陽光線をさえぎり、一瞬、事務所内が暗くなった気がした。
 これは、普通じゃない。
 遊里はぞっとした。
 下の階でなにかが爆発して、火災が発生している。
 まずい。
 上階にいるわれわれは煙に巻かれやすい。ビル内の換気設備は万全なのだろうか。
 それに、爆破行為が行われているとして、このフロアがいつまでも安全だとも言い切れない。
 くそ。遊里は内心悪態付きながら、覚悟を決めた。
「立花くんは、エレベータが動くか確認して、千佳ちゃんは鳴音チーフマネージャーに連絡をとって! ほかのメンバーは下の階の人間に問い合わせて、事態の把握を行ってちょうだい」
 早口で指示を出すと職員それぞれが弾けるように散らばった。
 止まっていたはずの警報が再び鳴り出し、続けて館内放送が始まった。
 −−防災センターより連絡です。防災センターより連絡です。ただいまの警報は訓練ではありません。火災が発生しました。火災が発生しました。発生箇所は一階ロビー、二階食堂です。各フロアの防災責任者は避難の準備をお願いいたします。各フロアの防災責任者には避難の準備をお願いいたします。避難の際には私物は残し、机の下に常備されているヘルメットを着用してください。次の指示があるまで各位その場で待機をお願いいたします。エレベータは使用しないでください。
 防災センターからの館内放送は何度か同じ放送を繰り返した。
 一階ロビーと二階食堂が火事? 食堂は分からなくともないが、やはりロビーからの出火は不可解である。
 そのとき、エレベータを確認しに行ってきた立花が戻ってきた。
「遊里チーフ! エレベータは動きますが、たぶん待っても来ないでしょう。それにほかのフロアの人間は避難を始めてます。非常階段はすごいことになってますよ。パニックにはなってないですが我々も逃げたほうが」
「駄目よ。いまは大丈夫でもパニックが起こったら非常階段は致命的よ。それより立花くん、大至急で常備してある御札をかき集めてきて」
「御札って……やっぱり」
「いいから早く!」
 立花と入れ替わるようにして、下の階に電話をかけていたメンバーが報告に戻ってきた。
「誰も事態を把握してません。でも、何度かに分けて何かが爆発したようです。下の階は煙だらけだそうですよ。早く逃げないと」
「当然逃げるわよ。その前に現状を把握してからよ。あなたも立花くんを手伝って御札をかき集めて!」
 そう指示をすると、不可解そうな顔をして踵を返して出て行った。
 次に鳴音弦に連絡をとった千佳が戻ってきた。
「チーフマネージャーは大至急こちらに来るそうです。早くて一時間ほどかかるとのことです。それから伝言なんですが、早まらず、その場に留まって常備の御札をかき集めろとのことです」
 やっぱり。
 弦は何かを知っている。
 間違いない。これはただの火事ではない。
 そのとき、テレビのワイドショウがようやくニュースを伝えた。
 速報と称して「総合自然研究所」の正面玄関を映しながら、男のレポータが声を張り上げている。
 玄関の様子が分かった。
 窓という窓からどす黒い煙を巻き上げながら、炎の赤が時々噴出している。
「なんてこと……」
 隣で千佳がつぶやいた。
 思いのほか大きな炎。幾つかの爆発音も聞こえてくる。
 続いてヘリが上空からビルを映し出した。
「四、五階も燃えてるわ。危ないわね。すぐにここまで来るわ」
「ここまでくるって、炎が?」
 遊里は千佳と暫時見つめあった。
 来るって、炎が?
 それとも薄気味悪い瘴気を放つ元凶が?
 いずれにしろ、軽々しく無責任な発言はできない。
 だが、懸念を確信に変わらせる衝撃的な館内放送が流れたのはその直後のことだった。
 −−館内職員の皆様。私は本部副委員長の来栖源一郎です!
 来栖本部副委員長!?
 フロアにいた全員が思わず手を休め、館内スピーカーに注目した。
 −−どうか落ち着いて聞いてください! パニックを起こしたり、出入り口に殺到することの無いようにお願いいたします!
 落ち着けと言っている本人が緊張に言葉が震えている。
 ――これからお話しする内容は衝撃的ですが、どうか落ち着いて耳を傾けてください。現在、本部は「人外」の襲撃に遭っています!
 予想通りの事態。
 それでもその場に居た五人は顔を見合わせて、うめき声に似たどよめきを起こさずには居られなかった。
 ――人外の数は不明。現在、人外が居ると思われる位置は六階事務フロア。報告されている限り、死傷者はまだありません! 皆さんにご理解いただきたいのは、これは人外による襲撃だということです! 各位は避難時、御札、戒具を装備してください! また、この件につきましては、避難後に口を開かないようお願いします!
「チーフ! 御札集まりました! 早く!」
 立花の声。
 頭上では来栖本部副委員長の話が続く。
 ――万が一、人外に遭遇しても、決して攻撃したり干渉したりしないでください! 見つけた場合は直ちにその場を離れ、居場所を防災センターまで報告をください! 現在、術師のエキスパートを招集していますが、到着時間は未定です。避難が困難な場合は、できるだけ身を潜め、フロアを出ないようお願いします!
 本部に常駐している術師では歯が立たないほど強力な人外なのだろうか。一ヶ月ほど前に山に現れた人外のように。
 アレがここに現れた?
 衝撃の一波が過ぎた遊里に、冷静な思考が戻ってくる。
 本当に人外が現れたとして、いったい何の目的で? こんなところに来るくらいだ。人外はここが自然管理委員会という現世での人外討伐組織だと承知で襲撃してきたはずだ。
 知性的で、強力で、悪意のある襲撃。
「遊里チーフ、速く逃げないと!」
 千佳がおろおろと地団駄を踏んでいる。テレビ画面の向こうでは消防が火消しにいそしんでいるのが映っており、何人かの本部の職員たちが煤けた顔をして外に逃げ出してきている。
「だめ。逃げては駄目」
 遊里が千佳を睨みつけるように見た。
「あんなの野放しになんてできない。本部の建物内だけならまだしも、あんなのが町に出たら……想像するだけでぞっとするわ」
 千佳が泣き出しそうに眉を顰めた。
「千佳は逃げなさい。外でチーフマネージャーを待ってて。私はどうにかして人外を止める方法を考える」
「これだけ出来る人外ですよ! 御札で太刀打ちできるかどうかも」
「足止めできればいいの。どうやら人外は上の階を目指してる。上の階に何があるのかなんて分からないけど、いたるところに結界を張れば足止めくらいにはなる。本部副委員長の言葉を信じれば、術師のエキスパートが来る。それまで時間を稼げれば……」
 幸い、人外を一時でも止める方法を、チーフマネージャーの弟が教えてくれた。
 Cランクの御札で四重の結界。気休め程度だが。
「私も残ります」
 千佳が全身をわななかせながら言った。
「私も残ってチーフを手伝います」
 千佳の精一杯の言葉。それだけで十分だ。遊里は十分に奮い立った。
「千佳は外に出てチーフマネージャーを待つの。それがあなたの仕事」
「じゃあ、俺は手伝ってもいいですかね?」
 千佳の背後から立花が現れた。手には大量の御札を持っている。
「分かった。手伝いたい人は手伝って。千佳はチーフマネージャーに現状を報告。これは上司命令。いいわね」
 千佳は半分悲しそうな、半分安堵したような表情を浮かべる。
 そのとき、轟音とともに地響きがフロアをしびれさせた。
 千佳が悲鳴を上げる。
 −−近い。
 もうこのフロアに近い階数までやってきている。
 急がなくては。
 一体、人外はどんな風貌の、どんな力を持っているのか。
 恐怖で身が竦みそうになるのを必死にこらえて「さあ」と職員たちを促した。

 

 鳴音階はそっと居間に入ってみた。
 弦や琴、奏の会話はすべて聞こえていたが、そこに足を踏み入れるのが躇われたので、仕方なく鳴る腹を押さえながらしばらく待っていたのだった。
 静かになったので居間に入ると、ソファーで強烈な腹痛でも我慢しているような表情の奏がいて、食卓には琴が気難しそうに口元を尖らせて座っていた。
 感覚が特に優れる階にとって、この刺々しい雰囲気は誰よりも苦痛に感じた。
 それでも空腹には勝てない。
「姉ちゃん、それ食っていいの?」
 食卓に並んだハンバーグ。
 当然、階の分も用意されているが、琴の許しがなければ手につけられない雰囲気。
 勝手に食えば、と言わんばかりに階を睨みつける琴。俺にそんな顔をされても……。
 仕方なく階は茶碗にご飯をよそって食卓に着いた。
 テレビからは火事の中継。本部が人外に襲われている旨は盗み聞きをしていたので知っている。だからって、あの奏の尋常ではない様子は何だ。動けは爆発する爆弾でも抱えているようだ。
 あんな奏の姿を、階は見たことがない。悪い兄ではなかったが、階にとって面白みも冒険みもない平凡な兄貴を若干尊敬できないでいたが、そんな兄でも、あんな苦しそうなところは見たくはない。
 ふうむ、と階は悩んで見せる。
 このままでは鳴音家に刺々しい空気が蔓延し、感覚の鋭い階にとって地獄のような家になってしまう。
 ここはみんなに出て行ってもらおうか。
「姉ちゃん、雨降ってきたけど」
 姉ちゃんは階を一瞥しただけで、何も答えなかった。
「俺は別にいいんだけどさ、せっかく乾いた洗濯物が」
「あ」
 琴が目を丸くする。母親代わりの我が家の長女は、一瞬腰を浮かせたが躊躇したように再び尻を椅子に戻す。
「いいのかよ」
「いいわよ。どうせ階に頼んだって、取り込んでくれないでしょ。私は奏を見てなくちゃいけないから」
 なるほど。なかなか意志が固い。
「取り込みはしないけど、奏兄ちゃんを見てるくらいならしてもいいけど? どうせあの様子じゃ動きそうにもないけど」
 再び階を睨む琴。
 そんな顔ばかりしていては、嫁にいけないぞ、長女様。
「本当に見てられる? 奏が動こうとしたら絶対に止めるのよ」
「無理やりでもいいのなら、奏兄ちゃんの一人や二人くらい止めといてやるよ」
 ぐうう、と唸ってからようやく琴は決意して席を立った。
「絶対に動くんじゃねえぞ」と奏を脅してから、琴は二階のベランダに向かった。
 やれやれと溜息を吐く階。
 物言わずソファーに座ったまま、微動だにしない奏。
 言いつけどおり、本当に動かないらしい。
「一ヶ月間さ」
 階は口を開いた。
 奏はそれでもテレビを睨みつけたまま。
「奏兄ちゃんが家にいない間、琴姉ちゃんは本当に気が狂いそうなほど心配してたよ。弦兄ちゃんも昔みたいにカリカリしちゃってさ。そりゃ俺は全身にちくちく針を刺されてるみたいで地獄だったよ」
 聞こえているのか聞こえていないのか。
 思えば最近は奏とまともに会話したこともなかった。
「でも、俺はすごく期待してたんだよ。奏兄ちゃんが逃げてる間、すっごくわくわくしてさ。いつも弦兄ちゃんや琴姉ちゃんの言うことばかり聞いて、自分のやりたいこと我慢してきた奏兄ちゃんが、とんでもないことをしでかして、誰の言うことも聞かず逃げてたんだから」
 あ〜あ、次に言おうとしている自分の言葉に、とても許せない感情がある。だってそうだろう。こんな落ち込んでいる情けない兄の背中が、これほどまでに頼もしく見えたことなんてないんだから。
「かっこいいって思った。自分の思ったとおり、俺でも出来ないようなことを主張しながら行動してる兄ちゃんがかっこよかったんだよ」
 微妙に奏の顔がこちらをむく。
「事情は良く分からないけど、自分が正しいと思った行動してたかっこいい兄ちゃんが、帰ってくるなり兄弟の言いなりになってる。また元の情けない兄ちゃんに逆戻りだ。そんなんでいいのかよ」
 奏がゆっくりと階を見た。
 何を考えているか分からないが、ようやく階の言葉に耳を傾けたのだ。
「今のうちだと思うよ。今のうちならまだ俺は奏兄ちゃんのことかっこいいと思ってるから。でも、今のかっこ悪い兄ちゃんなら、俺は今後一切、兄ちゃんのためになんかしてあげようなんて思わないかも」
「階……」
 奏が下唇を震わせて、目をきらきらさせている。
 うっとうしいなあ。
 階にも、奏が家を出て、再び勝手な行動をとることの重大性を理解しているつもりだ。弦の知らない場所でまた不祥事など起こせばフォローの余地など皆無だし、もう取り返しは付かない。押さえつけられていた奏の不始末ごと噴出して、鳴音一家を飲み込み崩壊しかねない。
 でも、三百年に一人の天才がここにいる。どんなに壊されたってこの天才がまた元通りにすればいい。
 階は額を撫でながら「早くしないと鬼が戻ってくるよ」と言うと奏は何度も目頭をぬぐいながら頷いた。
 優しすぎる兄ちゃん。
 いくらなんでも、人外にそんなに肩入れするのは優しさを通り越してただの馬鹿だ。
「ありがとう、階」
 情けない声でそう言うと、奏はようやく腰を上げたのだった。
 
 
 
 ラナ・カンはビル内のあらゆるものを手当たり次第に燃やしていった。逃げ惑う人間に炎を当てないように細心の注意を払いながら、火を吹き続ける。
 天井に穴を穿ち、上の階に進む。
 最終的には最上階にある本部委員長室を破壊し尽くすが目的だ。そう大家貴信に言われたのだ。
 本部委員長室を破壊した後は逃亡し、大家のいる研究所に戻る計画。戻るのに苦労はしないだろう。今の人間にラナ・カンを封じたり抹消したりする火力は持ち合わせていないし、どうやら通常の人間にはラナ・カンの姿は見えないらしい。
 本部ビルにいる人間も、ラナ・カンの姿が見えないようだった。その辺の詳しい理屈は分からないが、どうやら御札という道具を装備しなければ、いくら専門家でも人外を視覚で捉えることは出来ないらしい。
 心配なのは、炎の延焼で人間が傷つくことである。直接的に攻撃はしていないが、延焼による炎や、毒気を含む黒煙で人間を傷つけているかもしれない。もはやそこまではラナ・カンに注意しようがない。
 大家貴信との事前の打ち合わせにて、人間が昼食に出かけて在館数が少なくなる昼時を狙い、人間が緊急時に避難に使用するエレベータや非常階段などの移動施設は破壊しないように努めた。
 これで人間が迫りつつある危機に気づく。
 大家貴信はこの作戦の後、しばらくラナ・カンを隠匿すると言う。そのあと満を持して、ラナ・カンを自然管理委員会に紹介すると言う。もちろん、本部ビルを襲ったのは別の人外であることにしてだ。
 ラナ・カンはそれを信じた。
 何か別の意図があろうとも、大家貴信の言葉を借りるならば自然管理委員会の「危機感の充実」は、二日後の人外危機を真剣に考えさせる大きな機会になるのはまちがいないからだ。
 もしラナ・カンにとって都合の悪い策略を大家が企んでいようと、もともと人間に受け入れられるとも思っていなかったし、同盟を組もうとも考えていなかった。なにより裏切り行為があったとしても、ラナ・カンの逃亡に支障をきたすわけではない。
 信頼していた奏がラナ・カンのもとを去った時点で、ラナ・カンは自分で判断しなければならず、自分の倫理観を当てにした。
 奏との別れはショックであったが、もとより孤独は覚悟の上だった。心の通わせにくい他の人間との交流はストレスだったが、それほど思考回路に違いがあるとも思えない。ならば、人間に危機感を抱かせて、来るべき人外危機に対して備えさせれば、ラナ・カンの故郷である隔世を守る結果につながるのだ。
 ふと、ラナ・カンは見えない壁に突き当たった。
 ここは十五階か。
 天井に穴を穿って、上階に移動しようとしたときだった。
 鼻先に刺激的な何かが衝突し、ラナ・カンは悲鳴を上げた。
 ダメージは少ない。だが、触れると不快な感覚。
 これが奏の言っていた「結界」と呼ばれるものなのだと気づく。
 仕掛け方から見ると、どうやら人間の中にラナ・カンが最上階を目指していることに気づいたものがいるようだ。
 結界は容易に破ることが出来た。だが、幾つも張り巡らされた結界を一つ一つ体当たりをして破壊するには、不快な思いをしなければならずストレスに感じたし、炎で破壊するにも消耗が激しすぎる。いずれにしろ、最上階を目指すペースは確実に落ちることになった。
 おそらく時間稼ぎが、この結界を仕掛けた人間の目的だろう。
 足止めしてなんになる? 時間はかかってもこの程度の結界なら最上階に着くのは時間の問題だろう。
 足止めして、誰かの助っ人を待っているのだろうか。
 火を吹いて、フロアの机や椅子、ロッカーなどの書物が火を浴びて舞い上がる。人間にとっては灼熱地獄だろう。
 足止めするのもいいが、もはや炎の延焼で人間が薫されて命を失うのを防ぐすべはない。早く逃げて欲しいものだと思った。
 天井を破壊し、次の階へひょいと飛び上がって移動する。次の階に人間の姿がないと確認し、火を噴出してあらゆる物を燃やしていく。
 おそらくこれだけ丁寧に燃やしていけば、この本部ビルはほぼ壊滅したに等しいだろう。ビルの構成要素自体は意外と燃えにくい素材で出来ているおかげで、炎の力で背の高い建物が崩壊する危険はないし、ビルによる自動探知で、消火されている下の階の炎は鎮火に向かっているに違いない。
 インパクトを与えさせればそれでいい。
 ラナ・カンが暴れるのを手をこまねいてみていることで人間は敗北感を味わい、敗北感は立ち直るための序曲となり、人間はさまざまな人外に対する対策を生み出すだろう。
 もうどれほど階を登ったのか。
 窓の外に見える風景はかなり高くなっている。
 結界も煩わしかったし、体力もかなり喪失した。早々に終わりにしなければ逃げるのもままならなくなる。
 そう思った矢先の出来事だった。
 ラナ・カンの行く先を結界で邪魔をしていた人間が、ついにラナ・カンの目の前に姿を現したのである。
 そのフロアには何もなかった。今まで見てきたような机や椅子、ロッカーなどと言うものは皆無で、見渡す限り柱と窓しかない。
 使用されていないフロアなのだろう。
 そこにやってきたラナ・カンを待ち伏せするかのように、数十人の人間が取り囲んでいたのだった。
 ラナ・カンは慌てたりすることはなかったものの、ラナ・カンの脅威の出力に正面から立ち向かってくる人間がいるとは思っていなかったため、想像を裏切られた。
 もちろん、炎の一吹きでその場にいる人間をすべて焼き尽くすことは可能である。だが、やはり人間は傷つけたくない。
 人間たちは思い思いに憎しみの表情をラナ・カンに向けている。手に持っているのは御札という人間の武器。
 そして、いままで破ってきた結界より強化された結界がラナ・カンを覆っている。
 人間を傷つけずに、この場を乗り切るにはどうしたらいいのか思案する。
「ここまでよ、人外境からの来訪者」
 野暮ったい言い方で体を乗り出してきたのは、体の小さな人間の女。
 打ちのめされて怒り狂い、同時にラナ・カンを畏怖する表情。
「あまり人間を甘く見ないでよね。あんたはやりすぎた。どうせならちょっと火を吹いて退散すれば良かったものを」
「何か罠でも仕掛けたと言うのか」
 ラナ・カンが答えると、正面にいた人間の女は目を丸くして後ずさりし、同時に十数人の人間たちがどよめいた。
「言葉を喋れるの!?」
 この反応にはラナ・カンのほうが驚いた。しかし、最初に出会った奏の反応を思い起こせば当然と言える。
「言葉を介するからといって交渉は無駄と知れ」
 一瞬狼狽していた人間の女は、再び表情を引き締めると言った。
「交渉はしない。でも、もう終わりよ。何のための足止めだったと思うの? あなたはすでに捕らえられてるのよ」
 まさか、この程度の結界で封じたつもりなのだろうか。それとも、ほかに何か算段でもあると言うのだろうか。
 いずれにしても、人間にこの場を引かせるには虚勢を張るしかなかった。ならばまずはラナ・カンの周囲を取り巻く結界を蹴散らして見せよう。
「甘く見るな、人間。この程度の結界で封じたつもりでいるのなら、今すぐ尻尾を巻いて逃げることだ。留まると言うのなら我の灼熱の炎で貴様らを焼きつきしてくれる」
 人間の女はニヤリ、と卑しく笑った。
 −−この結界ではない? ラナ・カンを貶めたものでは別にあるのか。
 だが、大家貴信の研究所で開発されている以上の技術力がここにあるとは思えない。
「お疑いなら、ご自慢の炎でも吹いてみれば?」
 ラナ・カンは見た。
 人間の女の頬に伝った汗を。
 女の虚勢である。ラナ・カンを動揺させることが目的なのだ。自信の有りげなあの表情の裏側には間違いなく、ラナ・カンに対して手立てのないことの恐怖の色が色濃く伺えた。
「女、後悔するなよ」
 ラナ・カンは唸り声を上げながら口を開いた。
 人間に炎を当てるわけには行かない。
 ラナ・カンは天井に向かって火を吹いた。
 途端に結界ははじけて消え失せ、天井にとぐろを巻いて真紅の炎が広がる――はずだった。
 ラナ・カンの吹いた炎は、天井付近で膨らむと、鏡に当てたライトのごとく炎が跳ね返ってきたのだ。
 自分の吹いた炎に巻かれ、ラナ・カンは悲鳴を上げた。体毛を焼かれ、焦げ臭い匂いをかぎながらダメージの重さを意識した。
 ――やられた!
 ラナ・カンは体に燃え移った炎を消そうとその場でもんどりうつ。
 そのとき垣間見た女の表情。それ以外の人間の表情。
 唖然と大口を開け、信じられないものを目にしたような顔。
 なんだその反応。
 体に燃え移った炎はどうにか消し止めたものの、炎を浴びた身体の所々が無数の針に突き刺されているかのように痛んだ。
 忌々しい。
 ラナ・カンは犬歯をむき出しにして唸った。
 どういうことだ。どうして炎が跳ね返った。
 しかも、その意外そうな表情はなんだ人間ども。結界が私の炎を跳ね返すことが半信半疑だったとでも言いたそうな顔。
「何をした?」
 ラナ・カンは体を膨張しながら問うた。深刻なダメージを負ってしまった。もう、人間を傷つけないように戦うことは無理だ。多少の犠牲を払ってでもこの場を脱出してダメージ回復に努めなければ。
 人間の女はラナ・カンが膨張する姿に慄きながら答える。
「結界よ。あなたが『この程度』と罵った結界」
「まさか、そんな結界など作れないはずだ」
「それが作れるんだよ」
 そう言ったのは人間の女ではなかった。
 女より一回り大きい人間の男だった。男は片手に紫色の長い剣を掴んでいる。
 何者か。それにあの紫色の不細工な剣から漏れてくるとても嫌な「気」はなんだ。ラナ・カンの頭の中に危険を示す赤信号が点滅する。
 男はラナ・カンの元へ臆することなく踏み寄って来ながら言った。
「どうやら人間様を舐めきってくれてるようだが、いつ誰が人間様の力が弱いとお前に教えた? お前の敗因は人間様に対する過小評価さ」
「来るな」
 ラナ・カンは唸り声を上げてけん制する。
 目の前の人間に負けるとは思えない。
 だが、もう一度火を吹けば体力を喪失する。
 全身に負った火傷は神経を蝕んでいる。体が思い通りに動くとは思えない。
「残念だったな。最後に冥土の土産に自己紹介してやる。俺は俵原孝司。藪北ファミリーのリーダだ」
「やぶきた……」
 忌々しい。自分の油断である。まさか、ここに来るまでのひ弱な結界は、いまラナ・カンの周囲を取り巻く強力な結界に対して油断させるための布石だったとでも言うのだろうか。
 だとしたら策に嵌められたことになる。
 苦々しくも見事と言うしかない。
「俵原孝司とかいったな。ひとつ教えてもらおう。私の知る限り、私の炎をいとも簡単に跳ね返す結界は人間界には存在しなかったはずだ」
「存在しなかったのではなくて、あんたが知らなかったのさ、ラナ・カンよ。人間には色々いてな。その結界を作ったのは技術力じゃない。単純に人間の力だ。おいクリスティーヌ」
 俵原孝司は背後を振り返って誰かを呼んだ。
 だが、そんなことは問題ではない。
 俵原孝司。お前は確かに呼んだな?
 私のことを「ラナ・カン」と。
 私は自己紹介をした覚えはない。
 貴様は事前に私を知っていたと言うことになる。
 俵原孝司の背後の人だかりから、新たな人物が登場する。
 クリスティーヌと呼ばれた女である。
「クリスティーヌはさまざまな性質の結界を作り出す天才でね。この結界も彼女が作り出したものだ」
 すべて分かったぞ。
 何てことだ。
 人間とは、なんて愚かしく卑しい種族なのか。
 信じた私が悪いと言えばそれまでだが、奏しかり、これほどまでに簡単に信頼関係を断ち切ってしまえる冷酷な種族なのか。
 ラナ・カンに、人間に対しての怒りが充満し始める。
 私は一体、何を守りながら戦っていたと言うのだ。
 おろかだ。
 研究所にて、実験の協力と称して、結界に向かって何度も火を吹いたラナ・カン。
 あれば、来るべき人外危機に備えるためではなく、初めからこの日を想定し、あくまで「ラナ・カン」の攻撃を防ぐための実験だったのだ。
 わざわざ敵に塩を送ってしまうとは。
 自分自身に対する怒りと、人間に対する怒りがラナ・カンの行動を支配し始める。
 姑息なり!
 卑劣なり!
 私はこんな姑息な種族を守ろうとしていたのか!
 思えば奏も私を裏切った。
 信頼を裏切り、私を施設に残した。
 いないのだ。こっちの世界に守るべき種族など存在しない。
 ラナ・カンはすでに決意を固めていた。
 人間を守る義理はもう必要ない。
 ならば私の使命はひとつに絞られた。
 この場にいる人間を全て焼き尽くし、来るべき人外危機のみに備えるべく、私はこの場を逃げ出してみせる。

 

 一人、奏のいなくなった居間でハンバーグを齧っていた階に、洗濯物を取り込み終えて居間に戻ってきた琴の雷が落ちてきたのは、奏が家を出て二十分ほどしてからだった。
「なんてことしてくれたの! あんた、自分が何をしたのかわかってるの!?」
 もはやハンバーグを食っているどころではない。
「分かってるよ。俺だって馬鹿じゃないんだ。でも、あの奏兄ちゃんの様子を見てたら黙ってられなくてさ」
「それでも奏は引き止めなくちゃいけなかったのよ! どうして家から出したの!?」
「そんな怒るなよー。鳴音一家が落ちぶれたって心配するなよ。ここにいる大天才がどうにかするからさ」
 そう言った階の頬を、琴が力いっぱいひっぱたいた。階の視界が弾け飛んだと思うと、まだ口の中に残っていたハンバーグの端切れが宙に舞って床に落ちた。
 階は怒りに任せて琴を睨みつけると、琴は目に大粒の涙をためながら、全身を震わせていたものだから、階は出掛かった文句を飲み込まざるを得なかった。
「分かってない。あんたは何も分かってない。私が自分のお家柄を心配して奏を引き止めてたとでも思ったの? 馬鹿じゃないの?」
「違うって言うのかよ」
「私が心配してたのは奏自身のことよ。弦だって同じ。弦は奏を守るために、大家貴信と何か取引したはず。本部に報告する際に、奏に便宜を払う代わりに何かを引き受けたはずよ。でもそれは弦にとってとても気に入らないことだったはず。あの顔を見れば分かる。弦の持つ倫理観や先祖への忠誠心を揺るがすことだったかもね。たとえば当然本部に報告義務のある事柄について絶対に口を閉ざせ、とかね。弦に自然管理委員会に対する背信行為を条件に出したはず」
 階は思わず琴から顔を背ける。
「奏を守るためよ。弦が大家貴信と交わした政治的な取引は、外に漏れればもしかしたら鳴音一家の終焉だって可能性のある取引かもしれない。でも、奏を……大事な家族を守るためには仕方なかった。そんな弦の決意があんたに分かるの? お家柄なんてどうでもいい。奏が今度問題を起こしたら、奏の起こしたこれまでの不祥事もまとめて罪を償わされる。言ってることが分かる? あってはならない前例を残した奏は極秘裏に暗殺されてもおかしくない!」
 階は何もいえなかった。浅はかだった自分の行動を悔いたくはない。だが、胃袋には重量のある鉛が詰め込まれ、その場にうずくまってしまいそうだった。
 何も答えず、口を尖らせて涙の衝動を必死にこらえる階に、琴はいくらかトーンダウンした口調で言った。
「分かったら、一緒に奏を追いかけるわよ。まだ遠くに行ってないはず。行くとしたら本部ビルに向かったはずだから、交通手段は電車ね」
 階は黙って席を立った。
 琴が大急ぎで家を出るのを追いかける。
 家を出て、駅に走りながら階は琴のあとを付いていくが、その背中すら見ることがなかった。
 駅について切符を買っていることの背後で、階はようやく口を開く。
「姉ちゃん、ごめん」
 そう言った途端、涙があふれ出た。
 振り返った琴は、切符を買いに手渡しながら何も言わず、親指で階の頬を伝う涙をふき取った。
 自動改札を渡ってプラットホームにたった頃、ようやく琴が口を開いた。
「とにかく奏を連れ戻す。それだけに集中しろ。階の天才的な感覚は頼りにしてるんだから」
 そう言われ、階はコクリと頷くことしかできなかった。
 
 
 
 弦は本部の高層ビルを見上げながら、愕然としているしかなかった。
 見上げると、割れた窓ガラス各所から黒煙が立ち上り、十数台に上る放水車がビルめがけて水を浴びせている。
 これで死傷者がない? 信じられない。
 テレビの報道では、まだ死傷者は確認できていないという。
 近くで言い争うような声が聞こえ、視線を転じた。
「なぜ中に入らないんです! 中で助けを求めてる人間を見捨てる気ですか!」
 防火服を装備した集団が大声をあげて、正面に居る同じ消防の人間に詰め寄っていた。
「命令は待機だ! まだビルには立ち入るな!」
「なぜですか!」
「二次災害の恐れがある! 炎の勢いが強すぎるんだ! お前らの命を粗末になんて出来るか!」
 突入が躇われているらしかった。
 弦は野次馬が取り巻き、制服の警察官が交通規制を敷く外側で、ビルの正面を見た。
 火の手はそれほど大きくない。
 最新鋭の高層ビルである。火災に対するスプリンクラーなどの備えは万全のはずだ。
 ならば、消防員が進入できないのは、組織図でいう上位の部署からの圧力があったからに他ならない。
 しかし、これでは弦が現場に来てもなにも出来ない。生身で中に立ち入るなどもってのほかだ。
 地団駄を踏んでいたとき、弦の携帯電話に連絡が入った。
 部下の千佳からだった。
「大丈夫なのか!?」
 電話に出るなり大声を上げると、返答は意外にもしっかりしており、それどころか歓声に近い声が弦の鼓膜を刺激した。
 ――信じられません! すごいです。すごいんです! チーマネ、問題はすぐに解決されそうですよ!
 解決される?
 一体どういうことだ。
 ――確かに強力な人外でしたが、捕らえることに成功したんです! すぐに大家貴信さんが派遣したエキスパートたちが人外を抹消してくれるでしょう。
「なんだって?」
 現状が上手く把握できない。
 大家貴信が派遣したエキスパート?
 なんだそれは。
「状況を説明しろ。今どこに居る?」
 ――二十階の現在使用されていないフロアです。そこに藪北ファミリーというエキスパートが人外を結界に閉じ込めました。
「閉じ込めた……? 結界に? 人外はそのまま捕らえられるのか?」
「それは無理なようです。この場で抹消すると言っています」
 ラナ・カンは抹消されるのか。
 思考が纏まらない。
 弦は強く目を瞑る。
 判断するんだ。
 強力な人外を捕らえ、抹消さえ可能である事実にも驚かされるが、また別に、死傷者が出ていないという事実が存在する。
 これは、ラナ・カンにその意志がなかったからだといえる。意図的に人間を傷つけないために細心の注意を払って施設を破壊していたのだろう。
 ラナ・カンはやはり、大家に嵌められたのだろうか。
 弦は倫理観を元に逡巡する。
 人間に対して敵意のない、それどころか「こちら側」にいる人外が抹消されるのを、みすみす見捨てるのか。
 情に流されてはならない。
 ここで大家の意思に背く行為が、どれほどリスクのあることか考えろ。
 人外が一体抹消されようと、来るべき人外危機に対して本部の人間も本腰を入れるようになる。それがたとえ、大家貴信の言い成りの元に成されることだとしても。
「本当に人外は抹消できるんだな」
 ――ええ! すでに人外はかなりの深手を負っています! 見ている事実が信じられない!
 千佳は興奮している。
 それは千佳に限らないようだ。千佳の周囲に居る人間からも歓声が電話を通して聞こえてくる。
 電話を切って、弦は黙ってビルの上層を見上げた。
 ――やらなくてはならない。
 サイレンに野次馬の喧騒。
 そんな中、弦は静かに意志を固めた。
 
 
 
 フロア内に歓声が上がった。
 遊里も例外ではない。
 強力な人外に対して手立てがなく、絶望的だった状況を一変してみせたのは、大家貴信の元から派遣されたという術師のエキスパートたちだった。
 遊里は興奮した。
 大家貴信は用意していたのである。来るべき強力な人外の出現に対して、対抗する力を持つべき人間たちを。
 しかも、従来の「御札」という武器ではなく、戒力を発揮するための「戒具」にて。
 太刀打ち不可能と思われていた人外を追い詰めたのは二人の人間。
 強力な人外を閉じ込めておける結界を作ったのは、クリスティーヌと呼ばれる妖艶な女性。
 水晶のような球体のガラス玉を手に持っている。これが彼女の戒具なのだろう。
 中でも目を見張ったのは人外に立ちはだかった俵原孝司という男。
 彼は戒気を具現化した刀を持っている。紫色の半透明の刃。それは彼自身の身長より長い。
 遊里は期待の眼差しで、俵原孝司と人外との立ち合いに注目した。
 人外を囲う強力な結界。
 俵原孝司は手に持つ刀を、結界の外から横薙ぎに振るった。
 距離がありすぎる。
 あれでは人外に届かない。
 そう思った瞬間だった。
 剣は音もなく伸び、結界の外壁をすり抜けて、人外の首を両断しようと迫ったのである。
 人外は慌てて前足を持ち上げて、刃を受け止めた。
 ところが直後、人外は獣のような悲鳴を上げて結界の端まで飛びのいた。
 人外の前足から紫色の炎のような「もや」が立ち上り、人外は必死に手を振り乱して「もや」を振り払らった。
 人外は警戒したように、牙をむき出しにして唸る。だが、攻撃を防いだ前足は毛が焼けてなくなり、酷く痛むのか、前足を持ち上げたまま地面に降ろさない。
 勝敗は明確だった。
 結界から出ることの出来ない人外は、結界の外にいる人間を攻撃できない。火を吹こうものなら、そのまま自分に跳ね返ってきてしまうのだ。
 俵原孝司は伸縮自在の剣にて、結界の外から幾らでも攻撃できる。
 籠の中の小鳥をいたぶるのと同じだ。
「すごいわ」
 遊里の呟きに、隣に居た立花も「すごいっす」と呟き返した。
「すごくなんかないわよ」
 別の声がして、遊里は視線を転じる。
 そこには若い女が、微笑を賛えながら立っていた。
「あなたは遊里さんでしょ。知ってますよ。鳴音弦さんのサポートでしょう」
「あなたは?」
「私は鳩谷多恵といいます。大家貴信のスクールを出た藪北ファミリーって言われているチームのひとりです」
「藪北ファミリーですか?」
「結界を作ってるクリスティーヌと、剣を持ってる俵原孝司、それに私ともう一人の四人の通称です。第一期生です」
「大家さんはスクールを運営してるの?」
「はい。今まではあまり公言できなかったのだけれど、今回、結果を残せれば証明できる」
「証明ですか?」
「御札の力に頼る時代は終わるんです。私たちの戒具を通した力。これは特別じゃなく、誰でも持っている力です。使い方を分かってないだけ。これでやっとみんなに分かってもらえる」
 誰でも使えるって……。
「それは私でも持ってる力なんですか?」
 千佳が目を煌かせて尋ねている。
「もちろん。あなただけではなくて、誰でも持ってるし、誰でも藪北ファミリーのような力を持てるようになる」
「でも、戒力は個人差があるというのが今までの通説でしょう」
 遊里が訊ねると、鳩谷多恵はにっこりと笑った。
「良ければスクールに遊びに来てください。いくらでも、そうでないことを証明しますよ」
 そう言ったとき、再び人外の悲鳴が聞こえて視線を戻した。
 見ると、人外の肩口に深々と剣が吐きさっていた。傷口から立ち上る紫色の「もや」。あれはなんなのか。炎のようなものだろうか。
 この決着は早々につきそうだった。
 
 
 
 人の少なかった地下駐車場から入って、一階ロビーに出た。
 ロビーには煙が蔓延していたが、見る限り人気はなく、スプリンクラーの雨を浴びてるせいで、火の手も少なかった。
 ロビーに消防員がうろうろしていると思っていた奏は想像を裏切られた。
 ラナ・カンはどこに居るのか。
 人外の瘴気の痕跡を辿って行く能力は奏にはない。
 悩んでいた奏に問題解決をもたらしたのは、防災センターによる館内放送だった。
 ――防災センターより報告です。防災センターより報告です。自動消火システムにより、火災の延焼は最小限に抑えられております。人外は現在二十階の未使用フロアにて捉えられたとの報告を受けました。皆様、人外、およびに火災による危険性は限りなく少なくなりました。避難はどうか慎重にお願いいたします。慌てず、騒がず、慎重な――。
「二十階……」
 口元にハンカチを当てながら、エレベータホールに向かった。
 動いている。上階の▲ボタンを押下したが、エレベータは降りてくる様子はない。
 仕方無く隣接する非常階段を見た。
 避難は大体済んでいるのか、出てくる人間は居ない。
 非常階段を上り始めると、下ってくる幾人かの人間がとすれ違った。
 火災時に階段を上る人間が珍しいのか、振り返る人間は居たが、注意したり引き止めたりする者は居なかった。
 ラナ・カン――。
 捕らえられたと訊いた。大丈夫なのだろうか。
 しかし、現世にラナ・カンを捕らえるような力が存在するのだろうか。
 でも、弦は言っていたじゃないか。
 これは大家の策略だと。
 ラナ・カンをここから生かして逃がすつもりなどないのだ。ならば何らかの手立てを用意しているはず。絶対にラナ・カンを抹消できる方法を。そんな場所に俺が行って何ができると言うのだろうか。
 ラナ・カンは、なにも言わず去った俺を恨んでいるだろうか。ラナ・カンは現世にやってきて一番長く過ごした俺を、少しは信頼していたはずだ。誰も味方の居ない現世で、孤独な現世で、家族の居ない現世で……。
 逆の立場だったら。
 恨むよな……。
 十階にたどり着いた頃には汗が滝のように流れ、太ももの筋肉が鉛のように固く重くなった。
 ラナ・カンは悪い人外ではない。ユーナ、ナユタしかり、悪い人外ではないのだ。
 どうして抹消しなければならない。どうして他の方法を考えない。
 ……でも、もう俺には他人の事など何も言えない。
 奏も例外ではない。全てを投げ出して逃げ出してしまったのだから。ユーナとナユタと交わした約束さえ齟齬にして、ラナ・カンを一人にして、全ての重圧に耐え切れなくなって逃げ出したのだ。
 行ってなにが出来る。
 ラナ・カンが奏を恨んでいてたらどうする。
 十五階を過ぎた頃、奏は立ち止まった。
 太ももが限界だったし、急に臆病風に吹かれたのだ。
 一ヶ月間、山の中で一緒に居たラナ・カン。それでも人外境の住人であることに変わりはない。
 ラナ・カンは今何を考えているのだろうか。のこのこ俺が出向いたら、ラナ・カンは牙をむいて俺を殺すかもしれない。
 弦が言っていた危機管理を促すためのきっかけを作るインパクト。
 ラナ・カンが生きていれば、これが大家貴信により謀られた計略だと知られてしまう可能性がある。だからラナ・カンを抹消しなければらない。
 必要な犠牲。
 そんな言葉が脳裏によぎる。
 ラナ・カンは現世に存在する限り、現世に存在するあらゆる生物に悪影響を及ぼす。それは生命を脅かす病を呼び起こし、ラナ・カンを生かしておくことで多大な人間が犠牲になる可能性を孕んでいる。
 それが奏の身近な人だったら?
 ラナ・カンのせいで、俺の家族が死んだら?
 俺はラナ・カンを許せるのか。
 奏は階段に座り込み、頭を抱え込んだ。
 俺はどうしたらいいんだろう。
 何が正しいことなんだろう。
 母さん。
 俺はどうしたらいい?
 
 
 
 弦が再び状況を訊こうと、千佳の携帯に電話をかけようとしたときだった。
「弦!」
 呼びかける声が聞こえて、携帯を送信状態にしたまま振り返ると、琴と階が駆け寄ってくるのが見えた。
「お前ら! 何でこんなところに居るんだ!」
 怒鳴ると、階が琴の背後に隠れる。琴が「ごめん、弦。奏が逃げちゃったの」と報告した途端、琴を頭ごなしに怒鳴りつけたい衝動にかられた。
 落ち着け。いま取り乱すな。
「奏はどこに行ったんだ? まさか、ここに?」
「ここだと思う。それしか考えられない」
 確かに。だが、この物々しい警備。ラナ・カンの元に向かったとして、やすやすと入り込めるとは思えない。
 そのとき、呼び出し中だった携帯に千佳が出た。
「ちょっと待ってくれ」
 琴と階に手のひらを向けて、とりあえず千佳に現状を聞いた。
 ――人外は弱っています。もう決着は間近でしょう。本当に信じられません、あんな力が私たちももてるかと思うと……。
 力? なんのことだ。
「遊里に代わってくれ」
 事態が収拾に向かっているのなら、遊里も電話に出る余裕も出来ただろう。
 程なくして遊里が電話に出ると、千佳と代わらない興奮ようだった。
「見ている現状が信じられません! 人外は人語を喋るんです! これは知的な人外が隔世に存在すると言う確たる証拠――」
 まずいな。遊里には冷静で居てもらわなければ。
「事態が収拾しそうなら、次にしなければならないのは部門員の安否だ。すぐに全員の安否を確認して報告してくれ。それと全員に今回のことを口外しないように戒めておいてくれ」
 そう言うと、我に帰ったように立ち直った遊里が「すみません、分かりました」と返事した。
「もう一度確認するが、人外は問題ないんだな?」
 ――はい。間もなく抹消されるでしょう。
 弦は一人、何度も頷いた。
 ならば、万がいち奏が身勝手な行動を取ったとしても後の祭り。
「遊里、頼みがある。俺の弟のことなんだが……」
 弟が現れたら保護して、絶対に勝手な行動をしないように引き止めておいてくれないか。必要であれば軟禁しても構わない。
 そう伝えようとした。
 伝えることが出来なかったのは、言葉の途中で遊里が大声を上げたからだ。
 ――あれは!
 尋常ではない声。
 人外が反撃した? 誰かが死んだ?
 そう思ったのものの、その声に「奏」との関連性は連想しなかった。
 ――誰!? あれは誰!?
 誰、というキーワードに不吉な予感を抱いた。
 まさか。
 愕然としながら背後にいた琴と階を振り返る。弦の表情を見た二人が、同じように不安そうにうろたえた
 ――鳴音さん! あれは……! 弟さんです! なんで!? なんで弟さんが!?
 弦は返答できなかった。
 世界が暗転したかのような自失感が全身を襲い、絶望的な気持ちで虚空を見つめた。
「どうしたの? 弦、どうしたの?」
 琴の声で我に帰る。
 弦は遊里に「奏なのか?」と再び確認する。
 ――奏くんです! なんてこと! 奏くんは、人外の傍に……ああ、危ない!
 弦は走り出していた。
 背後で琴が怒鳴っているのも構わず、ビルの裏手に回ればどうには進入口があるだろうと走った。
「弦!」
「弦兄さん!」
 追いかけてきた琴と階に呼び止められ、弦は立ち止まった。
 ひどい動悸がする。
 頭の中でガンガンと音がする。
 俺はいま、冷静さを失っている。
「ありがとう、琴。階」
「え?」
 追いついてきた琴と階が肩で息をしている。二人を見つめながら、まるで自分を裏切るような心境で言った。
「お前らが居なかったら、俺は自分の感情のまま、ビルに飛び込んでいたかもしれない」
「どういう意味?」
 琴と階の存在があったからこそ、いま立ち止まれたのだ。
「それより弦、奏がビルの中にいるの?」
「いる」
 携帯電話を再び耳に押し付ける。
 遊里の声が聞こえてくる。
 ――のようです。どうして? どうやって? なんだって言うのよ!
「遊里、落ち着け。奏はいまどんな状態だ?」
 ――何かを叫んでいます。人外の正面に立って、私たちに何か叫んでいます。聞き取れません。……いや、待ってください。
 遊里が電話の向こうで待つ。
 確かに奏の声が聞こえてきた。
 内容までは聞き取れない。
 ――この人外は悪い人外ではない。そう言っています。
 やはり、ラナ・カンを助けようとしているのか。
 弦は覚悟を決めた。
 こうなっては、もう収拾の手段はない。
「分かった。ありがとう。奏の始末は現場に任せる。助っ人にもそう伝えてくれ」
 ――え? でも!
「いいんだ」
 電話の向こうで遊里はまだ何か言っていたが、かまわず通話を切断した。
「ちょっと、弦。奏の始末は任せるってどういうこと?」
「言った通りだ」
「言った通りって、弟を見捨てるって言うの?」
「見捨てる? その通りだ」
 ある意味、生命力さえ耗やし、次の言葉を放った。
「もう、どうにもらない。俺は奏を現場の判断に任せると指示した。これで俺たちは今回の件とは蚊帳の外になった」
「蚊帳の外? 助けに行かないつもり?」
「そうだ。行ってどうなる? 奏の望みどおり人外を助けるのか? 奏を助けたとしても同様だ。人間様に盾突く行為だ。いま行けば俺たちは奏同様の背信の罪に問われる」
 琴は唇をわななかせる。いくら家族だとしても――導かれる結論は代わらなくとも――逡巡の時間は必要だ。
 奏を助けるという事。その事実に対する自分の身に降りかかる代償の重さを測る時間。
「それでも行くわ。あんたが行かないって言うのなら、私だけでも行く」
「同じことだ。俺が行っても、琴が行っても、階が行ってもな。それでも行くというのなら」
 弦は懐から戒具を取り出した。
「力ずくだ」
「ちょっと待てよ! 兄弟に戒具を使うつもりか?」
 階が慌ててそう言ったが、表情一つ変えずに弦が緑眼を階に向ける。
「ああ、そのつもりだ」
 琴と階は、すぐに弦との距離を置いた。
 周囲は野次馬だらけだ。
 まさか、本当にこんな人ごみで家族相手に戒具を使うつもりなのか。
 階が隣で戒具を取り出した。
「階!」
「しょうがないだろ。あっちはやる気だし。戒具の勝負ならこっちが有利だよ」
「そういう問題じゃないでしょ。戒具で人間同士が争う。これがどれだけ禁忌に触れる行為か! それも兄弟で!」
「固いなー」
 弦は琴と階の行き先に立ちはだかるように、戒具を手にしたまま立ち尽くしている。
 周囲はまだなにも気づいていない。
 鳴音兄弟の争いなど目もくれず、火事場に注目したまま。
 こんなところで戒具を使用したら、周囲にどれほどの被害が出るのか。
 手が出せない。弦は承知なのだろう。
 弦が言った。
「耐えろ、琴。試練だと思え。分からないわけじゃないだろう。行けば一家全員、暗殺されてもおかしくない。このままでも鳴音一家の信頼は失墜して、自然管理委員会からも追放されるだろう。でも、心中することはないんだ」
 弦が言っていることは大袈裟な詭弁だろうか。
 いいや違う。
 本当のことだ。
 琴は途端に足が竦み、動悸が激しくなった。
「俺なら弦兄さんに勝てる」
 階が戒具を構えながら言った。
 階は情力、戒力においての三百年に一人の才能。恐らく勝負なら勝てるかもしれない。
 そうだとしても、琴は身を乗り出そうとしていた階の肩を掴んで制したのだった。
「なんだよ」
「駄目よ。悔しいけど、弦の言った通りなの」
「暗殺されるって?」
「分からない。もっと酷い結果になるかもしれない。あんたは学校にも行けず、どこかの過疎地に立てられた刑務所みたいなところに一生幽閉されるかも知れない。それでもいいの?」
 階がごくりと生唾を飲み込んだのが分かった。
「弦の気持ちが分かる。弦が守ろうとしているのは奏だけじゃない。弦には兄弟がまだ下に二人いるのよ」
「そうだけど……」
 琴は戒具を懐にしまった。
 戦闘の意志はない。そう示したつもりだ。
「どうにかならないのかよ。奏兄ちゃんを本当に見捨てるつもりなのか?」
 分からない! 分からないよ!
 琴の心が悲鳴を上げる。
 私に階という弟がいなかったら、今すぐ奏を助けるために弦と勝負していたかもしれない。
 弦も同じ気持ちなのだろう。
 痛いくらい気持ちが分かるよ、弦。
 でも、本当にどうにもならないの?
 琴は耐え切れず、涙をこぼした。
「また泣くのかよ。女はずるいな」
 そう悪態づく階も、戒具を懐にしまった。
「弦、本当に奏は助けられないの?」
「俺たちにはなにも出来ない」
 琴は黒煙を立ち上らせる高層ビルを顧みた。
 見上げても奏の姿は見えない。
 奏の仕事始めの日、結界から人外を逃がした奏。あのときから、こんな事態に発展するなんて思いもしなかった。
 まさか本部を襲っている人外を、奏が助けようとするなんて。
 あんたはどうしてそこまで無垢なのよ。
 私たちがこんなに苦しんでるって知らないで。
「ばか……」
 琴の呟きは、隣に居た階だけに聞こえていた。
 
 
 
 遊里は通話の途切れた携帯電話を握り締めたまま、呆然と行く末を見守っていた。
「もうやめてくれ! この人外は悪い人外じゃないんだ!」
 人外の閉じ込められた結界内に入り込み、まるで盾になるように両腕を広げている。
 本部を破壊しつくし、人間に対して襲撃を行った人外を、どうして「悪い人外ではない」と言えるのか。
「あいつ、なんなんだ! もう少しで倒せるっていうのに! 退きやがれバカヤロウ!」
 職員の中からも野次が飛んだ。
 苛つく気持ちは分かる。
 人外を守るなんて……!
 俵原孝司も剣を手にしたまま、手を出せないでいる。
「馬鹿な奏。あんなことしたら殺されても文句は言えないわよ」
 傍に居た鳩谷多恵が呟いた。
「奏くんを知ってるの?」
「ちょっとした知り合い。別に親しくない」
 冷たく言い放つ。
 それにしても、奏の始末は任せるなんて。
 チーフマネージャーは弟を見捨てたのだろうか。
「どうして奏くんは人外の盾になってるの? 何か知ってるの?」
 遊里は多恵に訊ねたが、多恵は首を横に振る。
「気でも違ったんじゃない? 時々いるでしょ、動物愛護に過剰反応するクレーマみたいな奴」
 そうなのだろうか。
 チーフマネージャーの弟。そのことからも遊里は事態をどうにか平和的解決に導いてみる義務があるように感じた。
 遊里は踏み出した。
「奏くん!」
 遊里は手を上げながら近寄って行った。
「奏くん! あなたを知っています! あなたのお兄さんの同僚です! その私からお願いします! 危険だから早くこっちに来て!」
 遊里が声を上げると、その場にいる全員の視線が遊里に注目した。
 手出しできなかった俵原孝司が踏みよってきて遊里に耳打ちする。
「あんたが収拾できなかったら、あいつごと人外を葬るが、いいか?」
 遊里は奏から視線を逸らさずただ頷いた。
 私の説得が最後のチャンスよ、奏くん。あなたがそこにいる理由は知らないけど、あなたは殺されてしまうのよ。
「ただちにこちらに来て。あなたに後方にいるのは凶悪な人外なのよ」
 奏は必死な形相で首を横に振った。
「違う! こいつは悪いやつじゃない! 瞞されたんだ! 本当はこんなことする奴じゃない!」
「あなたはその人外を知ってるの?」
「知ってる! 山奥で俺を助けてくれたんだ! それに一ヶ月も一緒に居た! こいつのことは俺が一番よく知ってるんだ!」
 先週の山火事の件だ。
 調査ではなにも分からなかったが、まさかあの時十五メートル級の巨大な人外を葬ったのは、この人外だというのか。
 ――いいからそいつごと始末しろ!
 ――なに考えてやがる裏切り者!
 遊里の背後から野次が飛ぶ。
 奏は間違いなく、巨悪を守ろうとする背信者だった。
 この中に、誰も奏の味方はいない。
 あなたの主張はどうあっても通らないのよ。生きていたいなら、今すぐこちらに来るしかない。
 それでも来ないのなら、チーフマネージャーが決断したように、私も決断するしかない。
「あなたが一緒に逃亡していた人外はその人外なの?」
「ちがう。別の人外だよ。とにかくラナ・カンを殺さないでくれ! 逃がしてくれたらちゃんと事情を話すから!」
「分かって。そんなことできないの。あなたもそこに居座り続けたら一緒に攻撃するしかなくなる。お願いだからこっちに来て」
「俺は退かない。絶対に退かないぞ」
 その言葉が本当だとしても、ただの虚勢だとしても死んでから後悔してももう遅い。
 そしてこの後、後世まで語り継がれる重要な言葉を、奏が残すことになる。
 だがこのとき、その言葉は誰に胸にも届かなかったし、重要な言葉はフロアの片隅でうず巻いて、やがて消えていく運命にあった。
 遊里が次の言葉を放った後に、その言葉は紡ぎだされた。
「人外は善悪関係なく抹消されなくちゃいけないのよ。そんなことくらい、分からないわけじゃないでしょ」
「どうして? どうしてそういう考え方しか出来ないんだ。どうして誰も考えない?」
「なにを?」
「殺すんじゃなくて、帰す方法をだよ」
 ――殺すのではなく帰す。
 後に自然管理委員会の運営するスクールで一番最初に習う言葉となる。
 だが、まだずっと後の話。
「いい? その人外は本部を襲ったの。怪我人も出たかもしれない。死者も出たかもしれない。そんな人外を許せないのは私も同じ。みんなも同じ。どうしてそんな人外を守ろうなんてするの?」
「騙されたんだ! ラナ・カンは騙されてやったんだよ!」
「騙されたって、誰に?」
「だから――」
「もういいだろう」
 遊里の肩を掴んで引いたのは俵原孝司。
「クリスティーヌの結界も永遠じゃない。時間がない。奴ごと始末するぞ」
 背の高い男を見上げた。
 仕方がない。
 もう、私に出来ることはない。
 なにより、凶悪な人外を守るほうが悪い。
 凶悪で残忍な……。
 そこまで考えて、ある重大な事実に気づく。
「ちょっと待って――」
 遊里が声を上げたときには遅かった。
 天井まで届きそうなくらいに伸びた俵原孝司の剣が大きく弧を描いた。
 待って!
 ひとつ疑問があるの!
 どうして人外は目の前にいる奏――人間――を襲わないの!?
 遊里の思い空しく、奏と人外を両断するために刃が迫る!
 
 
 
 奏が現れる少し前。
 ラナ・カンは体中に傷を負い、もはや片方の前足は痺れて感覚を失っていた。
 俵原孝司という人間に斬られた場所は、まるで魂を傷つけられているかのように壊死を始めている。
 何てことだろう。
 ラナ・カンは絶望感に打ち拉がれていた。なにより、志し半ばで終わる事が何よりも無念だった。
 打ち破ることのできない強固な結界。その外側から恐ろしい刀によって防ぎようもなく斬りつけられる。
 家族を思い起こした。
 妻や娘の姿。
 現世に渡ってくる決意をした瞬間から、もう会えない事は覚悟していた。
 それなのに、最後になってこちらの世界にやってきたことを後悔するなんて。
 もう火を吹く気力もない。
 唸り声をあげて威嚇する気力もない。
 ラナ・カンは目を閉じた。
 もはや手立てなし。
 ラナ・カンはせめて最後の瞬間、家族の姿を思うと静かに座した。
「ようやく諦めたか。獣の類にしては潔いな」
 俵原孝司の戯言さえ聞こえてこない。所詮、檻の外からちくちくやることしか出来ない卑下な人間。
 何のための渡航だったのか。何のためにここまでやってきたのか。何のために孤独な現世へやってきたのか。
 そんな無念を拭い去るかのような妻や娘の姿。
 国際連盟は残された家族の生活を保障した。ラナ・カンがいなくとも生活には困らないはずだ。
 私は誰も知らない、誰もいない別世界の土に眠る。
 どうか、家族だけは幸せに……。
「諦めるなラナ・カン!」
 声がした。
 誰の声も遮断していたはずのラナ・カンの鼓膜に、その声だけは響いてきた。
 目を開く。
 まずはじめに見えたのは、人間たちの愕然とした表情。
 次に見えたのは、ラナ・カンの目の前に両手を広げて背を向ける人間の姿。
 その人間は、ラナ・カンを捕らえる結界の内側にいる。
 何の警戒心も持たず、容易にラナ・カンに近寄って来れる人間は、こちらの世界に一人しかいない。
「奏か?」
 奏は半分こちらに顔を向けて、早口で行った。
「ごめん、ラナ・カン。ごめんよ。一人にしてごめん」
 何を言っている、奏。
 貴殿がいようといまいと、もとより私は一人。
「何しに来た、奏」
「お前を助けに……」
 人間たちがどよめいている。急な事態に動揺しているのだろう。
「もはや貴殿に対しての怒りなどない。そこを退け、奏」
「でも、怒ってたんだろ。だからごめん」
 誰もが私に敵意を向けてくる中、どうして貴殿は私を守る?
 貴殿の守るべき相手は人間だろう。
 そこに立っていたら、味方であるはずの人間が貴殿を敵視する。
「もう決めたんだ。俺は絶対に諦めない。絶対に約束を守る」
 奏はラナ・カンを見た。
「研究所に行く前に言ったろ? ラナ・カンに何かあったら俺が助けてやるって」
 確かに言ったが。
 もはや貴殿が来たところで、どうにかなるわけでもない。
「それに、もう一つ約束したな」
「もう一つ?」
「ラナ・カンをもう一度家族に会わすって」
 愚かな。
 愚か過ぎる。
 どうして貴殿は。
 どうして人間は。
 大家貴信のような人間もいれば、奏のような人間も存在する。
 貴殿に約束を果たすメリットがどこにある。
 こんなところにやってきて、自分の立場がどうなるかなど明白なはず。
 人間のくせに、人間を敵に回すのか。
 見ろ、あの忌々しげな人間の表情を。
 貴殿の味方など一人もいないぞ。
「分かった。貴殿に任せよう」
 ラナ・カンがそう呟いたとき、奏かかすかに笑ったように見えた。
 人間は奏をどうにか説得しようと試みたようだ。
 だが、奏は「ラナ・カンは騙されただけ」「悪い人外ではない」と突っぱねる。
 それが事実であろうが、嘘であろうが語の現状で耳を貸す者など皆無だ。
「無駄だ、奏」
 ラナ・カンの言葉に、首を横に振る。
「絶対に理解してもらうんだ、お前のこと」
 本気で言っているのだろうか。
 この現状で、よくもそんな楽観的なことを言える。
 空気が代わる。
 奏の説得を試みていた人間の女が引いて、俵原孝司と名乗った人間が現れた。
 あの表情は絶対にやる。
「奏、気をつけろ。あいつは私を貴殿ごと斬るつもりだ」
「あいつの能力は前に見て知ってる。大丈夫」
 何が大丈夫なのか。
 奏一人がどう立ち向かえるというのか。
 絶対に不可能。
 その文字が明確に浮かぶのに、なぜだろうか。
 なぜこんな卑小な人間の背中が頼もしく思えるのか。
 自分が弱っているせいか。
 仕方がないな。
 一度は貴殿を恨みもしたが、貴殿の愚かしさに私も便乗しよう。
 俵原孝司が剣を伸ばした。
 すぐにでもあの刃で我々を切りつけるだろう。だが、私はもはや逃げ出せたとしても命を繋ぎとめることは出来ない。致命的な傷を負ってしまっている。
 せめてこの世で恩義のある愚かな人間のために命を耗やそうではないか。
 貴殿にゼンマイをまかれたおかげで、少しは私の故郷のため、力を尽くせたはず。
 俵原孝司は伸ばした剣を横に傾けた。
 そのまま横薙ぎにして、奏とラナ・カンを両断する気だろう。
 刃が動いた。
 紫色の刃が急速に迫る。
 奏が動いた。
 奏を身を挺して守ろうとしていたラナ・カンは虚を突かれて動けなかった。
 何をするつもりだ、奏。
 紫色の刃は、空気を切り裂きながら奏に炸裂した。
 炸裂した!
 だが、その刃が奏とラナ・カンを両断することはなかった。
 バリバリ、という雷のような音がしたと思うと、奏が横に吹っ飛んだ。
 見ると紫色の剣は粉々に砕け、チリとなって空中に漂っている。
 何が起きたかも分からず、呻き声を上げながら立ち上がる奏を見た。
 奏は腕を負傷したのか、二の腕あたりを抑えながら苦痛に顔を歪めている。
「無傷じゃ守れなかった」
 奏は再びラナ・カンの正面に立つ。
「やっぱり、交渉は無理だったよ」
 奏は独り言のように呟いた。
 俵原孝司が呆然と、刃の失くした剣の柄と奏を交互に見ている。
 その背後に控える人間たちも同様だ。一様に言葉を失っている。
「何をした、奏」
「防御しただけだよ」
「なぜだ、私も防げなかった攻撃を」
「戒具で具現化される武器は情気とか戒気の塊なんだ。当然、殲滅用の御札で破壊できる」
 御札?
「やっぱり、使わなくちゃならないみたいだよ。使いたくなかったけど、対人間用の御札……」
 そのことの意味することを、ラナ・カンも理解できる。
「やめろ、奏。どうせ逃げ切れない。そんなことをしたら、貴殿はこちらの世で反逆者になってしまうぞ」
「もう遅いよ。ラナ・カン、どれくらい動ける? まだ火は吹ける?」
「大きな炎というのならあと一度くらいなら可能だが……」
「それくらい体力を残してるなら大丈夫だよな。ユーナにも同じことやったんだけど、かなり体力を消耗するみたいなんだ」
「何をするつもりだ?」
「この結界は御札を基礎にするものじゃないから壊せない。結界を作ってる人間を倒さないと消えないんだ。でも、結界を壊さなくても結界を通り抜ける方法はある。なあラナ・カン。小さくなってくれよ。子猫サイズくらいに。後は俺に任せて」
 ラナ・カンは答えられない。
 肯定も否定も出来ないまま、ラナ・カンは言われた通り小さくなった。奏に抱きかかえられて肩に乗る。
「落ちるなよ。それと、ちょっときついけど我慢してな」
 そう言ったとき、ラナ・カンが小さくなったことで不穏を悟った人間たちが色めき立つ。
 俵原孝司が砕けた刃を再構成した。人間が持つ戒力が底を付くまで、あの刀は幾らでも再生できるのだろう。
「もうあの攻撃は防げない。思ったよりも強すぎる」
 そう言った奏は、ネックレス状にした御札を、ラナ・カンの首に掛けた。
 途端だった。
 ラナ・カンはまるで全身の血液を抜かれてしまったかのように気が遠くなった。
 危険な気がして、首に掛けられた御札をはずそうとすると、奏に「俺を信じて我慢して」と言われ、耐えるしかなった。
 すると、奏は肩にたすき掛けしていたバッグから片手に掴めるだけの御札を取り出した。
「行くぞ、ラナ・カン。目を瞑って」
 目を瞑っている暇などなかった。
 奏は御札の束を俵原孝司に向かって投げつけた。
 空中でばらけて、俵原孝司に飛んで行く御札。
 俵原孝司は刀で飛んできた御札をなぎ払う。
 その時だった。
 世界が真っ白になった。
 次の瞬間、ラナ・カンの視界は暗転し、すべての視界を失った。
 そこらじゅうで悲鳴が上がった。
 男と女の入り混じった悲鳴が、徐々に遠くなる。奏が駆け出したらしい。
「なんだ今のは! 目が……!」
「目を閉じてって言ったのに」
 しばらくすると、首に掛けられた御札が取り払われた。
 取り払われると視界の回復も早かった。
 ぼんやり見えるようになると、そこは階段だった。
 奏がぜいぜいと息を付きながら階段を下っている。
「結界の外に出たのか?」
 ラナ・カンが訊ねると、奏が「そう」と頷く。
 一体、どうやって?
「もう同じ手は使えないだろうけど、結界はラナ・カンの瘴気に反応するんだ。だから、さっき首に掛けた御札で一時的にラナ・カンの瘴気を押さえ込んだんだ」
「そんな事が……」
「いままでそんなことする人間がいなかっただけで、結界なんて本当は弱点だらけなんだよ。瘴気を封じ込める御札はかなり強力だったから、体力も喪失してるはず。喋らず体力を温存してよ」
「そうでもない。必要ならまた大きくなって戦おう」
 奏が笑った。
 なんなんだろう、この人間は。
 どう見たって人間の中でも力がなく、ひ弱に見えるこの人間は、ラナ・カンでも敵わなかった敵から見事逃げ出し、ラナ・カンを肩に乗せている。
 全ては工夫か。
「ラナ・カン、この混乱に乗じて、ちょっと寄り道するよ」
「寄り道? どこへ?」
「この二日間、部屋に閉じこもって俺は家の古文書を読み漁ったんだ。どうにかしてお前やユーナやナユタを隔世に戻す方法はないかって思って」
 まだそんな甘い事を言っているのか。
「まだ諦めていないのか? 不可能だと言ったはずだ」
「さっき、結界に閉じ込められてるときも逃げ出すのは不可能だって言ったよね。でもこうして逃げられたじゃないか」
 そう言われるとなにも言い返せないラナ・カン。
「寄り道だろうと何だろうと付き合おう。再び捕らえられることになろうと貴殿を恨みもしない。貴殿に貰ったような命だからな」
「命は誰の物でもないよ」
 奏はひたすら階段を下る。
「ラナ・カンに何度か火を吹いてもらうことになるよ。大丈夫?」
「大丈夫だ」
 本当は大丈夫などと言える状態ではなかった。
 でも言わざるを得なかった。
 いや、大丈夫ではなくても、奏が火を吹いてくれというのなら、それは正しいことの為の言葉に思えた。
 だからこそ、火を吹かなければならない。
 やがて、奏とラナ・カンは目的の場所にやってくる。
 本当に奏は私や、ユーナ、ナユタを隔世に戻すつもりなのか。
 本当に、戻す方法などあるのだろうか。
 本当に、また家族に会えると期待しても……。

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