あっちから変なの出てきた

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第二章 【 飛んでイスタンブール 】


 奏の所属する組織とは、内閣府の国家公安委員会の下部組織である「警察庁」に並ぶ、国家機密機関「自然管理委員会」と呼ばれる行政機関である。
 見てくれこそ警察庁と肩を並べているが、自然管理委員会はその存在、およびその人員さえ全て極秘とされ、表舞台には一切登場しない。
 自然管理委員会は、以下の部署を統括する。
 自然管理委員会本部、自然公安研究所、総合科学技術会、自然公安教育学会。
 術師の人員を抱え、仕事の受注、要員の派遣を行うのは自然管理委員会本部である。さらに細かく派生する組織図は省略するが、その組織図の末端にいるのが奏だ。
 ようするに奏は非公式の公務員なのである。奏の給料は国民の血税から支払われ、支給される術具も同様に税金が使用される。
 それゆえ、末端の奏が所有する御札や戒具などの術具の資産管理も徹底されており、病院の薬剤管理さながら誰が何の術具を幾つ保有し、補給はどの程度必要か、徹底的に管理されるのである。
 術具の紛失、譲渡などは始末書の提出や、停職、減俸処分など、うんざりさせられるほど厳しく、仕事に出るたびに直属の管理者に報告書を提出し、業務報告や術具の補給依頼をする。対処した人外のレベルのわりに術具の消費が多い場合などは注意を促され、改善されない場合は本部に免集されて研修を受ける。
 当然、術師としての免許証もあり、運転免許さながらのポイント制を導入しており、減点ポイントの度合いにより、毎年の免許更新時にはやはり研修がある。
 ただし、術師の昇格審査もこの時行われる。
 免許には成果によるポイント加算もあり、優良術師には昇進試験を受ける権利がもらえる。昇進試験は任意であるが、試験を受ける権利を貰うことさえ稀なことであり、大変名誉であることから、昇進に興味がない人間であっても、体裁を取り繕う目的で試験は参加する。
 当然、昇進によって昇給もあれば、臨時手当も増える。公務員であることから公共施設での優遇も受けられれば、定年後の天下り先にも苦労しない。
 仕事で命を失う確率は、大手企業や警察署に比べればないに等しく、仕事は稀であることから自由な時間が多い。
 仕事としてはとても余裕がある。
 ただしこの仕事、一般から公募するわけにもいかないし、なにより国家レベルの極秘組織である。あらたに人員が確保されるケースは、組織の世帯からしかありえず、鳴音一家同様、組織に属する人間の子息がほとんどである。一般人がいくら就職を望もうとも、よほど信頼の厚い強力なコネクションがない限り不可能だ。
 ゆえに封鎖的な農村同様、鎖国根性丸出しで表舞台を嫌う姿は、組織を知る人間から「陰湿」「カルト」「インポ集団」「教団」などと揶揄されることもしばしばだ。
 確かに、僻地の少数民族のように濃くなる血統の中において、組織の人間たちは奏の目からも異様に映る。みんな顔や雰囲気が似ている気がして、一度ならず自然管理委員会を不気味に思うことも多かった。
 なにより、本部の仕事をするようになってからの一番上の兄貴である弦の異様さったらない。昔から冷たい緑眼の持ち主だったが、本部に入ってからは薄気味悪い微笑を浮かべ続けるようになり、いつも何かを企むように物思いに耽ってる場面を良く見るようになった。
 自然管理委員会。名前は本質を誤魔化すように取り繕われているが、確かに隔世という良く分からない世界からの迷惑な来訪者を相手にする行政機関である。一般人から見て心知れなく映っても当然といえよう。
 さて、これまでに出てきた自然管理委員会本部と総合科学技術会という二つの下部組織。両者は犬猿の仲と言われて久しかった。肩並びの同等な組織でありながら、人事権を持つ自然管理委員会本部を総合科学技術会は快く思っておらず、しかも自然管理委員会本部からの要請を受けて、新規術具の設計、開発を行っている技術会は尋常ならぬ忙しさに翻弄されているのだ。
 なし崩し的にお客様の委員会本部、仕事を受注する請負会社の技術会、という構図が出来上がってしまっていた。死の物狂いの忙しさの中、委員会本部は技術会の技術者増員を渋っている。昨今の不況と財政難によるしわ寄せであるが、週にニ三度しか働かない術師を無数に抱える委員会本部とあれば、技術会の不満が爆発しない道理はない。
 いつ不満が大爆発し、月に三百時間働かされている技術会の技術者が暴動を起こすか分からない状況の中、その間を取りもち、両者間の摩擦を防いでいるのが奏の兄である弦であった。
 弦の人望は熱く、技術会からの評判も良い。技術会の役員連中の愚痴もよく聞き、時には技術会からの要望を本部に申請し、職場環境の改善に一役買ったりする。
 本部と技術会の摩擦熱が高温に達する前に差し水を足して、均衡を保つ弦の力に本部も技術会も一目置かざるを得ない。
 彼がいなくなったらとたんに摩擦面から火が噴出し、委員会全体に甚大な大火事を巻き起こすことを、誰もが胸の奥底では理解しているからだ。
 弦はこの日、総合科学技術会の開発施設にいた。
 プロジェクトマネージャである大家貴信という初老の男と、煙草を吹かしながら喫茶ルームで会話していた。
「封鎖的な開発環境が長く続いたせいで、技術者がどんどん高齢化している。熟練した技術者は今の環境では敵なしであろうが、反面、変化を嫌う気質に、若い人間が辟易している」
「ええ」
 弦が微笑をたたえながら、老人の話を熱心に聞き耳を立てている。
「もっと効率的な方法がある。もっと根本的な改造によって、高品質な術具の開発が可能である。そんな若者の嘆きが聞こえてくるよ。高齢化して堅くなった頭では新しい技術についていけず、いつまでの古い習慣を繰りかえし、固執してしまう。やってられないと、若い人がどんどん現場を離れ、今この職場は悪循環に陥っているのが目に見ているのに、なにも出来ず手をこまねていることしか出来ない事が、なんとも歯がゆいんだよ」
「分かります。全ては委員会の閉鎖的な気質のせいでしょうが、確かに開発、製造とユーザのバランス、要するに需要と供給のレベルに格差がある」
「その通りだ。この現場の忙しさを見てくれ。雰囲気は悪くなる一方だ。取り返しの付かなくなる前に、ぜひ若い技術者の参入を検討して欲しい。今、技術会は新しい風に飢えているんだよ」
 心に染み入ったかのように、何度も相槌を打つ弦。今日はこの老人に、ひとつ知識を借りなければならない。そのために、こんな愚痴でも聞いてやらなければならなかった。
 この業界において、深い歴史の中で幾人かの英雄と言うべき術師は存在したが、大家貴信と言う男は研究者、開発者として英雄という称号に似つかわしい実績を持っている。
 弦はにこやかな笑みを崩さないまま言った。
「人事については尽力させていただきますが、若手は技術より術師としての教育に重きが置かれています。若い人にも屋内の開発業務よりは、外で人外と直に接触するほうが人気があるんですよ」
「アクションゲーム世代、って奴かな。論理的にクイズを解決していくよりは、緊張感やスリルの中で直感的に行動して行くほうが気持ちいいんだろうな」
「表に出て行く。積極的に行動する。誇りを持って発言する。国家にとっては喜ばしい若者の傾向なんでしょうが、リーダばかりいても組織は回りませんからね」
 口を開きながら、この話をいつ切り上げるか考える。
 この老人、三十年もこの研究所にてチーフを勤めている。野望は持つが、出世を嫌う根っからの職人気質で、開発の運用システム改善や作業効率化よりは、品質の向上、高レベルな技術力の結晶などという言葉を愛する老人だ。
 ゆえに運営力はないが、技術に対しての発想力は組織随一である。
 現在の術具の強化は彼なしではありえなかった。
 ただ、老人の言葉とは裏腹に執りぬく性格ゆえ、この現場の過剰な労働は、全てこのチーフの運営力のなさが原因であるのだ。
 それを指摘できずにいる弦も弦だが、弦が本部と技術会の仲を上手く取り持っているおかげで、文句の言えない上層部同様、弦も口を噤んでるしかないのである。
 弦が統括する部署は「イスカ領域調査部」と呼ばれる部署で、一見、術具の開発セクションとなんら関係の内容に思えるが、その実は世界中を飛び回ってイスカ領域を調査しまわる弦の部署にとって、術具の装備を充実させるために開発依頼をすることもあれば、大家貴信が新たに開発した術具の実地試験などにも活躍し、はたまた世界中のイスカ領域にて大家貴信の開発した術具の広報活動も担っているのだ。
 切っても切れない関係なのである。
「僕の知っている人間に、技術者に最適な人間がいるんですが」
「へえ、ぜひ紹介して欲しいもんだな」
「でもそいつは人外と接触する現場を選びました。というよりも、むしろこの業界自体を嫌っている節があります」
 老人はしゃあしゃあと笑って「身内か?」と訊ねてきたので、弦は苦笑うしかなかった。
 老人は表情を素に戻すと、仕切り直すように一度咳払いをしてから言った。
「いろいろ愚痴ってしまって済まなかったな。多忙の弦君がただ世間話をするためだけにこんな所には来ないのは分かってる。俺に何を聞きたいんだ?」
 大家は愚痴を聞いてくれたお礼といわんばかりに会話の緒を広げてきた。弦は頭を下げる。
「いや、面目ない。大家さんの要望は本部に伝えておきます。僕に出来る事であれば善処しましょう」
「まあ、立場の悪くならんよう、ほどほどにな。それで? 要件は?」
「実は……」
 弦は言い渋った。これは演技ではない。素直に相談し辛かった。
 大家は勘が良い。必ず弦の質問に対して、ある程度の事情を察するはずだ。
 だが、あえて口を噤む気遣いは出来る人間だ。
「御札についてなんですが」
「御札? こりゃまた古典的な道具の質問だな。でも興味深い。君レベルで、いったいいまさら御札の何が疑問だって言うんだ?」
「それが、禁忌に触れるものだと思われるので、口外して欲しくないんですが」
 老人の目が輝いた。秘密と砂糖は、老若男女問わず甘美なものである。
「御札の効力を人外以外、例えば人間に対して効力を発する御札は、製造可能でしょうか」
 興味に目を輝かせた大家の瞳が、疑念に淀む。
「それを俺に作れと?」
「まさか! そうではありません。可能性の話を聞きたいのです。御札の発動条件は人外の発する瘴気との心的な化学反応ですが、人間の情気を発動条件に変えることは、論理的には可能なんでしょうか」
 老人はふうむと唸って頬を撫でる。
「何か事情がありそうだな。まあ、とりあえず質疑に応答しよう。単純に言って無理だな。俺も御札の全てを知っている訳ではない。先祖より代々「正当」な技術のみ継承され、悪用の可能性のある技術は封印されている。ただ、これだけは言える。既存の御札を改造して、人間に対して有効にすることは不可能だ」
「それはなぜですか?」
「俺が出来なかったからだ。俺に出来ないこが他人に出来てたまるか」
「試した事があるんですか?」
「当然だろう。禁忌術だがな。オフレコで頼むぞ。その極秘研究の副産物として戒具が生まれたようなもんなんだからな」
 弦はにっこり笑ってみせる。
「さすがに君も自然公安研究所へのパイプはないのか。ここ研究セクションではなく設計開発セクションだ。ある程度の試験や実験を行っているものの、御札のことを訊いても大した情報は得られないぞ。個人的に戒具なら幾らか分かるがな」
「知っている限りで結構です」
「ああ。不可能な理由は以下だ。そもそもこの御札の材質がなんなのか解明されていない。いや、知らされていない。自然公安研究所から材料が支給されるだけで、その材質の研究、解析自体は研究所の仕事だ。ここの設備では調査できないし、研究所の守秘義務は強固で情報は一切漏れてこない。それに文様の問題がある。普通に見れは唯の奇っ怪な模様だが、これにも意味があるらしい。言霊などという霊的な意味合いがあるとの噂だが、俺の見解では違う。瘴気という気の流れを察知、取込、解読、判定する暗号であると推測する」
「暗号、ですか」
「プログラム、とでも言おうか。古代の象形文字を解読すれば、その時代の状況を読み取れるように、この文様を解読できれば瘴気の本質を知る事が出来る。或いは瘴気の本質を知っているものが、この紋様の意味を解読できる。そんな奴がいると思うか? 文化も人格も思想も価値観も違う宇宙人が書いた言語を、人間が理解できると思うか?」
「おっしゃっていることは良く分かりました。改造して、対人間の御札を作るためには御札の全てを知る必要がる、ということですね」
 予想通りの答えだ。ここでは新しい発見はない。落胆しているのをひた隠しにしていると「でもな」と老人は言葉を付け加えた。
「戒具というものがある。これは知っての通り、戒力を武具によって増幅して放出するものだ。何を隠そう、概念だけあった戒具を実現させたのはこの俺だ」
 そう。戒具の開発。この実績と栄誉が、この老人をいつまでのここに居座らせる元凶である。
 しかし、戒具の開発は諸刃の剣であり、実用までには相当な時間と議論がなされた。結局実用化がなされたわけであるが、問題は解決されておらず、現在でも世界中で賛否両論分かれている。
 戒具の問題は「人間にも有効」ということ。この点において戒具の強化、汎用化が進まない原因にもなっている。強化されれば戦争の道具、つまり兵器としての需要が発生してしまうからだ。
 自然管理委員会、および世界中に存在する同種組織の統一思考として、術師はあくまで人外に対する駆除、殲滅を目的とし、人間に対し傷つけるような道具を有することを禁じる大原則がある。
「批判を覚悟で言うが、戒具はある意味、対人間用の御札と言い換えてもいい。だが材質も構造も理論もまるで別。戒具は実に単純な構造だ。故障が多く、御札のように力を帯電できない。御札の精密さ、強力さ、汎用性に安定性と比べれば雲泥の差。戒具とは拳銃の弾が尽きた戦士が、苦し紛れに敵に拳銃自体を投げつけるような物だ。妖怪退治の主役の座はまだまだ御札だろうな。でも、対人間用の御札の取っ掛かりにはなる」
「不思議に思ったんですが、なぜ大家さんは対人間用の術具の研究など行ったんですか?」
 大家は口の端を吊り上げて「嫌な質問をするな」と嗄れ声を上げる。
「禁忌に挑むのは、技術者の性ってもんだろう。もちろん、禁忌に手を出したのは対人間用の御札だけではない。おっと、これ以上は言えないな」
「話の腰を折ってすみません」
「いいや、実に楽しいよ、弦君」
 誰にも言えなかった秘密の研究の成果を話して聞かせる。それはそれで気持ちが良いのだろう。
「戒力、とよばれるものは情力と区別されているものの、力の本質は同じだ。ただ発動条件が違う。戒力とは制約のもと発揮されるもの。言わば負の念。情力とは、精神力が関係する強い想い。人を守りたい、でもいいし、世界をより良くしたいという思いでもいい。前向きな正の念」
 大家は煙草を咥え、火をつける。一間空けてから再び口を開いた。
「情念を封じ込めておける利便性に長けた御札と違って、戒具の力は限定される。個性に左右される、といったほうが正しいか。例えば弦君、君が何か大切なものを犠牲にして巨悪に立ち向かうとして、犠牲として何を選ぶ?」
「家族」
 即答したことに、大家は目を丸くした。
「君は迷いがないな。いま君は自分にとって一番大切なものとして家族を選んだのだろう。その意志の力が戒力だ。本気であればあるほど力を発揮する。スクールでも教えるが、普段から絶食や自慰行為を我慢したり、欲を滅して座禅に取り組むことによって、戒力を体内に養えることが出来る。その発散する道具として戒具があり、その使用方法が正しいとされる。君にした質問のように、力を得る代償に大切なものを犠牲にするという突発的な念での力も発揮する事が出来るんだ。倫理観に触るため禁止とされているが、学生に夜遊びを禁止するようなもの。誰も訊いちゃいない」
「それが、御札の話と何の関係があるんですか?」
 弦の指摘を無視して、大家は話を続ける。
「ところが思い込みが強いということは、反面、自己暗示に落ち入りやすい。家族を犠牲にしても良いという覚悟が、力を与える。力を得たが、実際に家族が犠牲になるわけではない。覚悟の問題だ。だが、繰りかえすうちに君は力を失っていくこに気づく。意志とは風化するもので、家族を犠牲にするくらいでは君の犠牲の意志は高まらない。もっと大切なものを犠牲にするという意志を選択する。何よりも大切なもの、それは……」
 話の結末が読めた気がして、弦は気分が悪くなった。
「自分の犠牲。自分の命と刺し違えても敵の殲滅を願う。これは自爆行為。自分の体に爆弾を巻きつけて、敵に抱きついて起爆させるようなもの」
 大家は一度、弦の顔を覗うように見た。
 大家が言わんとしていることを、弦が理解していると悟ったのか、大家は「このぐらいにしておこうか」と話を区切った。
「ええ。長々と済みませんでした。大変参考になりました」
 弦は立ち上がると、深々と一礼し、技術会の施設を後にした。
 半ば、逃げ出すような退室だった。
 大家がたどり着いた仮説。
 大家はその仮説の実証のために、まさか実験でもしでかさないだろうか。
 大家の仮説。
 それは戒力による力を求め、自分の生命力を費やす行為、そのものが御札の炸裂する条件と似通っていないか、ということだ。
 要するに、御札の材質は「人外」あるいは「人間」の体組織なのではないかということ。人間が体内に戒力を溜め込めるように、人外も体内に瘴気を溜め込む事が出来る。御札に力を溜め込めるのは、人体の構造と同じであるため。
「なんて、恐ろしい発想をする人だろう」
 施設を出て通りを歩く弦は、そう一人ごちながら、口元が緩んで笑みになりそうなのを堪える事が出来なかった。
 
 逃亡生活三日目。
 まさか、こんなことになうとは思いもしなかった三日前の夜。
 奏には金もなく、友人もなく、やってきたのは山奥だった。
 遠くに逃げ切れるわけもなく、森の中の廃神社に身を潜めるしかなかった。
 さて、その潜伏場所であるが、周囲三百六十度自然に囲まれた、人の立ち入らない山奥で、廃神社は偶然に見つけたものだ。
 自然界の動植物にも、人外に悪影響を与える情気は存在するが、この世のどこに行こうと存在するため、人体から特有に発する戒気だけでも触れることのない環境に逃げ込むことが一番最良に思えた。
 戒力を発するための戒気とは、人類にとってまだ発見されて新しい力で、解明されていない部分も多い。概念としては古くから存在するものの、実用化されたのは奏が生まれた後のことである。
 自然科学技術会の著名な誰かが発見し、理法方法を編み出したということをスクールで習ったが、良く覚えていない。
 情気は想念、戒気は欲念と言われる。
 奏は戒気が嫌いだった。なにより禁欲の上に溜め込まれる力が不気味に思えたからだし、禁欲など冗談ではなかった。
 歩いて逃げ込めた距離は、せいぜいあのマンションから二十キロというところで、やってきたのは隣町の山奥。
「ほらー、見てー」
 と、心なしかハイキング気分のユーナが沢蟹を掴まえたらしく、手に掴んで奏の元まで運んでくる。
「これは食べれないでしょう。きっと食べれませんよね」
 カニの容姿から判断している。人外にとっても、カニのグロテスクさは理解できるようだ。
「食えば食えるだろうけど、魚を取ってきてくれよ」
「魚ですね。分かりました」
 期待はしていない。奏は小さな沢の一部を塞き止め、溜まった水溜りに身体を沈めるように食べれそうな魚を捜した。
 季節は夏直前。沢の水は心地よく、これが冬だったらと思うと、ぞっとする。
「奏さん、見て、見て」
 奏が魚探しに躍起になってるところに、再びユーナが現れて、タガニを運んできた。
「見てください。これ、食べれませんよね。きっと食べれませんよね」
 訊ねてくるので「食べれないと思うよ」と答えると、クイズに正解した回答者のように目を輝かせて喜んだ。
「獲物を報告する猫じゃないんだから、いちいち持ってこなくてもいいよ。食べれないものじゃなくて、食べれそうなものを持ってきてくれよ」
「はい」
 ぴゅう、と音を立てて戻っていったユーナに獲物を捜す様子はない。世にも奇妙な生物探しに夢中だ。
 どぼん。
 奏の傍で水しぶきが上がり、水を浴びたと思うと、ケラケラ笑うナユタがいた。
 岩の上から、奏の作った水溜りに飛び込んだのである。
「冷たい。冷たい。うへえ」
 そんなに水が珍しいのか。今の飛び込みで、獲物は逃げ出したに違いない。
 呆然としながら、額に手を置いて少々考え込む。
 逃亡者としての自覚がない。
「ナユタ、お前に働けとはいわないけど、せめて邪魔しないでくれ。今晩の飯が抜きでもいいのか?」
「いいよー」
 などと抜かすナユタ。子供はのん気でいい。
 過労で倒れる主婦の気持ちで水溜りから這い出ると、ユーナが「見て見てー」と颯爽と奏の傍まで走ってきた。
「これ食べれますか?」
 見てみると、ユーナが掴んでいるのはあからさまに毒気のありそうなやぶ蛇だった。
 やぶ蛇が面を上げ、獰猛そうな牙をむき出しにして「しゃあ」と吼えたときは、奏は張り裂けんばかりの悲鳴を上げていた。
 
 奏にサバイバルの知識はないし、山菜やキノコの知識もない。
 せいぜい川で泳ぐ魚に食べれないものはないだろうくらいの展望で、一日中水に漬かっていたが、捕まえる事が出来たのは小さめの魚(恐らく鮎)が一匹と、沢蟹が数匹。どうにもならない。塩も調味料もない山奥で、鮎を塩焼きにも出来ない。
 成果に呆然としていると、ユーナとナユタが心配そうに奏を見ている。
「この二日間、ろくなもんを食べてないよな」
 低い声を出すと、神妙に二人は頷いてみせる。
「二人とも今の状況を理解してないと、俺は思う。遊んでばかりいないで食料を確保しないとみんな助からないぞ」
「ごめんなさい」
 今にも泣き出しそうにユーナが謝ると、ナユタも「ごめんなさい」と潮らしくしてみせる。
 とりあえず納得し、気を取り直して言った。
「とにかく沢蟹は捨てよう。鮎をどうするかだけど、火を起こさなくちゃいけないな」
「火ですか」
「ああ。ライターもマッチもない。ボーイスカウトの経験もない。どうやって火を起こすかだけど……」
 ううん、と奏が悩んでみせると、突然、ユーナが明るい声を出す。
「どのくらいの火ですか? 大きいやつですか?」
「大きい? 火を起こせるの?」
「はい」
 役に立てるポイントを見つけて嬉しいのか。興奮気味の目を向けてくるユーナ。
「焚き火が出来ればいいよ。どうやってやるの?」
「こうやって」
 おもむろにユーナは口を大きく開けると「ごお」と声を上げて、ゴジラさながら火を吹いたのだった。
 腰を抜かして尻餅をつくと、呆然とユーナを見上げた。
 間違いない。こいつは人外だ。
「そんな事が出来るのか……」
「ナユタも出来ますよ」
 とユーナが言うと、ナユタが口を開けて「ごお」と火を吹いた。調子に乗って何度も何度も。
 熱気が奏の濡れた前髪を揺らす。
 言葉を失っていると、ユーナが「奏さんには出来ないんですか?」と陽気に訊ねてくる。
「出来るわけないだろう」
「簡単ですよ。誰にも出来ますよ。ほら、口を開けて『ごお』って言うだけです」
 実演してみせるユーナ。口から火柱が上がる。
「出来るわけないだろ……」
 こいつらは、ほかに一体どんな化け物じみた能力を隠しているのか。
「ほかに出来ることはあるのか?」
「ほかに……いえ、普通に出来ることしか……」
 そのユーナの常識範疇では答えは出ない。
「とりあえず火をたいて魚を焼こう。それから、掛かってるかどうか分からないけど、昨日仕掛けを作ったんだ。うまく行けば獲物が掛かってるかもしれない」
「仕掛けって?」
 ナユタが訊いてくる。
「山奥だから動物がいるはずだろ。仕掛けで動物を捕まえようと思ったんだ」
 わあい、と何かの遊びと勘違いしたナユタが歓声を上げる横で、ユーナが「火を噴く方法を教えてあげます」としつこく言ってくる。
「もっと他の能力はないのか? 手を触れず物を持ち上げたりさ」
「出来ません。奏さんはできるんですか?」
「出来ないよ」
「そんなことできる人なんて、誰もいませんよね」
 などと言う。火を吹くことの出来る奴こそ、なかなかいないぞ、ユーナ。
「とりあえず、火はいいから仕掛けを作りに行こう」
 そう提案して、日が暮れる前に山奥に入っていった。
 後を付いてくるユーナとナユタ。
「君の住んでる世界じゃ、普段なにを食うんだ?」
 ユーナに訊ねると、視線をめぐらせながら答えた。
「ご主人様から支給される穀物や、家で栽培してる野菜。時々、森の動物の肉も食べます」
「普通だな」
「普通ですよ。奏さんは何を食べるんですか?」
「チョコレートとか煎餅が好きだけど、普通に主食は米だよ」
「ちょこれーとってなんですか?」
「甘いお菓子」
 ユーナの話しぶりだと、隔世には高度に加工した食品はあまりないようだ。
「今度、食わせてやるよ」
「本当ですか? ナユタも食べれますか?」
 振り返って、後を付いてくる二人を見る。
 ユーナって可愛いよな。
 これが人外じゃなかったらな。
「いいよ。お金ないから初給料が出たらね」
 初給料が出る保証は皆無に近いが。
「この辺だ」
 動物は水辺や木の根元にやってくる。そんな自分勝手な判断で、小さな川の傍にある巨木の下に仕掛けを作ることに決めた。
「実は昨日、結界用の御札を改造して、情気にも反応する御札を作ったんだ。それを仕掛けてきた。動物が入り込んだら出られない仕掛けになってる」
 そんなこと言っても、二人には理解できないだろう。
 仕掛けの場所までやってくると、奏は思わず歓声を上げていた。
 獲物が掛かっていたのだ。
「見ろ、何か掛かってるぞ。気をつけろよ。俺の作った結界は人外も掛かるからな。万が一がある。俺の前に出るなよ」
 傍まで来ると、中にいたのは白い動物。小さめのウサギかと思って目を凝らすと、両脇にユーナとナユタも顔を覗かせた。
「猫?」
 猫だ。白い子猫。
 待て待て待て。
 ウサギが掛かっていたとしても、当然考えた。食うには殺さなければならない。その覚悟は決めていたが。
「なんで猫がこんな山奥に」
「猫は私の世界にもいます。可愛いですね。子猫ですよ」
 可愛いって言ったって、さすがに日本人の愛玩動物である子猫は殺せない。
「あ、ネジマキ猫だ」
 ナユタが声を上げた。
「本当だ」
 とユーナも同調する。
「なんだよ、ネジマキ猫って」
 訊ねると、ユーナが愛らしい顔を奏に向けた。胸がときめきそうになるが、忘れてはならない。こいつはこの顔で火を噴くのだ。
「こっちの世界にはいないんですか? ほら、猫の額のところにネジマキがあるんです」
 ユーナの指差す方向を見やると、確かに猫の額にネジマキがある。
 この猫はゼンマイ式の機械仕掛けだとでも言うのだろうか。
 ネジマキ猫はふと顔を上げると、小さな身体を震わせて「にゃあ」と声を上げた。
「かわいい」
 声を上げるユーナに、たしなめるようにナユタが言った。
「ネジマキ猫は飼っちゃいけないんだ。生まれてから二週間しか生きれなくて、掴まえたらかわいそうだから」
 飼うつもりなど毛頭ないが、食うことも出来ない。それより問題なのは、この森に人外がいたという事実。先ほども言ったが、こんなところで人外かわなに掛かるなど万が一の可能性しかない。
「ここはイスカ領域なのか」
 イスカ領域だということは、山に術師がやってくる可能性が高い。
 だが、ここがイスカ領域であれば、当然、奏が知っていても不思議はない。未発見のイスカ領域なのだろうか。
「ねえ、逃がしてあげましょう。食べちゃったらかわいそうですよ」
「分かったよ」
 仕方無く、結界を一時的に解いてネジマキ猫を外に逃がした。
 これでまた人外を逃がしたことになる。
 術師完全失格。
 ところが、結界に外に逃がしたネジマキ猫はその場を動こうとせず、不安そうに奏を見上げて「にあにあ」と声を上げている。
「かわいそう。不安そうにしてる。こっちの世界に来ちゃって寂しいんだよ」
 ユーナの言葉に「駄目だよ」とナユタ。
 ナユタに賛同するように奏が言った。
「二週間の寿命なら、現世でこの人外は明日を迎えられないと思うよ。残念だけど……」
 奏が説得に入ろうとすると、ユーナはひょいっとネジマキ猫を抱きかかえてしまった。
「なら寂しくないところで死なせてあげようよ。私がずっと面倒見る」
「一晩中寝ないで?」
「うん」
 奏はナユタの様子を覗う。
 口を尖らせて気に入らなそうだが、どうせ一晩の命、ユーナの腕の中で逝かせてやるのもいいだろう。
「ナユタ、まあいいだろ? 一晩だけだ」
 そう言うとナユタは言った。
「分かったよ。でも、絶対にゼンマイは巻いちゃ駄目だよ」
「うん。分かった」
 そう。この猫にはゼンマイが額についている。このゼンマイの意味はなんだろう。
「ゼンマイを巻くとどうなるんだ?」
 訊ねるとナユタは難しそうな顔をして「誰も知らないんだ」と答えた。
「ゼンマイを巻くと、巻いた人が不幸になるって。とんでもない事が起こるから、絶対に巻いちゃだめだって、昔から言われてるんだよ」
 おっと、これはミステリーだ。ぜひ試しに巻いてみたいが、とんでもないことが起こってしまうのなら、我慢するしかない。
 ネジマキ猫を土産に、空腹を堪えながら帰路に付いた。
 廃神社につくと、恐らく拝殿に続く参道であった場所で、焚き火を起こすことにした。
 ナユタに火を吹いてもらい、寄せ集めた枯れ木に火をつける。
 焚き火が大きくなってきた頃、枝に刺した鮎を焼き始めた。
「おなか減ったなー。これしかないのー?」
 ナユタが嘆いている。昼間あれだけ奏の邪魔をした奴の言い分だとは思えない。
「明日、俺一人で山を降りて、どこかで食料を調達してくるよ」
 昼間、誰もいないうちに家に戻って、小遣いを取ってくるか、食料をとってくるしかない。
 学校を三日も休んでしまっている。ああ、友達はどうしてるだろうか。
 物思いに耽っていると、ネジマキ猫を抱えて焚き火を眺めていたユーナが「その魚、この子にあげていい?」などと訊いてきた。
「馬鹿いうな。俺たちの分はどうする。これ一匹しかないんだぞ」
「でも、この子、明日には死んじゃうんでしょ。その前においしいもの食べさせてあげたいんだ」
「明日死ぬ奴に飯をやる必要がどこにあるんだよ」
 俺がそう言った瞬間、ユーナが目を丸くして、見る見る顔が歪んでいったと思うと大粒の涙を流し始めた。
 俺はナユタを見る。ナユタは仕方無さそうに「僕はいいよ」と大人の顔をしている。
 奏は溜息混じりに言った。
「分かったよ、知らないからな、おなか減って眠れなくても」
「本当?」
 ユーナが嬉しそうに笑った。
 ああ、何度このパターンにやられたことか。
 晴れて、今夜も飯抜きとなった。
「僕らは一週間くらい食事できなくても平気だよ」
 ナユタが不意に口を開いた。
「だから、心配しないで、お兄ちゃん」
 心配だと? 奏は愕然としながらナユタを見た。眩暈がした。訊き間違いじゃないだろうな。
「ナユタ、もう一度言ってくれ。俺の訊き間違いだと信じたいけど、お前ら、一週間くらい食事が出来なくてもへっちゃらなのか?」
「お腹は空くけど、大丈夫だよ」
 なぜそれを早く言わない、と叫びだして、そこらじゅうのものを投げつけては絶叫してみせたかった。
 俺が三日間もろくな食事を我慢していたのは、全くの徒労だったというのか?
 寝よう。寝てしまおう。
 こうなったら寝てしまえ。朝になったら、きっとこの破壊的な感情はなくなってしまうに違いない。
 
 ――深夜。
 拝殿の中に横たわるユーナとナユタ。
 静かな山奥の廃神社。無音ではないが、人工的なBGMのない暗闇は、現代人にとって静寂に等しかった。
 ――にゃあ。ごろごろ。
 拝殿前の階段に腰掛けて、暗闇の山を眺めていた。
 腹が減って眠れず、こんな事態を起こしてしまって、果たして自分は日常に戻れるのか、不安で仕方無かった。
 そんな心模様を悟ってか、ネジマキ猫が奏の心を療すかのように擦り寄ってきた。
 一晩中面倒を見ると言っていたユーナはすっかり眠っている。
 仕方無くネジマキ猫を膝の上に乗せ、撫でてやる。
 人外と人間。
 ハリネズミ同士の抱擁のように、傍にいるだけでお互いを傷つける存在。
 恨みがあるわけでも、敵であるわけでもない。でも、殺さなくてはならない。
 こんな愛らしい小動物でも同様だ。
 優柔不断の俺は、殺すことも生かすことも出来ずにいる。
 奏は「ごめんな」と呟く。触れると柔らかくて煖かい感触。とても熱を持った動物だ。
 ネジマキ猫は額の付近を執拗に手に擦りつけてきた。手に堅い感触。ネジマキ猫は大人しく座って、誘惑するように細めた眼で奏を見上げている。
 額付近の毛を掻き分けると、そこにゼンマイがあった。人の耳のような形をしたゼンマイ。
 ナユタの言葉を思い出す。うっかりゼンマイを巻くと、酷い目に遭うよ。
 一体、どんな酷い目なのだろうか。興味が足元から下腹部にかけてくすぐったが、ゼンマイを巻いてみる勇気は湧かなかった。
 どうして動物にゼンマイがあるのだろう。これは動物ではなくて機械なのだろうか。
 ゼンマイを巻くと、時限爆弾のスイッチが入る? そんな馬鹿な話はない。
 ネジマキ猫を膝の上から下ろそうとしたら、小動物は爪を立ててズボンに張り付いて拒んだ。必死さに健気さを感じる。ゼンマイを巻かないと、この動物は停止してしまうのだろうか。不憫な生き物である。そう思うと、ゼンマイを巻いてやりたい気持ちが沸き起こる。
 奏はネジマキ猫の額に付いたゼンマイに手を掛ける。ネジマキ猫はいよいよだと、興奮した眼を奏に向けた。
 カリカリと燥いた音を立て、以外に抵抗感もなくゼンマイは周った。ネジマキ猫はこの上ない快感を味わっているのか、目を細め、きゅうきゅうと鳴いた。
 やがてスイッチが入ったような音がすると、ゼンマイはそれ以上回らなくなった。ネジマキ猫に変化はない。依然、愛くるしい声で鳴きながら、感謝の意を表したいのか、奏の手に頬を擦りつけてくる。
 結局なにも起こらない。ネジマキ猫に変わった様子もない。
 むしろ酷くなついた様に、奏の手に擦り寄ってくる。
 何か変化があろうと、現世での出来事。結局このゼンマイ猫は夜を明かせない。
 気づくと、ネジマキ猫は丸くなり、奏の膝の上で寝息を立て始めた。
 ふう、と息を吐く。
 奏は考えなくてはならなかった。
 豪語してしまった手前、奏は使命を帯びてしまったのだ。
 現世でのユーナとナユタの寿命は三ヶ月程度だろう。だが、マンションで結界から脱出する際にかなりの負担を掛けてしまった。
 二ヶ月か。
 それまでに、現世から隔世に戻す方法を探す。
 そんなことが出来るのか。
 誰にも出来なかったことであし、何万という会員を抱えながら、多大な税金を耗やして研究しようとも隔世のことなど殆ど分からなかったのだ。
 おそらく、この世の人間で一番隔世を知っているのは、ユーナから色々話を聞いた奏かもしれない。そのくらいなにも分かっていないのだ。
 戻すなんて、そんな希望を持たせてしまって、俺はなんてことを。
 奏はネジマキ猫を撫でる。
 俺は卑怯な人間だ。
 自分の招いた罪悪感を、こんな小さな動物を愛でることで慰めようとしている。
 いずれにしろ、ここにいても埒は明かない。
 方法は少ない。
 自然管理委員会本部に忍び込み、禁断の情報を覗き込むか。
 それか――スクール時代、あの辛かったスクール時代、唯一奏を理解し、奏の可能性を信じてくれた教員。
 あの人に聞けは何かが分かるだろうか。
 それにしても、この三日間で世間はどうなっているのだろう。奏のしたことは大問題になっているのだろうか。
 前代未聞の人外を連れての逃亡。
 術師の免許剥奪くらいで済むのだろうか。
 俺は、この先無事に家に帰れるのだろうか。
 
 翌朝になると、ネジマキ猫は姿を消していた。死に姿を見せないという猫の習性どおり、山の中でひっそりと死を迎えるのだろう。
 しかも朝にはネジマキ猫のことなど、ユーナはすっかり忘れ、出かける俺に笑顔で手を振っているのだから始末が悪い。
 二日ぶりに山を降りた俺は、ふらつく足元をどうにかしようと、まずは実家に帰って飯をあさろうと画策した。
 金曜日の平日。兄弟は学校だし、父親は仕事に出かけているはず。
 こっそり帰ればバレないと高をくくり、十キロ近い距離を歩いて実家に戻ると、案の定家には誰にもおらず、冷蔵庫を漁って食えそうなものを腹に放り込んだ。
 それから自分の部屋に戻り、装備を補充すると家を出た。
 案外、奏の反逆行為はあまり重く受け止められていないのかもしれない。家族が身内の不祥事を表に出すまいと口を噤んでいれば大問題には発展しない。
 その足で恩師の元へ向かった。術師養成スクールで御世話になった教員である。
 術師養成スクールは火曜日、水曜日、木曜日の三日間であるから、金曜日は自宅にいるかもしれないと思った。
 恩師の自宅前に立ち、初めて気づいたことがある。
 それは恩師の自宅が馬鹿でかかったことだ。あの冴えなそうな三十路男が、こんな豪邸に住んでいるなど想像もしておらず、貧相なフロなしアパートを期待していた奏の想像を裏切った。
 玄関、というよりは立派な門構えの前でインターフォンを押すと、女性の声がインターフォンのスピーカーから聞こえてきた。
 奥さんだろうかと考えながら「相馬先生はいらっしゃいますでしょうか」と訊ねると、身元を訊かれたので「スクールで御世話になった鳴音奏です」と答えた。
 程なくしてインターフォンから「奏君。久しぶり」という返答を合図に門が開いた。無人で開いた門をくぐると、石畳の参道の両脇に広がった庭に、様々な植木や花々が植えられていた。
 途中の池には金色の錦鯉が優雅に泳ぎ、この家がとんでもない資産家の家なのだと実感が沸いてきた。
 玄関を開いて待っていた相馬先生が笑顔で手招いている。
「奏君。どうしたんだい。久しぶりだねえ。学校は休みかい?」
 休みです、と答えるしかない。家にお邪魔すると、高い天井に美術品のような家具や壁天井に調度品。
「先生って、お金持ちだったんですね」
「まあ、親がね。僕は大したことないよ」
 ひょろりとした長身に、プラスチックの太い縁のメガネ。どう見ても身体の弱そうな引き篭もりに見える。
 客間に案内されると、高級そうに見えるソファーはそれだけで座り心地が悪かった。
 テーブルに出されたのは、美術品のようなカップに注がれた紅茶。
「歓迎するよ。今日はどうしたんだい? 何かの相談かな。なにか顔色もよくないように見えるけど」
 相馬先生はなにも知らないらしい。やはり奏の起こした問題は、まだ大きな問題になっていないのだろうか。
「実は、突拍子もないようなことを訊くんですが、驚かないでくださいね」
「君はいつだって突拍子のない質問をしてたじゃないか。今さら驚かないよ」
 奏の疑問を、熱心にいつも聞いてくれた。
 だからこそ、ここに来た。
「現世に訪れた人外に、自分の意志でやってきた者はいない。そうですよね?」
「そうだ。現世と隔世の境目が曖昧なエリア。つまりイスカ領域によって、偶然に迷い込んでしまう」
「その原因は、どこまで分かっているんでしょうか」
「スクールで教えた以上のことは分かっていないと思うな。すぐ傍にあるはずの心的世界が間に入っており、二つの摩擦を防いでいる。お互いの世界は確実に平行している。重なっていないということ。それに情力や戒力といった力も、人外境の住人が持つ瘴気という力も、全ては心的世界から供給されているものだね。根源は一緒であるという説が有力だ。だから、現世も隔世も、大して構造や時の流れなど、変わらないだろうというのが定説だよ」
 多分、その説は当たっている。
「境目が曖昧になるイスカ領域のような事象は、どうして起こるんでしょうか」
「仮説でしかないが、イスカ領域の出現は心的世界の混沌が理由とされている。過去に重大な出来事が起こった場所がイスカ領域となる説。戦火の激しく、多くの無念が残っている場所。例えば宗教で聖域とされ、多くの念により崇められた場所など。イスカ領域は人間が作り出しているといえる。人間がこの世に誕生する前には、イスカ領域は存在しなかったという通説もあるからね」
 やっぱりそうなんだ。イスカ領域は人の想いや念が作り出す。
「もし、もしですよ。人工的にイスカ領域を作り出すとしたら、先生ならどうしますか?」
「人工的に? それが君のしたかった質問かい?」
 答えないでいると、相馬先生は優しく微笑み「そうだね」と回答した。
「まず、イスカ領域を作り出したい場所に全世界の人間を集めて、祈りを捧げさせる。それも妄信的な宗教の信者のような想いが必要だ。それを二十年続ければ、ひょっとしたら現世と隔世の間に穴を開けることが出来るかもしれない」
 全世界の人がたった一箇所に、二十年間耗やして妄信的な祈りを捧げる。
 ようするに、現世と隔世を繋げるのは不可能だと言っている。
 奏は別の質問をした。
「人外が現世に来るように、人間は隔世に迷い込んだりはしないんですか?」
「しない。と言われている」
 スクールで習った。
「絶対と言えますか?」
「ある程度の力、情力とか戒力といったものを持っている生物は、世界の間を移動できないと言われている。なぜならばイスカ領域に開いた穴は非常に小さいからだ。情力の薄い、小動物や植物などしか可能性がない」
 ただし、と先生は付け加えた。
「子供、はありえるかもしれない、と僕は思っている。それも生まれたばかりの乳児に近ければ近いほどね」
「情力が小さいからですか?」
「そうだ。情力とは心の力。その想いが強ければ強いほど、精神の成熟の度合いも高まる。一方、情力の向上は発想力や想像力を失わせるといわれている。それは、世界が大小さまざまな穴の集合体だという考え方からくるものだ。小さい情力は世界に通じる大小さまざまなネットワークの移動が可能で、発想の窓口がそれだけ多いということになる。ところが情力が高まれば、小さな穴から通じるネットワークが使用できなくなる。おのずと大きな穴しかつかえず、予定調和な狭い世界の住人に落ち着いていく。そう言えば、君はその辺の力にはあまり恵まれなかったみたいだね。代償に君には常人にはない発想力がある」
 そう言われて、奏は相馬先生に励まされてきたのだ。
「先生、もうひとつ。日本には、まだ発見されていないイスカ領域ってあるんでしょうか」
「ううん、それはないだろうね。僕らの存在は歴史が深い。世界レベルで見ても発見されていないイスカ領域があるとは思えない。新しく誕生するとしても何百年と掛かる。兆候があれば、自然管理委員会が目ざとく察知してマーキングしているろうね」
 そりゃそうだよな。
 納得するが、反面釈然としない。
 あの山は、確かに人外がいたのだ。
 考え込んでいると「もう終わりかい?」と訊ねてきた。
「こういう質疑応答は、脳の刺激になって楽しいんだ。まだあれば喜んで答えるよ」
「御札は、どんな素材で出来てるんですか?」
「これまた難しい質問だね。御札は中国から伝わった。日本生まれの術具は戒具があるね。戒具は人間の情力を取り込み、発散する効果のある様々な鉱物を調合して作られる。でも、御札に関してはその製造法、原料などは委員会によって厳重に秘密にされている。それは僕らのような術師が勝手無闇に作成することを防ぐのが目的だろう」
 それだけではない。奏はそう思っている。御札を人外だけではなく、人間にも有効なものに改造成功したとき、奏はある事に気づいたのだ。
 情気が目に見えているのは、奏だけなのだと。
 御札に刻まれている文様は、御札が炸裂するためのトリガーに過ぎず、それを人間の情気に合わせて文様に書き換えれば、人間に有効な御札の出来上がりだ。
 だが、書き換えるには瘴気と情気の「形」を知っていなければならない。知るためには、そのものを「見る」ことが出来なければならないのだ。
 戒具で分かるとおり、力自体は人間にも有効である。炸裂させることさえ出来れば、人間相手にも大変な殺戮道具にもなる。
 だが、御札の原料はやはり分からない。
 思うところはある。
 情力を溜め込めるもの。
 それは鉱物では不可能だ。
 ならば思いつく材料はひとつしかないのである。
「最後にひとつだけ」
「いいとも」
 乾いた喉を一度紅茶で潤してから、奏は禁断に近い質問をした。
「もし、現世と隔世を繋ぐ扉を、人間ではなくて隔世の人外が先に開発したら、どうなりますか?」
 相馬先生は、おもむろに真顔になった。
 奏はその発散される雰囲気に鳥肌を立てる。
「それは……政治の政策と同じだね。シミュレーションはされているが、開けてみなければ分からないのが本音だ」
「じゃあ、相手に悪意があったら?」
 さらに禁忌の質問。先生は答えてくれるだろうか。
「相手に悪意があった場合。もし、人類と人外境の住人が争うようなことになった場合、勝利するのは間違いなく現世と隔世に穴を開ける方法を見つけ出した側だろうね」
 奏は今までの事実をまとめて、導き出される答えを必死に模索した。
 その答えらしきものに突き当たったからこそ、この質問を相馬先生にぶつけてみたのだ。
「奏君、君は何かを感じているのか? 心配事でもあるのかい?」
 これ以上の質問は、相手に猜疑心を抱かせるだけだ。そろそろ質問を切り上げて退散しようと腰を上げたとき、不意に相馬先生が引きとめた。
「まって奏君。実は、君に話しておかなければならないことがある」
「俺に?」
「そう。実はね、知ってるんだよ。君が人外と一緒に逃亡していること」
 奏の思考が停止した。
 知っていたのか。知っていてなぜ黙っていたのだろう。
 なぜ、捕まえようとしないのか。
「君がやってきても、いつも通りの態度をするようにと委員会に命ぜられている」
「委員会に知らせますか? 俺が来たこと」
「知らせる必要はない。すでに君の後を付けてきている委員会の人間がいる。使用人に確認させた」
 家に帰ったときに張っていた委員会の人間に見つかったのだろう。やはりおろかな行動だった。
 しかし、疑問がある。
「どうしてすぐに捕まえようとしないんですか?」
「簡単だろう。君は人外を連れていない。君しか居場所を知らないのなら、泳がせて人外の元へ帰るのを待つ」
「俺を捕まえて口を割らせたほうが早くないですか?」
「君が口を割らなかったら? この方法が法治国家では一番スマートで早い方法なんだよ」
「先生は? どうしてそんなことを教えてくれたんですか?」
「気になったからだよ。君の質問が。訊けば、君が一緒に逃亡している人外は新種の可能性があるらしい。あえて君に問いただすつもりはないが、君の質問を聞いてなんとなく分かったよ」
 何が分かったんですか? と表情で訴える。
「君は瘴気に中てられて、操られている。そう報告されている。だが違うな。瘴気に中てられているわけでないのなら、人外を逃がして一緒に逃亡するには別の理由があるはずだ」
 相馬先生は何を言おうとしているのか。
「つまり、君は人外に同情したんだ。人外がグロテスクな容姿で、下等生物のように唸り声を上げていれば、君は抹消することを選んだだろう。でもそうじゃなかった。人外は『人に酷似しており、かつ、人語を話した』そうじゃないのか、奏君。君は人外に助けを乞われて、仕方無く一緒に逃げている。そうだろう?」
 答えられないでいると「答えなくていいんだ」と先生はメガネを押し上げた。
「だから君は、その人外を隔世に戻す方法を探るためにここに来た。ところが人型で人語を話す人外となれば、委員会は放っては置けない。躍起になってその人外を捜しだし、研究材料とするだろう。それは君も分かっている。でも、ここで重大なことが分かる。人型で人語を解する人外。これはもう、現世と隔世を行き来できるレベルの人外ではない。人が隔世に渡れないように、一等級以上の妖怪が現れたと言うことは、イスカ領域以上の大きな穴が開いたと思ったほうがいい」
 先生は俺の懸念を代弁するかのように説明する。
「それはひょっとしたら、向こう側の何者かが、人工的に現世への穴を開けようとしているのではないか。全て僕の仮説だが、君も同じ事を思っているんじゃないか?」
 俺の心を読む相馬先生。漠然とした不安は、相馬先生により具体化されていく。
「僕が君に期待したのは、まさにその想像力。見えないアナザーサイドで何が起こっているのか。或いは何が起きようとしているのか。こちら側に居てはなにも分からない。だが、君は何かを感じている」
 相馬先生は立ち上がると「ちょっと待ってて」と言い残し、一端、部屋を居なくなった。
 待っている間、ひょっとしたら先生は本部に連絡を取り、俺を捕まえに来てくれと連絡を取っているのではないかと不安になった。
 ところが戻ってきた先生は、小包を抱えていた。
「御札を詰め込んできた。正規のルートで手に入れたものではないので、そのつもりで居てくれ。それにささやかだが、しばらく困らない程度の金も入れてある」
 さすがにお金は……。
 断ろうとすると「その代わり、交換条件がある」と言って、無理矢理受け取らせる。
「定期的に僕へ連絡が欲しい。言いたくないことは言わなくていいが、僕が感じていたイスカ領域の異変を、僕なりに検討したい。わずかながら情報を提供して欲しい」
「情報って」
「連絡先もそこに入れておいた。そろそろ帰りなさい。ただし裏口からね。君を付けている連中に気をつけて。君の隠れ家まで付いて来られたら即刻捕らえられ、君の匿っている人外も捕らえられるだろう。最悪は抹消される」
 ちょっと待て。
 俺はただ、先生にちょっとだけ知恵を借りたかっただけだ。
 俺の言い分など意に介さず、半ば追い出されるように裏口から外に出される。
 先生は最後に言った。
「僕は君の味方だからな」
 大変ありがたい言葉だが、話が大きくなりつつないか。
 いつの間にかこの逃亡生活が使命を帯びてしまっている。
 引き返せない道を進みだしているのか。
 奏はぞっとする。そうじゃない。そういうつもりじゃない。
 しばらく、裏口で呆然と立ち尽くしていた。
 
 相馬は居間のテーブルに置かれた紅茶を使用人に片付けさせると、携帯電話を手に取った。
「もしもし、相馬です」
 使用人を気に掛け、部屋の隅に移動すると、相馬は小声で話した。
「ええ。奏君が来ました。裏口から出て行かせましたから、追っ手は撒けるでしょう。通信機を持たせたので、居場所はすぐに分かります」
 相馬は神経質そうな手つきでポケットから煙草を取り出し、火をつけた。
「気づかれる心配はないでしょう。いくらかの金品も渡してあるので、しばらくは持つでしょう。やはり思ったとおりです。彼は使えます」
 相馬は堪えきれなそうに口元をゆがめると、煙草を香しそうに吸い込んでから言った。
「人外は人語を喋ります。一等級を越える人外の出現です。絶対に委員会に手渡してはなりません。僕らの手で保護するべきです」
 その後、何度かの相槌を打つと、通話は終わった。
 
 食糧を買い込んで、山奥の廃神社に戻った頃にはすっかり日が暮れており、実に三十キロも歩き回ったせいで足の裏の皮はずたぼろになった。三十キロを甘く見すぎたのだ。スクール時代、週に二度は二十キロを走らされた。たかがその一.五倍の距離といえども、徒歩ともなれば足を動かしている時間は三倍にもなる。
 もう一歩も歩けず、倒れ込むように神社の拝殿に入り込むと、疲労困憊の奏に二匹の人外が慌てた風に駆け寄ってきた。
「大丈夫ですか? 何かあったんですか?」
「なにもない。疲れただけ」
 少し眠りたい。
 その前に、重い身体を起こしてやることがある。
「蝋燭を買ってきた。それと適当に食材も買ってきたから食べて」
 背負っていたバッグを降ろすと、ハイエナのようにまさぐるユーナとナユタ。
「なにこれー」
 ナユタが袋に入ったパンを持ち上げて奏に見せる。
「食ってみろ。チョコレートも買ってきたから、食後にどうぞ」
 奏は二人に食事をさせている横で、蝋燭に火を点す。
 それから、相馬先生に貰った小包を開いた。
 御札が整然と並べられている。どんな効果の御札なのかは、安全シートに記されている。
 パンをほおばったユーナが覗き込んでくる。
「なんですか、それ」
「御札だよ。人外を抹消するための」
「へえ、これで私たちを殺すんですか」
 ユーナが皮肉を言ったように聞こえて、顔色を覗ってみるが、皮肉ではなくただの感想だったようだ。
 むしろ興味津々そうに御札を眺めている。安全シートのおかげで炸裂はしないが、人外の瘴気が炸裂条件であることは間違いない。
「ちょっと離れてな。危ないから」
「御札を使うと、どんなことが起こるんですか?」
「爆ぜて、人外を消し去るんだよ。苦しまないし、一瞬のことなんだ」
「へえ。どんな感じなんでしょうね。火が出るんですか?」
「どちらかというと、電撃に近いかな」
「痛そうですね」
「うん、どうだろうね。表象的なダメージじゃなくて、精神面へのダメージだから」
「精神面ですか?」
 俺はユーナの顔をまじまじと見詰める。口の端にパンくずをつけたユーナ。見てくれはその辺の可愛らしい少女だ。
「ユーナは世界の構造を知らないのか? こっちの世界のことは?」
「知らないです。想像したこともありません」
 知らないか。こっちの世界だって、知っているのは一部の人間だけ。
「この御札で、私たちを元の世界に戻してくれるんですか?」
 ユーナの質問に、俺は思わず口をつぐんでしまった。その様子を悟ったユーナは微笑むと「いいんです」と言った。
「戻れなくても奏さんのせいじゃありません。実は、そんなに執ってないんですよ。戻ることに。あと二ヶ月くらい、ここで生きられるならそれでも」
「なに言ってるんだよ。前から思ってたけど、どうしてそんなに潔いんだよ。もっと貪欲に生きようと思わないのか?」
「弟のことが少し気掛かりですけど、私たち、本当に明日の命をも分からないところで暮らしてたんです。こっちの世界に来なかったら、今頃死んでたかもしれないくらいの場所」
 そう言えば、奴隷だったと。
「あと二ヶ月、こうして平和に暮らせるのなら、それはそれでとても幸せなんです」
「戻りたくないのか?」
 そう訊ねると、ユーナは不意に顔をあげ、奏を見つめた。
 蝋燭の炎に、潤んだユーナの瞳がちらちらと煌く。笑っても怒っても悲しんでいない顔。
「どうした?」
 不審に思って訊ねると、ユーナは不意に顔を伏せて「戻りたいです」と小さな声で言った。
 どっちなんだよ。
「お母さんが心配です。腰を悪くして、寝たきりで誰も面倒を見れない状態ですから……それに幼い妹も今頃は……」
 前に聞いたな。奏は御札を幾つか手に取ると言った。
「なら戻す方法を考える」
「どうやってですか? 方法なんて……」
「ひとつ可能性があるんだ。まだまだ分かってないけど」
「それはなんですか?」
 ひとつの御札を手に取る。これは閃光の御札。御札には教官クラスが込めた情力が溜め込まれている。
「君はいまここにいる。それが可能性。君がここに来れたんだから、戻る事だって出来るはずだ。あとは方法だけ」
 俺の質問に、ユーナはにっこり笑ってみせる。
「そうですね。そしたら奏さんもこっちの世界に来てください。いいところですよ」
 いいところって、奴隷じゃないのか。
「元の世界に戻る方法は必ず見つける。だから待ってて。ユーナももっと希望を持ってよ」
「分かりました」
 そこで会話が途切れる。
 奏が御札を取り出して、弄くりまわる様子を飽きもせずユーナは眺めている。
「なにしてるんですか?」
「いくつかの御札の情気抜きをやってる」
「ジョウキヌキ?」
「中に入ってる情気を抜いてる。普通に発動させると炸裂して無くなっちゃうから、戒具を使って情気を外に漏れ出させるんだ。電池の電力を放出するのと一緒」
「空になったらまた力を入れるんですね」
「そう。ただし今度は瘴気を入れる。君に手伝ってもらうよ。火の瘴気を入れる」
「何でもします。言ってください。今やりますか?」
「明日にしよう。もう疲れたんだ」
「どこが疲れてますか?」
 ユーナの質問の嵐に答えるのも億劫になってきた。
「足の裏が酷い」
「見せてください」
 奏の了承など得ずに、強引に靴下を脱がすユーナ。ズボンを降ろされるような羞恥を覚えながら、成すがままにされていると、一日中歩き詰めだった足の裏が赤くはれ、ところどころ皮が破れている。
 文字通り、腫れ物にふれるように患部を観察するユーナ。
 するとユーナは、ぬくもりのある手で足の幹部をゆっくりさする。痛いような気もしたが、心地よい気もする。
 労わるように、優しく優しく摩る。
「ひょっとして、治癒能力があるのか、ユーナ」
「治癒能力? ないです。でも、怪我をするとお母さんにいつもこうしてもらっていましたから……」
 汚い足の裏。
 恥部を触られているような陰湿な快楽が下腹部をくすぐる。
 熱心に摩るユーナ。
 その横顔。
 火さえ吹かなかったら、普通の女の子なのに。
 こんな山奥の、誰もいない一つ屋根の下にいたら間違いを犯しそうなほどに愛らしい。
「こっちの世界はユーナの世界と似てるのか? 両親は優しいのか?」
「優しいですよ。世界はほとんど一緒です。太陽があって、夜があって朝があります。ただ夜はもっと暗いです。きっと夜の太陽がないから」
 夜の太陽。
 月のことだろうと察しが付いた。
「君は元の世界で、どんなところに住んでたんだ?」
「私は施設の中です。大きな施設。大きな範囲を塀で囲んでいて、中心に三ツ目族様の宮殿があります。私は宮殿の研究所で働いていました」
「研究所? どんな研究をしてるんだ」
「さあ……良く分かりません。ただ、沢山の奴隷が必要なんです。どうしてかは分かりません。亡くなる人もいるんです。それも頻繁に」
「だから、明日をも分からない命って……」
「はい。それだけじゃありません。悪戯に命を殺めたりもされますし、ちょっとでも口答えすれば、その場で殺されます」
 恐怖で身の竦みそうな話だった。同時に怒りと同情心が生まれ、すぐ次には平和な場所で暮らしている自分自身に罪悪感を覚えた。
 不遇の環境にあったユーナの横顔が、なお一層魅力的に思え、背徳を抱く。
 見惚れていると不意にユーナがこちらを見る。目が合って、そらすことも出来ずにいると、ユーナが照れくさそうに微笑みながら視線を伏せる。
 そのとき、ナユタがチョコレートを片手に「このあまーいのがチョコレート?」と声を上げたときだった。
 
 ずずぅん
 
 地響きが廃神社の壁や天井を痺れさせた。
 ぞっとして、今にも落ちてきそうな天井を見上げた。
 驚いたのか、ナユタはチョコレートを投げ捨ててユーナに抱きついた。
 抱きとめたユーナは不安そうに「なんですか、今のは」と訊ねてきたが、奏にも分からない。
 続いて樹木が引き裂かれるような音が聞こえた。
 音から判断するに、廃神社から距離にして百メートルくらい。遠くない。
 奏は痛む身体に鞭打って立ち上がる。足腰が持ち主に反乱するかのようにきしみ、剣山の上に立っているかのような痛みが足の裏を襲う。
 亡者のように拝殿を出ると、暗闇の森が広がっている。
 ナユタを抱きかかえたユーナも付いてくる。
 靴を履いて表に出ると、月明かりに照らされた森は森閑としていた。
「なんだったんだ、今の音は」
 
 ぎいやあああああっ
 
 奏とユーナとナユタはいっせいに音のした方角を見た。
 いや、音ではない。
 これは、叫び声?
 
 ぎいじゃあああああっ
 
 人のものではなかったし、その叫び声の音量はコンサート会場の大型スピーカーから発せられるような爆発的なものだった。
「これは……」
 ユーナが呟く。
 耳を劈く叫び声に耳を塞ぎかけていた奏がユーナに注目する。
「一ツ目族」
「なんだって?」
 問い返すとユーナが奏を見る。その表情を見て、奏は戦慄した。ユーナの恐怖に染まった表情は絶望を予感させる。
「お姉ちゃん」
 ユーナの腕の中で、ナユタがゆっくりと腕を上げ夜空を指差した。
 そう。夜空を。
 奏は恐怖に動かなくなりそうな思いで、恐る恐る視線を転じる。
 大地と夜空を区切るように、樹木のぎざぎざの輪郭が縁取っている。
 夜空をグレーに染める満月を背景にして、それは遠くにそびえる山のように存在した。
 周囲に生える木々より高く、黒くのっぺりとしたシルエットは明らかに人型に見えた。
「一ツ目族です。私たちの世界で一番、位の低いとされる種族ですが、力があって凶暴で知能も低くて、誰も手に負えません」
「何でそんなものが現世に」
 思考は展開しない。呆然と山のようにそびえる暗影に立ちすくむ。
 
 ぎゃおおおおおう!
 
 月を食らうかのように大口を開け、雄たけびを上げる巨大な人外の暗影。十五メートルはあるか。
 大きさしか計り知れない。その風貌は覗えないが、奏の想像の中で膨らんだのは凶悪な風貌。一ツ目族の名が示すとおりに。
 ――逃げよう。
 ようやくその選択肢にたどり着いた。
「ユーナ、今すぐ荷物をまとめて逃げるぞ」
「どこへですか?」
「あの化けモンが居ない場所だよ。とにかく早く」
 
 ずしぃぃん
 
 地響きがして、一ツ目族の巨大な暗影に視線を転じる。
 歩き出した。
 周囲に生える木々をなぎ倒し、緩慢にも思える動作で足を踏み出した。
 こちらに向かって。
「急げ、ユーナ!」
 奏が怒鳴ると、ユーナが慌てて駆け出した。
 奏も拝殿に戻って、御札を片付けだした。
 
 ずしぃぃん
 ずしぃぃん
 
 歩いている。一歩足を踏み出すたびに拝殿は痺れ、崩れ落ちそうになる。
 買い貯めた食糧を抱え、ユーナと表に出た。
 途端に拝殿の周囲にあった木々が音を立ててなぎ倒された。
 最初に奏の視界に入ったのは足だった。
 大仏の足。
 足に潰された木々。
 恐る恐る見上げる。
 はるか頭上に一ツ目族の顎先と鼻の穴が見えた。
「いけ! ユーナ」
 ユーナの肩を押すと、ユーナとナユタは駆け出した。
 こんなことって……。
 目の前の巨大な化け物に呆然としている暇はない。
 間近にいて、この瘴気。
 瘴気避けの御札が破裂しそうだ。

 ごるるるるっ

 不気味な唸り声を上げ、上空にあった顎先がゆっくり下を向く。
 一ツ目族は、真下にいる奏に覆いかぶさるように俯いた。
 目が合った――気がした。
 実際には、奏には巨大な暗雲が上空をおおったようにしか見えない。
 逆に奏の存在は、一ツ目族から見れば足元にいる子猫程度であろう。

 ぐぅおおおおう!

 重低音の、大型建造重機のような唸り声を上げて、不意に一ツ目族は片方の足を上げる。
 気づけば、奏の頭上五メートルには六畳一間ほどの足の輪郭があった。
 悲鳴を上げて駆け出すと、背後で巨大な足が地面に落下した衝撃音。
 衝撃波で奏は前のめりにつんのめる。
 振り返ると、隕石の落下のように、巨大な足の周囲の土が盛り上がっている。
 
 これは現実か?
 
 よぎった疑問。
「ちっくしょう!」
 奏は御札を適当に掴むと、手当たり次第に防御シートを剥ぎ取る。
 もう、何の御札なのか分からない。
 巨大な足元に御札をばらまく。
 こんなもの、足元にばら撒かれた癇癪玉程度にしかならない。
 奏はユーナが走り去った方向に走り出す。
 こんな化け物、誰が相手に出来る?
 どんな優秀な術師が集結しようとも、こんな巨大な瘴気の塊をやっつける火力は、委員会に存在しない。
 闇雲に走ると、背後で人外の雄叫びと、追いかけてきたことを物語る、木々のなぎ倒される音。地響きのような足音。
 こんなの、町に下りたらどうなる?
 人に見えない人外。
 突然現れた竜巻の災害同様、多くの人の命が失われ、誰も止める事の出来ないまま情気の毒気にやられて命を失うのを待つというのか。
 誰にもどうすることも出来ない。
 委員会が、強大な敵の出現を予見して準備していない限りは――。
 奏は足を止めた。
 暗い森を振り返る。
 一瞬、脳裏によぎった術師としての誇り。
 まだ術師としての経験など皆無。
 だが、このまま奏が逃げるということは、警察官がナイフを振りまわる狂人を見て逃げ出すことと同じだ。
 少なくとも、奏には相手を多少なりとも知っている知識と、すずめの涙ほどの抗う装備がある。
「ふざけろよ……」
 声が震えている。
 極寒の地のように全身の筋肉が踊る。
 俺に何の使命がある。
 ただの高校生だろう。
 何かの爆ぜる音。
 人外が御札を踏みつけたらしい。
 足の裏を針でちくりとやられたのか、人外は咆哮をあげる。
 奏は結界の御札を取り出した。
 全部で十三。
 西洋では不吉とされる数字。
 人外は足の裏をちくりとやられた腹いせに、奏を追いかけてくるに違いない。
 結界を張るとして、あんな巨大な瘴気を封じ込めるには結界を多重にするしかない。それでも封じ込められる保証など皆無であるが、やるしかない。
 四角形では御札を無駄遣いする。三角形の結界だ。一箇所に四つの御札を仕掛け、結界を四層にする。
 奏は走り、四つの御札を重ねて地面に置く。
 再び走る。
 人外が進む方向に、大きな三角形の結界を描くために。
 二箇所目に御札の設置をした時、奏は人外に見つかった。
 嫌な予感がして上空をかえりみると、明らかに人外はこちらを見ていた。
 でもそれでいい。
 人外が二歩踏み出す程度の距離。
 距離を計算する。
 人外の進行方向に結界がなければならない。
 奏は駆け出した。
 膝が震える。
 疲労と恐怖で力が入らない。
 水中を走っているような感覚。
 重力を失ったかのような――それは錯覚ではなかった。
 気づけば、上下の感覚を失っていた。
 段差のある場所から落下したと気づいたのは、地面に激突してからだった。
 右ひざから地面に落ち、右足の感覚を失った。
 激痛に動けなくなった。
 手に持っていた残りの御札は手を離れ、三メートル先の地面に転がっている。
 防御シートが張られたままだ。発動していない。
 
 ごおおおおおおっ!
 
 間近に聞こえた人外の叫び声。
 寝返るようにして背後を覗う。
 絶望的な光景がそこにあった。
 巨大な暗影は、奏が落下した二メートルほどの崖の上に立ち、冷ややかに奏を見下ろしている。
 平和な日常を恨む。
 今ここに、自分が居なければならない運命を呪う。
「くそう……」
 奏でに出来たのは悪態を付くことだけ。
 もう一度、人外が咆哮をあげたとき、奏は自分の命が失われることを覚悟した。
 
「奏さん!」
 ユーナの声が聞こえたと思うと、駆け寄ってくる足音。
 驚愕の思いで顔を起こすと、駆け寄ってきたユーナがしがみ付いてきた。
「奏さん!」
「なにやってんだよ!」
「動けないんですか? 逃げましょう!」
 奏はユーナを突き飛ばした。
「早く逃げろ!」
「だって!」
 地団駄を踏んでいるユーナ。
 何で戻ってきた。
 何のために、俺がお前を逃がしたと思ってる。
「お前も死ぬぞ!」
 奏が怒鳴ったときだった。
 一瞬、ユーナの表情が固まり、泣き出しそうだった表情は徐々に覚悟を決めたように雄々しくなった。
「助けます!」
 ユーナは足元に落ちていた御札を手に持った。
「これは何の御札ですか?」
「やめろ! そいつを渡せ! ここで発動しても意味がない!」
 発動するには位置が悪い。ここで発動しても人外を囲えない。
 奏は人外を振り返った。
 人外はかすかに膝を折っていた。先ほど間近に見える人外の顔。
 微かに一ツ目の巨大な瞳が見えた。
 あの体勢は。
 力を溜め込むようなあの体勢は、飛び上がる前に屈み込む動作。
 こいつ、ジャンプする気だ!
 そのとき、周囲が明るくなったと思うと、熱風が巻き起こった。
 ユーナが火を吹いたのだ。
 炎は人外の足に絡まった。
 人外は重機が稼動するかのような咆哮をあげると、大砲が放たれたかのような音を立てて尻餅をついた。
 痛みは与えたようだが、足元に絡みつく程度の炎で深刻なダメージを与えたとは思えない。
「この御札、どこで発動すれば意味があるんですか!?」
 ユーナが訊ねてきた。
「発動したとしても、お前もダメージを食うぞ。また寿命を縮める気か!」
「いい加減にしてください! 私を何だと思ってるんですか!? 命の恩人を見捨てて逃げるとでも!? いいから教えてください! どこで発動するんですか!」
 奏は気おされた。
 気品さえ感じるユーナの態度に、奏は思わずくちずさむ。
「二十メートル東の地点だよ」
「発動したら、奏さんは助かるんですか?」
「結界が発動すれば、あの人外が結界内に閉じ込めることが出来る」
「そんなこと聞いてない!」
 ユーナが怒鳴る。
 俺を睨むユーナ。
 俺は決意を固め、口を開いた。
「俺と人外の間に結界の膜が張る。俺は助かるよ」
 でも、発動したらお前は死ぬかもしれない。
 そう訴える前に、ユーナは駆け出した。
 何でお前は。
 人外が立ち上がる気配がした。
 振り返る。
 絶望の訪れのように、暗雲は上空に立ち上ってゆく。
 
 バシィィ
 
 御札の発動する音がした。
 ユーナの悲鳴。
 目に見えない三角形の結界が出来たはず。
 同時に、結界の壁に触れた人外の悲鳴。
「ユーナ!」
 奏は叫んだが、暗闇に消えていったユーナに返事はない。
 人外は唸り声を上げ、再び結界の壁にふれる。途端に電撃を食らったかのように全身を震わせ、一拍置いて悲鳴を上げた。
 閉じ込めた。
 ただし、たかだか四重の結界。
 人外が覚悟を決めて特攻すると決めた瞬間、この結界は破られる運命にある。
「奏さ……」
 ユーナが戻ってきた。
 今にも消え入りそうな顔で。
 奏は胸が張り裂けそうだった。
 ユーナは恐らく、もうほとんど生命力を残していない。
「何で逃げなかったんだ」
 奏の問いに答えられないほど衰弱している。まるでユーナの身体が透き通っているかのように見えた。
「ナユタを……ナユタをよろしくお願いします。どうか、ナユタだけでも……」
 最後の言葉のように、ユーナの喉から漏れる吐息。
 奏の腕のなかにもたれかかってきたユーナの身体に存在感がない。
「ユーナ」
 ユーナは薄く目を開き、確かに奏を見た。
「奏さん……」
 ユーナは何かを呟いた。
 だが、背後での人外の咆哮にかき消され、それは奏の耳まで届かなかった。
 落雷のような音がした。
 奏は振り返る。
 巨大な人外は、両手を正面に突き出し、結界をこじ開けようとしていた。
 おそらく開くだろう。
 目の前に人外には、それだけの強大な瘴気がある。
 大してダメージも受けずに結界を破った人外はまず俺とユーナを踏み潰すだろう。
 それから町に下り、暴れ回ったあと、事態に気づいた委員会が訪れる。
 訪れたときは、災害の通り過ぎたように町は壊滅されるだろう。
 だが、四重の結界がある程度人外を足止めできたところを見ると、恐らくはその数十倍の結界を用いれば、被害の拡大くらいは封じ込めることが出来るかもしれない。
 抹消するには多大な労力が必要になるだろうが、野放しにすることだけはないことは証明できた。
「ユーナ、約束守れなくてごめんな」
 呆然と奏は呟く。
 ユーナの手が伸びてきた。
 奏の頬に触れる。
 熱を持っていたユーナの手は酷く冷たく、力なく奏の頬をなぞった。
「……ありがとう……」
 それが遺言か。
 現世と隔世の、隔てられていたバランス関係が、崩れ始めている。
 委員会がそれに気づくのはすぐだろう。
 バチンと、鼓膜を破らんほどの炸裂音が轟いた。
 結界が破られた。
 瘴気の負担に耐え切れず、御札が弾けとんだのだ。
 終わりだ。
 術師として、出来る限りの事は出来たはずだ。
 それだけを慰めにして、奏は目を閉じた。
 
 
 
「助けられた恩義がある。助けてやろう」
 声が聞こえた。
 これが天国か地獄か、判定する死神の声か。
 漠然とそう思ったとき、不意に周囲に気配を感じ、目を開いた。
 目の前に何かある。
 だが、それがなんなのか認識できない。
 毛?
「人間は、あの程度の者を除外できないのか」
 低く、腹の底に響きそうな声。
 目の前のものを、ようやく認識した。
 発せられる瘴気。
 蒸気が流れ落ちるかのような長い毛並み。
 巨大な――猫。
 横っ腹を向けて、猫は座している。
 二メートルほど頭上にある、猫そのものである顔が、こちらを振り返った。
「巻き込まれたくなければ、立って逃げることだ。守って戦えるほど、私は戦闘に長けてはいない」
 奏は言葉を失った。
 巨大な猫が喋っている。
 おとぎの国ではないのだ。
 巨大な猫は、やはり巨大な尻尾を奏とユーナの頭上をかすめるようにして振ると、立ち上がって一ツ目族の人外の前に立ちはだかった。
 重い足音を立て、奏とユーナから離れる巨大猫の背後を見ながら、夢から覚めたように現を取り戻した。
 悩んでいる暇はない。
 足は動くか。
 酷く痛むが、折れてはいない。
 ユーナを抱きかかえて立ち上がる。必死に歩みを進めて、人外から距離を置けたそのときだった。
 周囲が真っ赤に染まったと思うと、一ツ目族の人外の悲鳴。
 顧みると、巨大な猫が口から火を吹いている。ユーナが火を吹く比ではない。強大な炎は一ツ目族の身体をおおいつくす。
 あれは一体なんだ?
 火を吹き続ける巨大猫。
 やがて、人外が悲鳴を上げるのをやめて動かなくなると、ようやく巨大猫は炎を吹くのをやめた。
 燃え上がる巨大な炎。
 周囲の森にも燃え移っている。
 山火事になる。
 巨大な猫はこちらを振り返った。
「まだいたのか。逃げろといっただろう」
 なんて答えればいいのか。相手がただの人であれば「足が痛くて歩けない」と即答できるが。
「まあいい。あの一ツ目族に結界を張った手並みといい、どうやら貴殿はこちらの世界の専門家らしい。私も情報が欲しい。交換条件だ。力を貸してやるから、情報を提供してはもらえないか」
 そんなことより、あんたは一体なんだ。人外であることは分かるが、こんな強力な人外が世界のあちこちで出現し始めているとでも言うのか。
「ふん、まどろっこしいな」
 巨大猫は口を開くと、でかい口で器用に奏の服に噛みつき、ひょいっと首を捻る動作一つで奏とユーナを空中に巻き上げると、柔らかい巨大猫の背中に着地させた。
「私の背中を貸そう。まず、欲しい情報は私がこちらの世界で身を隠し、過ごせる場所の情報だ。案内してもらおうか」
 承諾するしかない。それは分かっている。
 ところが、奏が口を開くまでに、ゆうに十分以上の時間が必要だったことは割愛することにする。



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