あっちから変なの出てきた

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第十一章 【 また逢う日まで 】


 奏は暗闇の森を走りながら、流れる涙を止められなかった。
 勝手に胸は躍り、鼻の奥からとめどなく涙を押し出そうと締め付けてくる。
 胸が痛い。
 なんの痛みか。
 琴の想い。
 階の想い。
 俺はどう答えるべきか。
「ユーナ、絶対に隔世に帰るぞ」
 ユーナは「はい」と確かな声で答えた。
 青空公園の光源が近づいてきた。
 青空公園に隣接する森から、青空公園は区切られていない。
 奏は茂みから公園内を覗う。
 公園内には縦横に小径が入り組んでおり、桜やイチョウに囲まれている。
 奏から見える小径に、委員会や自衛官の姿は見えない。
「静かですね」
 ユーナがつぶやいた。
 確かに静かだ。
 人外襲来など嘘のようだ。
「ユーナ、どうしてレジスタンス側は和平を申し出たんだと思う? だって人間界に攻め込んでこようとしてたんだろ」
「私にも分かりませんが……考えを変えたのかも知れません。やっぱり未知の世界に攻め込むなんて無謀ですから」
 言われてみればその通りだ。
 相手がどんな力を持っているか。どんな規模の相手なのか、全く分からない状態で攻め込むのは自殺行為だ。
 いや、知っていた?
 裏を返せば、現世のことをある程度知っていたからこそ、攻め込む決断を下したとはいえないか。
 今回、和平を持ち出したのは別の理由?
 いや、違うぞ。
 攻め込む予定を中止するだけなら、別に人外側が現世にやってくる意味などまるでない。ただ、取りやめればいいだけの話。
 なぜわざわざやってきたのか。
 本当に人外は和平を望んでいる?
 気づくと奏はユーナを見ていた。
 ユーナも見返してくる。
 慌てて目を外らす。
 懐疑の視線に気づかれてしまっただろうか。
 ユーナはどこまで本当のことを言っているのか。
「行こう、ユーナ。念のため見つからないように茂みから行こう」
「はい」
「恐くないか?」
「もう、恐くありません。私はただ奏さんを信じるだけです。ここまで連れて来てくれた奏さんに対して、私はなにも疑っていません」
 そんなことを言ってくれるユーナ。
 迷うな、疑うな。
 あれほど望んだ目的はもうすぐ目の前だ。
 それほど密集しているわけではない林の中を行く。明かりは林の中に届いていないので、闇に紛れて進むには最適だった。
 もうすぐ。
 もうすぐたどり着く。
 希望に胸が膨らんだとき、別の異変を感じた。
 ふと、目の前の光が暗くなった。
 訳も分からぬまま、視界に光が戻ったかと思うと、そこには心配そうなユーナの顔があった。
「奏さん! 大丈夫ですか?」
 なんだ?
 何かが起こったのか?
 気づくと、自分が仰向けに倒れている。
 上半身を起こすと、奇妙な眩暈。
「まさか、瘴気に中てられた?」
 この距離で?
 奏はぞっとした。
「気を失ったみたいだ。多分、やってきた人外の瘴気に中てられたんだ」
 耳が遠い。自分ではない誰かが喋ってるようだ。
「大丈夫ですか? 立てますか?」
 奏は立ち上がる。
 瘴気に中てられることに対して、今まで経験がない。
 瘴気を防ぐ御札を身に付けていないとはいえ、こんな短時間で気を失うものなのか。
 いくら奏が瘴気を感じる感覚が鈍いからといって、これほどまでに感じづらいものか。もう、かなり近づいたはずである。
「ユーナは感じるのか、この瘴気」
 訊ねたときに気づいた。
「あ、ラナ・カンは?」
 腕に抱えていたはずのラナ・カンが居ない。
「奏さんが気絶している間に、走り去ってしまいました。とても早くて、私、止めることが出来なくて……」
「どっちの方向に行ったんだ?」
「あっちです」
 ユーナが指差した方向。
 間違いない。
 人外が出現した場所。
「急ごう。ラナ・カン、早まらなきゃいいけど」
 奏は立ち上がると、歩き出す。
 もう走る必要はない。
 むしろ足を忍ばせて、誰にも気づかれないように近づかないければならない。
 程なくして、明かりの強い場所が見えた。
 間違いない。
 奏が虹色の光を見た場所だ。
 しかし、問題の場所は術師や自衛隊の人並みや、設置されたバリケードにより先が見えなかった。
「どうしよう。ここからじゃ向かえない。現状も分からないし」
 奏がううん、と唸り声を上げたとき、ふと風を感じた。
 後方から吹いた風は信じられない速度で林を出て、前方の人並みに突っ込んで行く。
「ユーナ!」
 背後に居たはずのユーナが突然、疾風のごとく走り出したのだ。
 奏は慌てて追いかける。
 ――突然どうしたんだ、ユーナ。
 イスカ領域が開いてからと言うものの、奏の理解の出来ないことばかり起こる。
 ラナ・カンが自分を見失い、ユーナも奏に声もかけることなく、何かに取り憑かれたかのように走り出した。
 隔世に帰りたい。それだけが理由には思えない。
 ユーナの行方も分からないまま、奏は術師の集団の中に入っていった。
「なんだ」
「誰だ」
「ちょっと待て」
 術師が走り抜ける奏を見つけて、慌てて引きとめようとする。
 術師たちにしてみれば突然のこと。走り抜ける奏を捕まえられるものは居ない。
 ――しかたない。このまま行くか……!
 奏は瞬時に選択しなければならなかった。
 ユーナは間違いなく、イスカ領域に走って行ったし、ラナ・カンも同様だ。
 ならはイスカ領域に向かえば、そこにユーナたちは居るはずである。
 そのままユーナたちが隔世に帰るのを見送る。邪魔が入れば、全力で阻止する。
 そもそも奏たちが控えていた民家に川本クリスティーヌたちが乗り込んできた時点で当初の作戦はなくなったに等しいのだ。
 このまま強引にユーナ、ナユタ、ラナ・カンを隔世に戻す。
 難しくないはずだ。
 強力な人外が圧縮されることなくイスカ領域を渡ってきた現実を鑑みれば、今回開いたイスカ領域は三人が通るには充分の大きさがあるはず。
 ――行くしかない。
 幾つか伸びてきた術師たちの手をかいくぐり、砂袋で作られたバリケードを飛び越えた。
 瞬間、目の前に広がる昼間のように明るい空間。
 バリケードの向こう側である空間には誰も居ない。
 無数の投光器が照らし出した夜の青空公園。
 そこは中央に噴水の設置された広場だ。
 奏は振り返らず走る。
 どこに居る、ユーナ。
 頭を振り乱してユーナたちを捜す。
 ふと目に入ってくる人影。
 誰かいる。
 この昼間のように明るくなった広場。
 そこにぽつねんと一人佇む人影。
 距離にして三十メートル。
 ――あれは!
 奏は立ち止まる。
 振り返ると、大声で奏を呼び止める声は聞こえてくるが、ここまで追いかけてくる者は居ない。
 いや、追いかけて来れないのだ。
 分かる。
 この瘴気。
 胃袋を引き裂かれるようだ。
 これは……!
「ち、近寄れない……!」
 立ち止まったのは、奏の意志ではなかった。
 それ以上の前進を抵まれたのだ。
 近づけば命に関わる。
 本能がそう告げている。
「これがやってきた人外……?」
 信じられない。
 膝が震えた。
 尻餅をつきそうだ。
 酷い悪寒に吐き気を催す。
 全身の血液が凍り付いていくようで、このまま後頭部から地面に卒倒しそうだった。
 これほどなのか。
 やってきた人外は、これほどに強力だったのか。
 奏の視界に映る人型。
 まるで中世の貴族のような高貴な扮装。
 女性に見まがう長髪の銀髪。
 だが、骨格が人間で言うところの男性を示している。
 その整った横顔が、ゆっくりとこちらを向く。
 人外の視界に自分が捉えられる。それだけで悲鳴を上げたいほどの恐怖を感じた。
 見られたくない。
 あいつの視界から逃れたい。
 本気でそう思った。
 そうしなかったのは足が動かなかったからに他ならない。
 ――和平だって?
 あんな力を持っている人外が、数百現れただけで、人類など抵抗するすべを持たない。
 物理攻撃の聞きにくい人外に、軍隊の持つ強力な火力は自殺行為に等しい。
「あ……」
 ユーナが見えた。
 まるで天国を思わせる、影も薄れる煌々とした空間の中、ナユタを抱きかかえたユーナが銀髪の人外の正面からおぼつかない足取りで近づいていった。
 奏は呆然と見ているしかない。
 三十メートルの距離。
 これ以上どうしても近づくことが出来ない。
「ユ、ユーナ」
 声も弱弱しく光の世界に吸い込まれていく。
 幻覚であると思えてしまうほど、その光景は夢のようであった。
 ユーナが銀髪の人外の正面数メートルの位置に来たとき、ユーナはがっくりと地面に膝を付いた。
 抱えていたナユタが目を覚ます。
 これほどの強力な瘴気を浴びれば、ユーナもナユタも体力を多少なりとも回復する。
 ナユタは目を覚ますと、周囲を見渡し、銀髪の人外に気づく。
 そして、信じられないものを目撃した。
 ユーナが。
 そしてナユタが。
 まるで神の恩恵を授かったかのごとく、恍惚とした表情を浮かべたかと思うと、地面に踞り、深々と頭を下げたのである。
 銀髪の人外は、小さくなったユーナとナユタを冷ややかに見下ろしている。
 どういうことだ。
 ユーナはもう、レジスタンスを忘れたのではなかったか。
 まさか、全て嘘だった?
 人間に――奏に協力する振りをして、実は最後まで裏切り続けていたと言うのか。
 ここまでユーナの大芝居に、俺は踊らされていたのか。
 奏は足を踏み出した。
 向かい風に逆らうように。
 あるいは、ひとつ踏み出すごとに寿命の縮まる地獄への道を歩むように。
「ユーナ……!」
 声すら出せない。
 息苦しく、吐いた息を吸い込めない。
 一歩、二歩と近づいていく。
 ユーナに訊ねなければならない。
 本当に君は俺を騙していたのかと。
 これまで君の浮かべた笑顔は全て嘘だったのか。
 なぜそんなところで跪いている?
 今朝、別れの挨拶と、唇を近づけてきた君はなんだったんだ。
 何のために……俺はなにを信じてここまで来たんだろう。
 不毛だとも言える逃亡生活。
 意味のない苦痛を味わいながら、これまで俺はどうしてここにやってきた?
 針が降り注いでいるかのような向かい風を逆らって歩みを進めるのはなんの為?
「ユーナ!」
 大きな声が出た。
 しかし、ユーナには届いていない。
 二十メートル。
 ユーナの唇が、何らかの言葉をつむぎだしている。
 当然、奏には聞こえてこない。
 なんで?
 なんでそんな顔をしているんだ、ユーナ。
 目の前の銀髪の人外は、一体ユーナにとってどんな存在なんだ。
 十五メートル。
 皮膚が剥がれてゆくようだ。
 視界に亀裂が入る。
 白い世界が赤みを帯びる。
 無数に飛んでくる針が、奏の身体と層なっていたはずの魂を少しずつ削っていく。
 十メートル。
 俺は君を。
 七メートル。
 なんの為に君を。
 五メートル。
 声が聞こえてきた。
「……お許しください。どうか、愚かな私をお許しください。あなた様が望むのならこの場で喉を切り裂きましょう。あなた様が望むのならありとあやゆる辱めを受けましょう。どうか、おろかなこの私をお許しください」
 三メートル。
 この世には決して抗えないものがある。
 近づいてはいけないものがある。
 皮膚が剥がれ、肉が千切れ、奏は骨だけになっても足を踏み出す。
 ふと、銀髪の人外が再び奏を見た。
 銀髪の間から覗く瞳。
 ――目が合った。
 あ、あれは……。
 なんで?
 もう、なにも分からない。
 なんなんだろう。
 結局、答えはなんなんだ。
 この人外は何者なんだ。
 分からないことだらけ。
 大家貴信はなんの為に、俺や伊集院照子を足止めしたのか。
 ユーナは本当に俺を騙し続けていたのか。
 伊集院照子が御札状態になって封じていたあの男は何者なのか。
 伊集院照子が俺に伝えたいこととは、一体なんなのか。
 なぜ母さんは死んでしまったのか。
 和平だって?
 このままなにも起こらず、平和が継続されると?
 ――目の前が赤くなった。
 
 
 
 階は防御するので精一杯だった。
 暗闇の中、具現化された相手の武器が紫色に発光しているおかげで、どうにか攻撃が見えていたが、自分の意志とは別にうねる三本の鞭を操ることが出来ずに居た。
「よく躱すじゃないか」
 暗闇から俵原孝司の声。
 遊ばれている。
 今まで攻撃された回数は五回。
 右からの横薙ぎが二回。
 左からの横薙ぎが一回。
 打ち降ろしが二回。
 突きが一回。
 そのうち、三回は身体捌きで躱し、二回は運良く相手の攻撃が三本の鞭に引っかかったに過ぎない。
 運が良かっただけ。
 それは相手も見破っている。
 足の先から下腹部にかけて氷を当てられた様に寒くなった。
 本当にここで死ぬ?
 階は身を低くして戒具を構えた。
 階の目の前に、自由勝手にうねる紫色の三本の鞭。
 自分の意志で制御できない。
 よりによってなんでこんなものが具現化されるのか。
「興醒めだな。まだお前の兄貴のほうが楽しませてくれたぜ」
 兄貴。
 奏兄ちゃん。
 ぱっとしない気の弱い兄ちゃんだったのに。
 鳴音一家はその目立たない兄ちゃんにこの一ヶ月間、振り回され続けて、挙句の果てには命まで掛けられている。
 とんでもない兄ちゃんだ。
「お前は攻撃してこないのか? 俺の予想では、あと数回も攻撃を繰り出せば、攻撃が当たるだろう。急所に当たれば一発で死ねるだろうが、当たり所が悪ければ余計苦しむ羽目になる」
「五十年に一人の逸材を殺すつもりか?」
「それは大家先生が新型戒具を発明される前の話。大家先生はこれからも秀逸な武器を数々開発されるだろう。天才などこれからは不要なんだよ」
「その新型戒具を発明なさった教祖様は、この世に必要のない天才じゃないって言うのか」
「なんとでも言え。死ぬ奴の戯言だと、大目に見てやる」
 くそ。
 出力に差があっても、経験と技術に差がありすぎる。
 幾ら早い馬に乗っても、乗馬が初めてなら、プロ騎手が乗ったロバにさえに負ける。
 考えろ。
 どうしたら勝てる?
 思い切って馬を降りるか。
「悪いな。そろそろ終わらせるぞ。お前の兄貴を追いかけないといけないんでな」
 暗闇の中、相手の姿も見えない状態。
 不気味に、俵原孝司の持つ紫色の剣が伸びたのが分かった。
 長くなったからといって重量が増すわけではないだろう。
 剣の大刀筋は今までと同様と考えてよい。
 ――勝てない。
 あと攻撃を何度躱せるか。
 それだけの話。
 攻撃しようとも、階の戒具は自分の意志通り動いてもくれなければ伸縮もしない。
 この形に一体、何の意味があるのか。
 長い紫色の剣が揺らぐ。
 攻撃がくる!
 右から左への横薙ぎ。
 戒具は当てに出来ない。
 階は地面に踞るように大刀を躱す。
 頭髪が何本か持っていかれた感覚。
 すれすれだ。
 チリチリと頭皮に静電気のようなダメージが残る。
 ――どうする?
 横薙ぎにされた紫色の剣が踵を返して、左側から迫ってくる。
 顔を起こした瞬間だった。
 
 バギン!
 
 その瞬間、階は目を瞑っていた。
 剣が肉に刺さり、骨を砕く音を聞くものと覚悟したのも束の間。
 相手の剣が紫色の塵となって、空中に散った。
 消えた。
 剣が消えた。
 階の戒具に偶然当たったらしい。
 おかげで命拾いしたが、これも偶然。
 だが、すれすれだったらしく、階の頬あたりに殴られたような痛みが残っている。
 あと何回避けられるか。
 何回目の攻撃で俺は死ぬか。
 なにも変わっていない。
 だが、なぜ剣は砕けた?
 さっき戒具で防いだときは砕けなかった。
 危機感に一時的に戒具の出力が増したのだろうか。
「どういうことだ」
 俵原孝司はそう言って再び戒力を具現化し、剣を作る。
「当たったはずだ。どうして無事なんだ」
 当たった?
 戒力の鞭が防いだのではない?
 再び攻撃があった。
 右上から左下に切り落としてきた。
 剣筋は見える。
 階は思い切り後方に飛びのいた。
 飛びのきながら、階は気づいていた。
 間違った避けかたである。
 あの剣は伸びるのだ。
 気づいたときにはもう遅い。
 打ち下ろされるうちに、冗談のように伸びる剣。
 溺れる者は藁をも掴む思いで戒具を振り乱す。
 階のくねる三本の鞭の間隙を抜けて、俵原孝司の剣が階の肩に深々と突き刺さる。
 
 バキン!
 
 耳を劈く音がして、死を覚悟した階の目前で紫色の剣は粉砕した。
 呆然とする俵原孝司。
 階も例外ではない。
 なにが起こったのか分からない。
 この三本の鞭が具現化した戒気ではない?
 尻餅をつきながら自分の肩を見る。
 服が破れている。
 食らった場所が赤くうっ血しているが、痛みは少ない。むろん、命に関わるような怪我もしていない。
 ――俺の戒力は……。
「自分の力も分からないのか、愚か者め!」
 暗闇の中、金を鳴らすような声が聞こえた。
 俵原孝司の声ではない。
 ――女の声。
 誰かいる。
「ちっ!」
 俵原孝司の舌打ちが聞こえてきた。
 なんだ、今の声は。
 周囲を見る。
 暗闇でなにも分からない。
 転じて、俵原孝司が再び剣を作り出したのが見えた。
「カラクリが見えたぜ。悪いが全力だ」
 紫色の剣が膨らんだ。
 まるで鬼の持つ金棒のように、幾つもの棘が生えた。
 先ほど食らった攻撃のダメージは、棒で叩かれた程度だった。
 今の膨らんで力を増した戒力を食らえば、アザが出来る程度では済まない。
 再び女の声。
「お前の戒力は身体の周囲に覆っている。戒具から出ている三本のヘビは、ただ安定できずに漏れ出してしまっている余分な戒力だ。まずはそれを吸収しろ」
「黙ってろ、クソ女!」
 頭上から金棒状の戒力が降ってきた。
 階は思わず飛びのく。
 階の股間先の地面に戒力がめり込む。
 どうやら全力の戒力は伸びないらしい。
 しかも、攻撃した俵原孝司がダメージを受けたように「うぐう」と苦しげな声を上げた。
 ぴんとくる。
 どうやら全力は身体に負担がかかるらしい。
「躱し続ければ相手が疲れるだろうなんて姑息な考えは捨てろ! 三本のヘビを吸収しろ! 口と鼻を閉じて息を吸い込むイメージだ!」
 女の声が図星を付く。
 姉ちゃんの声じゃない。一体誰だ。
「くそ」
 土を巻き上げて、再び俵原孝司が戒力を振り上げる。
 口と鼻を閉じて息を吸う?
 なにを馬鹿なことを――!
 振り下ろされる戒力を身体をよじって躱す。
 俵原孝司はゼイゼイと息をつきながら、気でも違ってしまったかのように階を睨んだ。
 ぞっとした。
 やはり、人を殺せる人間の表情は酷く冷たく恐ろしい。
 口と鼻を閉じて――。
 イメージしてみると、戒具から伸びた三本のヘビが少し短くなった。
 なんとなく言っている意味が分かる。
 もう一度だ。
 今度は力を込めてやってみると、掃除機に吸い込まれる紐のようにするすると戒具に吸い込まれていく三本のヘビ。
 やった!
 そう思ったとき、頭上に衝撃が走った。
 目の前に火花が散ったと思うと、背中から倒れこむ階。
「ううっ」
 まるでバットで頭を殴られたようだ。
 だが、意識は失っていない。
 やばい。
 次の攻撃が来る前に体制を整えないと!
「勝負ありだな」
 女の声がした。
 歩いてくる足音。
「うるせえ、クソ女」
「お前ごときにクソ女呼ばわりされる覚えない。ただお前が弱かっただけのこと。せいぜい悔しがって絶望することだな」
 身体を起こすと、目の前に屈んで階の顔を覗き込む女の顔。
「お前の勝ちだ。あいつは全力の戒力を破壊され、もう新たに作り出す力を残してない。お前はまだまだ力は余っているな?」
 答えられない。
 誰だ、この人は。
「たんこぶが出来ているようだが、その程度で済んで幸運と言える。三本のヘビの吸収がもう少し遅かったら脳漿が飛び散っていたところだ」
「あ、あなたは……?」
「なんだ、訊いてないのか?」
 そのとき、走り去って行く足音。
 女が振り返る。
「どうやら逃げて行ったらしい。しかし、お前の無様な闘い方ったらないな。素質はあるのに惜しいな。だが、身体にまとう形の通力は非常に珍しい。お前も奏と一緒に、すべてのことが済んだら私と中国の行雲途山に修行に行くか」
「修行?」
「まだ行ったことがないのか? 見たところ十四、五に思えたが」
「行雲途山は三十歳を過ぎないと行けないんです。北京条約でそう決まったんです。知らないんですか?」
「なに? 私が初めて登ったときは九つだったぞ。五合目までしか行けなかったがな」
「そんなはずはありません。三十歳以上で、術師としての経験が十五年以上じゃないと行けないはずです。九つなんて……」
 見栄を張るにもほどがある。
「現代の術師が腑抜けた理由はそれか。ならばほとんどの術師が行雲途山の経験がないことになるな」
 あたりまえだ。
 行雲途山に挑めば、八割は命を落とす現状を危惧して、日本が積極的に提案したルールだ。
 それより。
「あなたは一体誰なんですか?」
「奏の兄弟のくせに聞いてないのか。まあいい、奏の匂いを辿ってきたところだ。お前も一緒に来い」
 俺を助けてくれたことといい、奏兄ちゃんの味方である事は間違いなさそうだ。
「立てるか?」
 腕を持ち上げられて立ち上がると、謎の女は自分より身長が低いことに気づく。
 態度の大きさに気づかなかったが、ずいぶんと華奢な身体だ。
「お前は御札を持っているか?」
「いえ、持っていません。全て置き忘れてしまって」
「ちっ、仕方無いな。それじゃ行くぞ」
 ずかずかと歩いていく女のあとに、戸惑いながら付いていくしかなかった。
 
 
 
 鞭の攻撃による軌道がこれほど読みづらいとは思ってもみなかった。
 琴は両手に具現化した円形の戒力で、必死に鞭の攻撃を防御する。
 分が悪い。
 そう気づいたのは、闘い始めてすぐだった。
 琴が攻撃するには、近づかなければならない。
 転じて相手の鳩谷多恵の攻撃の間合いは遠い。相手の攻撃が続く限り、これでは近づけない。
 鳩谷多恵は勝ちを確信しているのか、高笑いしながら攻撃してくるのがなんとも不気味だ。
「逃げるだけ!? 逃げるだけなの!? それじゃあ嬲り殺してあげるわ!」
 鳩谷多恵の上げた声は歓喜の雄叫びに聞こえた。
 なぜ闘いの最中にあんな声を上げられるのか。
 もはや琴の知っている鳩谷多恵ではない。
 変わってしまった。
 大家貴信の与えた地獄のような修行。
 人格さえも変えてしまうのか。
「ぐっ」
 攻撃を受け損ね、鞭の先端が首筋を掠める。
 まるで電撃を食らったかのような衝撃が脳天を突き抜ける。
 体中の筋肉が一瞬硬直するのが分かった。
 慌てて鞭の届かない距離まで退いて、体勢を整える。
 さすが新型の戒具。擦っただけで身体の動きが奪われる。
 直撃したら卒倒は間違いないし、間違えば命を失う。
 こんな人の命さえ奪える危険な武器を作り出すなんて。
 自分もその危険な武器を持っていることに気づく。
 自分の手のひらに吸い付く、円盤型の戒力を相手にぶつければ、間違えれば命を奪ってしまう危険がある。
 私に攻撃できるだろうか。
 通常の戒具ではあの攻撃を防げない。
 どうする。相手はあの鞭の扱いに熟練している。まるで手加減が出来ない。私も素人ではないが、対人間の闘いは初めてである。
 加えて武器の特性。
 奇妙にうねる鞭は、直線とは違い、接近する間合いの壁になる。
 そのときどきに形が変わるため、次の行動を予測しづらい。
 やはり分が悪い。
 あの攻撃を防ぐには、戒力の出力を下げるわけにはいかない。
 だが、攻撃するには現在の出力では相手の命を奪ってしまう。
 そう、分が悪い。
 攻撃できるチャンスはあった。
 そして、当てるチャンスもあった。
 そうだとしても、攻撃が出来ない。
 相手は私を殺そうとしている。
 だが、私は相手を殺せない。
 相手の攻撃を防ぎ続けることしか出来ない。
 必死に読みづらい攻撃を躱し続ける。
 躱し続けながら考える。
 攻撃の瞬間だけ、戒具の出力を抑える。そんなことが出来るか。
 ――できる。
 できるが、出力を弱めることは簡単でも、攻撃が失敗した場合に、相手の反撃に対して再び戒力の出力を瞬時に上げることは困難だ。
 一度上げた出力は維持し続けなければ、攻撃を防ぎ続けられない。
「簡単、かんたーん! エリートの鳴音一家だからって地獄の修行を熟してきた藪北には勝てないのよ!」
 人殺しが勝ちならば、私が勝っている。
 鞭がヘビの毒牙のように迫り来る。
 身体を背後に逸らす。
 後退が足りない!
 毒牙が琴の顔面に炸裂する直線、両手に持っている盾を重ね合わせ、白羽取りの要領で挟み込んだ。
 琴の鼻先数センチで牙をむき出しにして唸り声を上げる鞭。
 鳩谷多恵が鞭を引き抜こうとする。
 琴は離さなかった。
「もうやめない? 多恵。不毛よ、こんな戦い」
「なに言ってるの? 負けそうだからって情に訴える気?」
「私たち、仲が良かったじゃない。どうしてこんなところで殺し合いなんてしなくちゃいけないの? なんの為? 私たちは別に憎しみ合ってる訳じゃないのに」
「馬鹿ね。戦争している敵同士に、殺しあう明確な理由があると思うの?」
「これは戦争じゃないわ。どうして自分以外の誰かの意志に左右されて、殺しあわなければならないの? 人外襲来の危機に、どうして人間同士で争わなくてはならないの?」
「くだらない。死にたくないのなら道を開けなさい。今なら許してあげるわ」
「そうじゃない。あなたはどうして変わってしまったのか。どうして変わる必要があったのか」
「そんなの、あなたに関係ない」
 鳩谷多恵は戒力を解除した。
 琴の両手の中から消え失せる鞭。
 再び鳩谷多恵は戒具を具現化すると、有無を言わさず攻撃を繰り出してきた。
 同じ軌道。琴の顔を狙っている。
 再び戒具で鞭を挟み込むと、こう着状態になった。
「もうやめて。もしかしたら、私、あなたの力になれるかもしれない」
「力に? あなたが? 有り得ないわ」
 再び鳩谷多恵は戒力を解除。
 消える鞭。
 具現化。
 攻撃。
 防御。
 悲しみ。
 苦しみ。
 歓喜の表情。
 背後に見え隠れする暗闇。
 三度。
 琴は鳩谷多恵の鞭を、自らの戒具で挟み込んだ。
「馬鹿のひとつ覚えね!」
 戒力の解除。
 戒力の具現化。
 心の悲鳴。
 迫りくる鞭。
 慣れてくる。
 攻撃パターンは五つ。
 五つを組み合わせて、コンビネーションで攻撃してくる。
 ただし、連続攻撃にはやはりパターンがある。
 迫りくる鞭を掴まえることが容易になる。
 何度目か。
 鞭を挟み込んだ。
「苛つくわ、その防御」
 鳩谷多恵から笑みが消える。
 鞭を引き抜くことは出来ない。
 一度解除して、再び具現化するしかない。
 ――それ、あと何回続けられるの?
 琴は心の中で問う。
 琴は鳩谷多恵を足止めできれば良かった。
 すぐにでも奏のあとを追いかけて、手を貸してあげたいが、今は鳩谷多恵を食い止めることが私の出来ることの最善。
「それはやめたほうがいいぞ」
 不意に琴の背後から声がした。
 振り返って確認することは出来ない。
 琴の正面に立つ鳩谷多恵には、琴の背後に現れた声の主が見えているだろう。
「クソ女、いいときに現れやがって!」
 汚い言葉。
 そんな言葉を吐く子じゃなかった。
 背後から足音が近づいてくる。
 ――二人。
「お前の戦い方は、私の予想ではあまり良い結果を産まないぞ」
 誰だ。
 正面にいる鳩谷多恵の表情を見る限り、彼女は知っている人間らしい。
「俵原はどうしたの? まさか、負けたの?」
「逃げてったよ」
 これは階の声。
「良かった……無事だったのね」
 声を上げたとき、鳩谷多恵は戒力を解除し、再び具現化して攻撃してきた。
 もう分かる。
 攻撃を繰り出すときの手の位置、足の位置、視線。
 次に狙ってくるのは心臓。
 心臓に鞭の先端が炸裂する前に、戒力で挟み込んで防いだ。
 背後で拍手の音。
「大した動体視力だ。いや、洞察力かな。いずれにしろ特異な才能だな。だが、お前の闘い方では、相手を殺すより残酷な結果を産むぞ」
 どういうこと?
 それより、誰なの?
「殺したくないのだろう。敵は知り合いか? 戦い方を見ていればお前の考えてることなど手に取るように伝わってくる。まあ、本来人外を駆除するための力を使って、人間を殺すなどあってはならないがな。そんな奴がいるとすれば、すでに術師ではない」
「黙れ! アバズレ」
 鳩谷多恵の罵声に、女は一笑に付す。
「アバズレとはお言葉だな。お前はすでに禁断症状が現れてるぞ。それ以上、戒具を使うな。人間性を失うはめになる」
 人間性を失う?
「おまえ自身、気づかないのか? 一年前でも二年前でも、過去の自分を回想してみろ。今の自分に欠けている物がないか?」
「説教で説き伏せる気か? 本当に年寄りは笑わせてくれるな! 寝言は寝てるときに言え!」
「やれやれ」
 女は呆れたように溜息を付くと、もうなにも言わなかった。
「どういうことですか?」
 琴は背後の女に顔を向けず訊ねた。
「人間性を失うとは?」
 女は答えない。
 変わりに階が答えた。
「俺も新型戒具を使ったときに思ったことがあるんだ。多分、そのことだと思う」
「なに? それはなに?」
「疲弊するんだよ。とんでもなく心が疲れるんだ。無理矢理力を引き出しているせいなのか、とても心が刺々しくなってくる」
「刺々しく?」
「良く分からないけど、あの力は使い過ぎると人格変わるよ、きっと」
 情力も戒力も、元は心的エネルギーだ。
 思いや念が力として具現化する。
 遣い過ぎれば当然、心は疲労する。
 ――心を喪失する?
 そのとき、鳩谷多恵が戒力を解除した。
 消失する鞭。
 だが、今度は具現化しなかった。
 暗闇の中、なにも言わず佇んでいる。
「多恵……」
 表情は覗えない。
 だが、殺気が消えている。
 鳩谷多恵は暗闇から湧き出るような声で言った。
「確かにここで力は消費できない。私の目的はあなたを倒すことじゃない」
 そう言い残して、鳩谷多恵は踵を返すと森の暗闇に走り去っていった。
「多恵!」
 思わず叫んだが、立ち止まるはずもなく、やがて足音も聞こえなくなった。
「多恵……なんで……」
 琴はようやく振り返る。
 そこに立っていた二人を確認する。
 階と、見知らぬ女。
 若い。それに子供のように小柄で細身。
 声だけでイメージしていたような女性ではない。
「あなたは?」
 この女性に助けられたようなものだ。
 一体何者なのか。
「お前も私を知らんのか。全く、私は現在ではこれほどまでに忘れられているのか」
「現在?」
 過去の偉人?
 思い至らない。
「まあいい。お前も特殊な能力を持っているようだ。力は並だが、目や身体能力が良いな。自分に合った戦い方を覚えれば実力は増すだろう。お前も行雲途山行き決定だな」
「行雲途山?」
「奏を連れて行こうと思ってる。どいつもこいつも修行するってことを忘れて、怠けているようだからな」
 そんな修行をして実力を増す必要性がない。そう言おうとしたが言えなかった。
 人外危機。
 今回は和平の道を模索していると言うが、もし同じ事態が起こったら?
 私の実力では力になれない。
「ひょっとしたら気づいているかもしれないが、和平の道を歩むなど、甘い期待を抱いてるのなら愚かなことだ。これほどの瘴気。攻め込もうと思えば、人外は簡単に勝利できるだろう。そうしないのは、お互いになんの情報もない状態であるからだ」
「和平は破綻すると?」
「もともと和平などと言うものが夢物語だと言っている。真実は今のところ誰にも分かっていないが、恐らくは隔世側で何か事情が変わったのだろう。今、現世に攻め込むには準備が足らない。相手のことが分からない以上、知るためには近づくしかない。そんなところが原因の一時的な『和平』だ。こちらが人外に対抗する力がないと悟られた途端、攻め込まれるだろうな」
「また襲来すると?」
「今回のところは人外どもも大人しく引き下がるかもしれないが、近い将来、体勢を整えて攻め込んでくるだろう。あの人外が現れたときは私も人類の敗北を覚悟したが、時間が残されていると言うのなら話は別だ。私は適当に素質のありそうな弟子を見繕って、行雲途山に行く。お前も来い。そして、本当の人外襲来が起こったとき、人類のために力となれ」
 そんなことを言われても……。
 この小柄な女性から溢れるエネルギーに、よく知りもしないのに、琴は自然に頷いていた。
「よし、そうと決まれば、この世で一番の愚か者である奏のところに行くぞ。私の弟子一号だ。弟子の面倒を見るのも、師匠の役目だからな」
 本当にこの人は一体誰なんだろう。
 小柄な若い女性なのに、妙に頼りがいがある。
「あ、でも行雲途山って、北京条約で三十歳以上じゃないと……」
「それはさっき訊いた。そんなものどうにでもなるだろう。気にするな」
「気にするなって……」
 国際的な条約を反古する行為など、グローバル社会にあって、日本国の信用喪失……そんな理屈がどうでも良くなってくる。
 なんか不思議な人だ。
 
 
 
「あれは……奏!」
 弦は思わず大声を上げていた。
 先ほど、ユーナという人外が制止を振り切って、出現した銀髪の人外の元へ駆け寄ったかと思うと、次に弦のいる前線の部隊周囲が騒然となった。
 騒然とさせている元凶の奏が、バリケードを越えて出現した人外めがけて走り出していた。
「どうなってる! あいつはもっとあとに来る予定だろう!」
「分かりません! 現在、奏氏に同行していた部隊に問い合わせています!」
 何か起こった?
 弦が舌打ちをして振り返ると、準備を終えた父がやってきた。
「室長、奏が……」
「見えてる。あの馬鹿息子め、こちらの気持ちも知らずに騒動ばかり起こしやがって」
 それほど動揺していない。
「すぐに連れ戻してくる。生身で怪物に近寄れば、間違えたら死ぬ」
「近寄れませんよ。俺たちだってこれ以上近寄れない」
「あの馬鹿が後先考えるものか」
 そう言って、父がバリケードを越える。
 父は急遽、瘴気を遮断する御札を詰め込んだジャケットを作成させて着込んでいる。
 生身ではあの銀髪の人外に近寄れないからだ。
 そしてもうひとつ。
 万が一のための自衛隊が用意した兵器。
「行ってくる」
 そう言い残して、父が銀髪の人外の元へ歩いていった。
 銀髪の人外の正面には、ユーナとナユタという人外がひれ伏している。
 集音マイクが拾った音声では、ユーナがしきりに「許してください」と繰り返し訴えているようだ。
 ユーナは協力的だったと思うが、土壇場に来て寝返ったのだろう。
 それは責められないし、この際、大した問題ではない。
 今は、父が交渉をうまく進め、和平の道を辿れるか否かが重要だ。
「あいつ、無理しやがって。本当に死ぬぞ」
 奏が明らかに朦朧としながら、銀髪の人外に近づいていく。
 お前は恐ろしくないのか。
 あの人外が出現したとき、俺は死を覚悟した。
 敗北を覚悟した。
 なのにお前はなぜ近づいていく?
 ――あの女の人外か。
 そこまでお前はあの女の人外に思い入れを?
「最後まで手の焼ける……」
 お前のせいでどれだけ俺たち家族が振り回されたと思ってる。
「何かが近づいてきます!」
 集音マイクに耳を傾けていた自衛隊の技師が、突然声を上げた。
「足音です! 銀髪の人外の元へ近づいていきます!」
 弦は技師のほうを見た。
 その一瞬の間。
 赤い光が見えた。
 銀髪の人外のほうへ視線を転じたときには、事はすでに起こっていた。
 銀髪の人外が居た場所には、紅蓮の炎が立ち上っていたのだ。
「なにが……!」
 熱風がここまで襲ってきた。
 人外と我々のちょうど中間の距離に居た父も熱風に顔をそむけている。
「何があった!」
「分かりません!」
 自衛隊の技師は首を横に振ったが、奏の隣に居て双眼鏡で観察していた術師が「ラナ・カンです」と答えた。
「ラナ・カンが火を吹いたのが見えました」
「馬鹿な……!」
 攻撃しただと……!
 弦はその場に腰砕けになりそうになった。
 いや、そうじゃない。膝の力が抜けて、折れ曲がったところでどうにか踏みとどまったに過ぎない。
「和平の交渉に行くところなんだぞ!」
 この攻撃ですべてを台無しにするかもしれない。
 交渉決裂。
 攻撃を受けた人外の報復。
 見えていた希望の光が、悪魔の手によりさえぎられるのを感じた。
 愕然と上空に巻き上がる炎を見つめながら、いよいよこの場が戦場に変わり、無残な死体が無数に転がる想像を止めることが出来なかった。
 
 
 
「ふふふ」
 佐々倉想平は、一番美味しい場面を横取りできることが嬉しくて堪らなかった。
 木の枝に腰掛けながら、戒具の具合の確認に余念がない。
 佐々倉想平の使命は、人外の足止めをすること。
 ユーナとナユタ、そしてラナ・カンを隔世に戻さないことだった。
 情報では川本クリスティーヌ、ならびに俵原孝司、鳩谷多恵が人外の拘束に失敗したらしい。
 残るはこの美男子術師、佐々倉想平しかない。
 いまはリーダの座を俵原孝司に預けているが、ここで成果を挙げればきっと藪北ファミリ、および続々と発生する後輩たちのリーダとして、大家貴信先生は自分のことを指名するに違いない。
 そう思うとにやけ顔が戻らなかった。
「ふふふ。うへへえ」
 新型戒具を装着する。
 佐々倉想平の戒力は飛び道具。
 作り出した戒力の矢を飛ばす。
 射程距離はおおよそ見える範囲。
 三百メートル以内なら、ほぼ確実に獲物に炸裂させることが出来る。
 そして、獲物はなんとも分かりやすい場所に姿を現してくれた。
 青空公園の噴水広場。
 遮蔽物が何もなく、しかも集まった術師も自衛隊も一切、噴水広場には近づかない。
 そこに居るのは降臨した人外と、ユーナとナユタという人外、そしてふらふら歩く鳴音奏という小僧。
 ユーナとナユタを仕留める。
 まるでスナイパーの気分。
 下腹部にぞくぞくと電気刺激のような快感。
「うふふ」
 戒力を具現化する。
 木の上の高い位置からユーナとナユタを狙う。
 一度に三つの矢を放つことが出来る。
 二体同時に仕留めるなど造作もない。
 術師や自衛隊が待機するエリアを挟んで、距離にして約百三十メートル。
 狙いを誤ることはない。
「成果だ成果。認められるぞー」
 腕を伸ばし、指先を照準に人外二人のほうに向ける。
 ――照準が合った。
 いざ、矢を放とうとした瞬間だった。
「おい」
 声をかけられて、木から落ちるほど驚いた。
 心臓が止まる思いがして、胸を抑えながら声のした方向を見ると、隣の木に登ってこちらを見ている女が居る。
 知ってる顔。
「い、伊集院」
「お前、なにしてるんだ? というより、狙ってやがったな」
「な、なにをだ!」
「いいから下を見ろ」
 佐々倉想平は地面のほうを見ると、こちらに向かって手を振っている二人が見えた。あれは鳴音奏の兄弟だ。しかも片方は佐々倉想平の部下である鳴音琴だ。
「三対一だな。降参しろ。こっちはお前の戒力を無効にする術を使える。大人しくするのなら痛い目見ずに済むぞ」
 何てことだ。
 なぜ気づかれた?
「降参します」
 佐々倉想平は戒力を解除して、大人しく両手を上げた。
 
 
 
 奏の目の前が真っ赤に染まったかと思うと、次に皮膚を焼く熱風が襲ってきた。
 奏は尻餅を付く。
 ――これは炎。
 なにが起こったのか。
 赤と黒の紅蓮が、咆哮をあげながら目の前を覆いつくし、一瞬にして酸素を奪った。
 奏は踞った。
 俺は炎に巻かれたのか。
 熱風が去るまで踞っていた。
 顔をあげられない
 巻き上がった炎の中に、確かにユーナとナユタがいるのを目撃した。
 顔をあげるのが恐ろしかった。
「奏、大丈夫か」
 奏は突然、肩を捕まれて悲鳴を上げた。
「おい、俺だ」
 見上げると父親の顔。
「と、父さん」
「無茶しやがって。今すぐバリケードの向こうまで下がれ」
 ――それより……。
 奏は炎の名残が残る現場を見た。
 ユーナは?
 ナユタは?
 そこには両手を顔の位置まで持ち上げて、見えない壁に触れるような仕草をした銀髪の人外の姿。
 そして、足元には変わらず踞るユーナとナユタ。
 立ち上る煙が、三人の周囲を四角に縁取るように進入を抵んでいる。
 ――結界。
 炎を結界で防いだようだ。
「ユーナ!」
 奏は叫んだ。
 距離にして五メートル。
 確実に声は届いたはずだ。
 だが、ユーナは身じろぎひとつしなかったし、その顔をこちらに向けてくれることもなかった。
 ひれ伏したままのユーナの向こう側。
 ラナ・カンが見えた。
 犬歯をむき出しにして唸る、巨大化したラナ・カンだ。
「ラナ・カン!」
 奏は叫んでいた。
 ラナ・カンは一瞬、奏を見た。
 一瞬だけだったが、ラナ・カンの瞳に確かな自我の光を感じた。
 自分を見失っていたさっきまでのラナ・カンではない。
 火を吹いたのか!?
 ユーナとナユタを巻き込んで?
「ラナ・カン、どうしたって言うんだ」
「いいから下がれ」
 父親が強かに奏の胸を叩く。
 そのとき、銀髪の人外が右手を持ち上げる。
 右手にもや。
 手の形がぼやけて見える。
 何かを発動しようとしている。
 銀髪の人外の視線はラナ・カン。
 奏は駆け出していた。
 背後から父親の声。
 人外の右手から発せられる瘴気。
「ラナ・カン!」
 叫び声をあげながら、奏はラナ・カンに飛びついていた。
「奏! なにしてる!」
 ラナ・カンが叫んだ。
 背後に、死を予感させる嫌な感覚。
 背後で何かとてつもない恐ろしいエネルギーが増幅しているのを感じた。
「待て! 待ってくれ!」
 父親の声。
 ラナ・カンが奏を退けようと襟首を噛んで引っ張った。
 頑として動かない奏。
「ラナ・カン! 逃げろ!」
 奏が叫んだとき。
 背後から差した光に、ラナ・カンの顔がぼやけた。
 ぶうううん、という振動音。
「なんてことだ! 逃げろ、奏!」
 ラナ・カンが叫んだと同時だった。
 ――光に包まれた。
 身体が一瞬で塵になる。
 身体が一瞬で蒸発する。
 身体が一瞬で消失する。
 身体が一瞬で粉々になる。
 身体が一瞬で――。
 死を迎える瞬間の想像が頭を駆け巡った。
 そのどれも実現しなかったことは、奏が目を開いたときに明らかとなった。
 目の前に覆いかぶさるラナ・カン。
 重い。
 ラナ・カンの下敷きから這い出ると、巨大化したままのラナ・カンが力なく横たわっている。
「ラナ・カン……」
 返事をしない。
「ラナ・カン?」
 触れると、水風船のように揺れる。
 舌を出し、目を閉じている。
 呼吸をしていない。
 背中は焼け焦げで、美しい毛並みだったはずの場所は陥没して身体の半分が焼失している。
 奏は呆然と立ちすくみながらラナ・カンを見下ろしていた。
「奏……今は下がれ」
 静かな父の声。
「ラナ・カンが攻撃したから、攻撃し返したに過ぎない。いいか、これから和平の交渉に入る。お前は下がるんだ」
 放心状態で顔を起こす。
 父親の必死な顔。
 そして。
 ひれ伏したままのユーナとナユタ。
 銀髪の人外。
 無表情で奏を見ている。
 ――お前、ラナ・カンになにをした?
 心が平面になっている。
 風ひとつない湖面のように。
「お前、ラナ・カンになにをした?」
 動かないラナ・カン。
 ひれ伏すユーナとナユタ。
 動かすと破裂する爆弾を抱えているような表情の父。
 表情のない銀髪の人外。
「お前……」
 平面な湖面の中央に向かって巨大な隕石が落ちる。
 隕石は巨大な水しぶきを上げ、大きな湖を一瞬で沸騰させた。
「お前……!」
 熱いものが沸き起ころうとしたとき、同時に湖の底に巨大な穴が開き、沸騰した水をすべて吸い込んでいった。
 自分の意識が急速に遠のいていった。
 意識が失われる瞬間は記憶にない。
 奏は呼吸の止まったラナ・カンの身体に倒れ込んだのだった。
 
 
 
「ちっ、遅かった」
 琴の右側で謎の女性が声を上げた。
 森を抜け、ようやく青空公園にたどり着いた頃だった。
 伊集院照子の右手には、先ほど捕まえた佐々倉想平という、琴の上司である男が首根っこ掴まれている。
 切なそうな顔をしている佐々倉想平を見て、以前は尊敬をしていたものだが、今の姿は哀愁さえ抱かせる。
「ラナ・カンの瘴気が消えた。あいつ、早まったな」
 三人は現場に急いだ。
 術師や自衛隊の部隊が見えたが、琴も階も父親のおかげでそれなりに顔が通っている。
 引き止めるものも居たが、触れてくるものは居なかった。
 謎の女性は佐々倉想平を引きずったまま、お構いなしに部隊の間隙を縫って前線に向かう。
 砂袋のバリケードの張られた最前線まで来ると、青空公園中央部の噴水広場を中心に無数の投光器で照らされた問題の箇所が見渡せた。
「あれが……」
 琴の目に、最初に飛び込んで来たのは父の背中と、銀髪の人外。
「ラナ・カンが倒れてる。見えるか? ラナ・カンにもたれるようにお前らの兄弟も倒れてる」
「冗談じゃないぜ。僕だってこれ以上近寄りたくない」
 佐々倉想平がそう漏らしたが、誰も訊いていない。
 謎の女性が呆れたように言った。
「馬鹿兄貴は瘴気に中てられて気絶でもしたんだろう」
 そうかもしれない。
 だが、あんなところにいつまでも居ては命に関わる。
「迎えにいきたいところだが、私も近寄れんな。お前らの父親はそれなりに装備していったらしい。同じ装備がもう一組あれば」
 階が「あとそこに弦兄ちゃんが居る」と指差した。
 琴も弦を発見し、すぐさま駆け出した。
 後方から呆れ声の階と謎の女性が追いかけてくる。
「弦!」
 声をかけると、琴を見た弦がうんざりしたような顔をする。
 失礼な態度だ。
「何しに来た。お前ら、自分の持ち場があるだろう」
「それより、奏は? あんなところに居たら死んじゃうよ!」
「分かってる。いま親父が和平交渉に向かってる。終われば一緒に連れ帰ってくるだろう」
「そんな悠長な!」
 詰め寄ろうとした琴を、階が制する。
「落ち着け姉ちゃん。もう、奏兄ちゃんだけの問題じゃないんだ。いま部外者があの場に行ったら交渉が拗れるかもしれない」
 謎の女性が「ふむふむ」と頷いた。
「弟のほうがよほど利口らしい」
「伊集院さん、奏と一緒に居たんじゃないんですか?」
 弦が訊ねる。伊集院? それがこの女性の名前か。
「確かに奏と一緒に居たが、どうやら大家貴信の叛乱があったようでな。私たちが待機していた民家に藪北ファミリーと大家貴信の腹心が攻め込んできてな。奏と人外だけどうにか逃がしたが、私は手間取ってやってくるのが遅れた。くる途中でお前の兄弟が藪北と揉めてるのに首を突っ込んだせいもあるが。ついでに狙撃を企んでいた佐々倉想平もとっ捕まえておいた」
 佐々倉想平がえへへ、と恥ずかしそうに愛想笑っている。
「藪北と揉めた? いやそれより大家の叛乱だと?」
「まだ情報が届いてないのか? 全く、情報網が機能してないじゃないか」
「大家の叛乱って、目的は?」
「最後まで喋らなかったよ。そんなのお前らでどうにかしてくれ。私の目的は、人外を隔世に戻すこと。それについてはもう予定が破綻している。他にプランはないのか?」
「あるわけないでしょう。人外を隔世に戻すより、優先しなければならないことは沢山あるんです」
「分かるが、プランがないというのなら私は勝手に動くが、それでいいかな?」
「勝手に動かれるのは困ります。ですが、プランを立てていただくのは一向に構いません。出来たらお知らせいただければ、他の優先すべき作戦を加味して、回答いたします」
「面倒だな。お前らの作戦なんて私にはどうでもいい。よほどのことがなければ交渉は和平で落ち着くだろう。一時的だとしてもな」
「一時的?」
「面倒だからあとで話す」
 伊集院という女性は興醒めしたようにそっぽを向いて、佐々倉想平の肩に腕を回しながら考えに耽り始めた。
「おい、琴、階」
 弦がこちらを睨みつけている。
「おまえら、藪北と揉めたって、どういうことだ。大家の叛乱について何か知ってるならすべて話せ」
 琴と階は顔を見合わせる。
 質問には琴が答えた。
「なにも知らないわ。鳩谷多恵は逃げてしまったし。奏に先を急がせるために、足止めしただけだもの」
「本当になにも知らないのか?」
「あの女性が言った通り、自分で調べたら? 私の目的も、人外を隔世に戻すことだもの」
「俺も同じ」
 階が同調する。
「お前らは奏も含めて、現れた新たな人外のことには全く興味がないのか」
「それは弦兄ちゃんと親父の仕事だろ」
 階があっさり言い放つと、弦は難しそうな顔をして、それ以上突っ込んでこなかった。
「室長補佐、交渉が始まったようです」
 自衛隊技師に呼ばれ、集音マイクの拾った音声に耳を傾けた。
 受信した音声は無線を通して全体に流れるが、琴たちは無線を持っていないため、伊集院と佐々倉想平を含めスピーカーのもとに集まった。
 
 
 
 ――まず、断っておきたいのだが、先ほどの獣族の人外の攻撃は、我々の意志ではない。彼が勝手にやったことである。
 ――なぜ来られたのか。お答えいただけるだろうか。
 ――和平を望まれる理由を、可能な限りお答えいただけるだろうか。
 ――我々も争う意志はない。用意した部隊は事前に仕入れた情報によるものである。
 ――今後の交流については、何かお考えがあるか。
 ――本当の意味での和平は、技術の共有にある。イスカ領域を開く技術が片方だけにある状態では、我々は脅威を抱き続け――
 
 奏の白昼夢のような意識の中に、父親の声がこだまする。
 ラナ・カン。
 ラナ・カン。
 呼吸しろ、ラナ・カン。
 お前を隔世に戻すと約束した。
 お前をもう一度家族に会わせると約束した。
 もう一度呼吸しろ。
 そうしないと、俺は約束を破ったことになるじゃないか。
 ユーナとナユタはおかしくなってしまった。
 あの銀髪の人外が現れてからだ。
 俺をずっと騙し続けてたのかな。
 ラナ・カン。
 また目を覚まして、俺に答えをくれよ。
 家族に会えると、喜んで見せてくれよ。
 ラナ・カン……。
 
 目を開く。
 開いた先に、顔に触れるラナ・カンの柔らかい毛。
 だが、体温が伝わってこない。
 生物の証である躍動が伝わってこない。
 起き上がろうとした。
 動けなかった。
 体中の神経が鈍い。
 どうやって動かすのか忘れてしまったかのようだ。
 気持ちが悪い。
 車酔いのような気分の悪さ。
 頭が割れるようだ。
 動かせるとしたら指先ぐらい。
 なにも出来ない。
 ラナ・カンが怪我をして横たわっているのに、俺は無力だ。
 何もしてあげられない。
 帰してあげる約束も守れない。
 無力。
 結局、俺は落ちこぼれのまま。
 何ひとつ実現できない。
 お前は、俺をかばってくれたのか。
 あの一瞬、死ぬのを覚悟した。
 でも、お前が銀髪のあいつの攻撃を、身を挺して守ってくれたのか。
 もう、間に合わないのか。
 イスカ領域は目の前だったのに。
 あと数メートルだったのに。
 あと数メートル。
「こんなのってあるか……」
 奏はもう一度腕に力を込めた。
 動く。
 動くじゃないか。
 動かす前から、俺は諦めていたのか。
 必死な思いでどうにか上半身を起こした。
 目の前に見えたのは、相変わらずの白の世界。
 天国のように明るく、地獄のように苦しい。
 銀髪の人外と父親が向き合っている。
 その間には変わらずひれ伏しているユーナとナユタの姿。
 もう、混乱している暇はない。
「では、約束に日時に再度、会談の場を設けるということでよろしいかな」
「それで構わない」
 銀髪の人外の声。
 人間と変わりはない。
 だが、ラナ・カンを殺した。
 お前は悪い人外だ。
「そろそろイスカ領域が閉じる。私は戻らねばならない」
「最後に訊ねるが、この二人の二ツ目はどうするおつもりか」
「ミユナとナユタは連れて帰る。お望みであればこちらの世界に残していくが、如何するか」
 連れて帰る。
 望めば残す。
 父親が身体を起こしている奏に気づいた。
 父親が暫時、奏を見て居た。
 回答権は父親にあった。
 奏の目的を知っている父親。
 しかし、現世のことをかなり知ってしまっているユーナとナユタを帰すということは、隔世に貴重な情報を提供してしまうことになる。
 現世に残す。
 父親はユーナとナユタを隔世には帰さない選択をすると思った。
「連れ帰ってもらって構わない。この獣族も」
「残念ながら、この獣族の者は息絶えている。連れて帰ってもいいが」
「ならば残しましょう。処理はこちらで」
「ふむ」
 なんの感情もなく、淡々と交わされる会話。
 ラナ・カンの死を悼むものは?
 所詮、隔世の人外。
「ふ、ふざけるな……」
 声を絞り出す。
 聞こえているはずだが、銀髪の人外も父親も反応を示さない。
「それでは失礼する。ミユナ、ナユタ、付いて来い」
 ユーナとナユタが亡者のように立ち上がった。
 物言わず、奏のことを一切かえりみることもなく銀髪の人外の後を付いていく。
 イスカ領域が虹色に輝いている。
 虹色の切れ目に向かって歩いていく三つの後姿。
 帰って行く。
 ユーナとナユタを隔世に戻すという目的。
 達成できたのか。
 約束は守られたはず。
 なのに、なぜこんなに悲しくて苦しい。
 なぜ喜びを感じない。
 自分の思ったとおりの結末を迎えなかったから?
 同じ結末でも、ユーナやナユタに涙を流しながら感謝して欲しかった?
 別れを惜しんで欲しかった?
 虹色の光に溶け込んで行く三つの人外。
 別れの挨拶も、余韻もなく。
 ユーナ。
 結局、君は最後まで嘘つきだったんだな。
 俺は騙されていたんだな。
 俺はピエロか。
 泣き笑うピエロ。
 銀髪の人外がイスカ領域に消えてから、身体が軽くなった。
 身体は相変わらず重いが、動かせないほどではない。
「やれやれ、奏。帰るぞ」
 父が優しい声を出す。
「ラナ・カンが……」
「仕方無い。私もラナ・カンについては不本意だ。なぜラナ・カンは銀髪の人外に攻撃したのか。あれさえなければ……」
 ラナ・カンが悪いと言うのか。
 これほどまでに人類に尽くしてくれたラナ・カンが悪者だと?
「立てるか? ラナ・カンの遺体は悪い様にはしない。研究のモルモットになるようなこともさせない。丁重に埋葬すると約束しよう」
 奏は父親の腕を振り払った。
「もう少し……ラナ・カンと一緒に居る」
 父は困ったように頭を掻いた。
 こちらに近づいてくる複数の足音が聞こえてきて、奏は顔を起こす。
 歩いてきたのは琴と階、それに伊集院照子。伊集院照子に首根っこつかまれて所在なさげにしているのは佐々倉想平だ。
 琴が近寄って、ラナ・カンの様子を覗った。
「奏……これがラナ・カンね」
「ああ」
 姉ちゃんは労わるようにラナ・カンの純白の毛を撫でた。
「綺麗な毛ね。話してみたかったけど……」
「とても紳士だったよ。誰よりも、人間よりも現世のことを考えてくれて……」
 それ以上喋れなかった。
 胸の中に悔しさが広がる。
「ラナ・カン……!」
 これが現実なのか。
 こんな形で約束が守れないなんて。
 酷すぎるじゃないか。
 もう、流れ落ちる涙は止められない。
 ラナ・カンの胸にうずもれるように奏は声を上げて泣いた。
 これが結末。
 こんなのが最後だなんて。
 そのとき、異変に気づく。
 ラナ・カンの身体が縮んでいく。
 それは際限がなく、どこまでも小さくなってなくなってしまうのではないかと思った。
 慌てて縮小を押さえ込もうとラナ・カンを抱きかかえようとすると、どういうわけがラナ・カンの体毛が腕に絡みついた。
 二の腕を覆うようにして、ラナ・カンの体毛が絡みつき、その形で変形が止まった。
 戸惑っていると「おい、一番弟子」と伊集院照子の声した。
 涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔を上げる。
「情けない、人外一匹死んだ程度で」
「でも、ラナ・カンは……」
「まあ、私も少なからず情はある。だが、この結果はラナ・カンが状況を見誤った結果だ。誰も悪くない」
 そんなこと言われても納得できない。
「でも、これは……」
 二の腕に絡みついたラナ・カンの純白の体毛を掲げて見せる。
「わからん。ラナ・カンの最後の意識がお前に残した形見か。ただ絡んだだけか」
 奏は二の腕に絡まったラナ・カンの毛を撫でる。
 これは、ひょっとして何かの希望の証なのか。
 ラナ・カンはとりあえず、俺と一緒に居ることを望んだ?
 剥がそうとしても、毛は剥がれない。
 もしかしたら、何らかの方法で復活させることが出来るかもしれない。
「何かありそうだな。念のため、そのままにしておいて、調査しよう」
 父親が言った。
 ラナ・カンが生き返るかもしれない。
 そう思わないと、胸が張り裂けそうだ。
 ラナ・カン。俺、努力するから。
 お前が復活するのなら、何年掛かっても。
 奏の中にわずかな希望。
 だが、すぐに暗い感情が胸を満たしていく。
「ユーナとナユタは……結局、最後まで俺を見てくれなかった。俺、ずっと騙されてたのかな」
「どうかな。分からんが、騙していたという感じではなかったな」
「じゃあ、なんで……」
「ユーナとナユタは奴隷だって言ってたな。まあ、想像の域を出ない仮説だ。やめておこう」
「教えてください。これじゃ、俺は約束が守れたのかどうなのか分かりません」
 伊集院照子はやれやれと首筋をさすった。
「約束なら守っただろう。隔世に戻すのが約束だったはずだ」
「連れて行かれたんです。帰したんじゃない。ユーナは戻った先で無事暮らせるんでしょうか」
「知るかそんなもん」
「……そうですよね」
「ま、結局、帰ってしまった以上、あっち側の事情はまるで分からん」
「でも、ラナ・カンが一緒に帰って、ユーナとナユタを守ってもらう約束だったんです」
「はあ……」
 伊集院照子は心底疲れたような溜息を漏らした。
「いいか、さっき出現した人外はレジスタンスの者ではないだろうと推測する。ユーナとナユタの態度が説明付かない。奴隷が徒党を組んでやってきたのなら、ユーナはあんなふうにへりくだらないだろう。どうみてもあれはご主人様と奴隷の関係だ」
 そう言えば……。
 隔世から襲来にするのは奴隷扱いされている二ツ目、一ツ目たちの解放軍だったはず。
 それにしてはやけに服装が綺麗だった。
 ユーナの態度も普通じゃなかった。
「つまり、レジスタンスが現れると思ったらご主人様が現れてあらびっくり、ユーナはああするしかなかった。生まれてから奴隷として洗脳されてきた心はそう簡単に直らない。要するにお前を騙していたのではなく、予想外の事態が起こったといえる。ユーナは突然現れたご主人様に、心を操られてしまったという話。これで納得したか?」
 騙していたわけではない。
 あの態度は、奴隷として洗脳を受けていたせい。
 ならば、俺と過ごしたユーナは本物だった。
「それじゃあ、ユーナは裏切り者として連れて行かれたってことですよね。ユーナは言ってました。いつ殺されるか分からない毎日だったって。あいつと一緒に戻ったら、ユーナもナユタも殺されてしまうんじゃ……」
「ああ、くそ」
 伊集院照子は悪態付くと、地面を蹴っ飛ばした。
「おい、親父」
 伊集院照子が父親を呼びつけた。
「お前、ちょっとあっち向いてろ」
「は?」
 父親がはにかんだ顔をする。
「いいから、ちょっとあっちの術師たちが居るほうを向いてろ。すぐ済むから」
「構わないが……」
 そう言って、父親が背中を向ける。
「よし、奏、ちょっと来い」
 手招かれて、奏はふらふらと伊集院照子に近づいていく」
「いいか、もうグダグダ考えるな。分からないもの分からない。いくら気に病んだって仕方がない」
「でも……」
「うるさい!」
 口答えしようとすると、伊集院照子の一喝。
 呆然と琴と階がこちらを見ている。
「いいか、一番弟子。そんなに気になるんなら、お前、ちょっと行ってこい」
「……? 行って来いって」
 伊集院照子が顔を近づいて、小声で言った。
「行ってこいって言ってるんだ。お前、この調子じゃ私の話も修行も上の空だ。いいからもう行って確かめて来い」
「行くって、どこに……」
「どこにって決まってるだろう」
 伊集院照子が指差した。
 その方角をみると、虹色に輝く裂け目。
「ちょ――」
 琴が気づいて、慌てて割って入ろうとしてきたところを、伊集院照子の一瞥で金縛りに遭った。
「あっちに行って来い。そんでユーナたちの無事を確認したら、今度はお前が無事に戻ってこい」
「だって、隔世に渡るのは禁断なんじゃ」
「禁忌だろうが条約だろうが、そんなもんただの禁忌や条約だ。気にするな、現世のことは私が何とかしとく」
 奏は虹色のイスカ領域を振り返った。
 ごくりと生唾を飲む。
 まさか、あっちの世界に?
「時間はないぞ。扉はいつまでも開いてはいないだろう。すぐ決めろ、行くか残るか。どっちの選択をしても、全部私がなんとかしてやる。好きなほうを選べ」
 あっちに行くか、こっちに残るか。
 このイスカ領域を渡ったとき、その先に何があるのか。誰も保証してくれない。
 もし、敵の真っ只中だったら?
「これだけは断言できる。どちらの選択も、恐れていたら決まらない。恐怖に負けた選択をしたら、お前は生涯において後悔を残すだろう」
 奏は琴を見た。
 琴は泣き出しそうな顔で、必死に首を横に振っている。
 階をみた。階は力強く、首を縦に振った。
 ふと、その場に居た佐々倉想平と目が合う。
 佐々倉想平は興味なさそうにそっぽを向いた。
 父親の背中。
 届かない背中。
 ごめんなさい、父さん。
「伊集院さん、俺、行きます」
「やっぱ行くか」
 自分でけしかけておいて、何だその表情は。
「奏!」
 琴が声を上げて近寄ってきた。
「駄目よ! 馬鹿なことを考えないで! 帰ってこれる保証なんてないのよ!」
 必死な顔。
 ありがとう。姉ちゃん。
 たくさん守ってくれてありがとう。
「行ってくるよ、姉ちゃん」
「奏……」
「帰ってきたら、またハンバーグつくってよ」
「ハンバーグ……」
 奏は階を見た。
 階は無表情でこちらを見ている。
「階、行ってくる。戻ってきたらあっちの世界の話、たくさんしてやるからな」
 階は興奮したように目を煌かせた。
「待ってるよ」
 そう言うと、にっこりと笑って見せた。
「絶対駄目! 行かせないから!」
 琴が奏に抱きついてきた。
「絶対に駄目! 今までだってどれだけ心配したと思ってるの! あなたが帰ってくるまで、私はどれだけ心配しなくちゃいけないの?」
「姉ちゃん……」
「絶対に行かせない……!」
 姉ちゃんの声が嗄れた。熱気が伝わってくる。
「姉ちゃん、ありがとう。俺、姉ちゃんのおかげで、母ちゃんの居ない寂しさなんて一度も感じたことがなかったよ」
 ゆっくりと琴を引き剥がす。
「大丈夫。絶対に戻ってくるから」
 琴は必死な顔で涙を流している。
 そんなに心配してくれるなんて。
 嬉しくて、少し寂しい。
「行く。急がないと」
 奏が琴から離れると、琴はなおも食い下がろうとした。
 だが、それを引き止めたのは父親だった。
 琴は父親に腕をつかまれる。
「まあ、これで少しの間、面倒ごとが起こらないと考えれば、少しくらい留守にしててくれたほうがいいだろう」
 まさか、父親が理解を示すとは思わなかった。
 この場に居ないのは弦兄ちゃん。
「弦兄ちゃんにもお礼を言っておいて」
「弦兄ちゃんはどっちかって言うと、ずっと敵っぽかったけど」
 階がそう漏らす。
「違うよ。弦兄ちゃんはずっと俺のやることを認めててくれたんだよ。どうしようもなくなったときは、きっと助けてくれたと思う。だからいつも弦兄ちゃんは俺が現れる場所に必ず居た」
 後ずさりするようにみんなから距離を置く。
 みんなの顔が遠ざかる。
 そして、異世界の扉が近づいてくる。
 ――本当に行くのか?
 最後に自分の中にいる別の俺が覚悟を確かめてきた。
「行くよ」
 返事をするように別れを告げた。
 みんなに背を向ける。
 目の前には虹色に輝くイスカ領域。
 間近でみると、まるで悪魔の手招きのように恐ろしく見える。
 そのとき、伊集院照子がふと隣に居る佐々倉想平を見た。
「おい、お前。暇そうだな」
「は?」
「お前、評価がほしいんだったよな」
「は? 評価?」
「どうせこのまま居ても、お前は反逆者で囚われの身だ。お前もちょっと行ってこいよ」
「はあ!?」
 伊集院照子が、強かに佐々倉想平の背中を押し出した。
 佐々倉想平はよろめきながら前に出る。
 みなが呆然と、よろめきながらイスカ領域に近づいていく佐々倉想平を見ていた。
 佐々倉想平は、慌てて近くに居た奏の腕を掴んだ。
 掴まれた奏は手を引かれ、佐々倉想平もろとも前のめりにつっぺした。
 つっぺした先。
 果たしてそこはイスカ領域。
「え?」
 その声は現世で発したものか、隔世で発したものか、はたまたハザマの世界、心的領域で発したものか、すでに奏自身にも分からない。
 ただ、佐々倉想平の「なぜだあああ!!」という絶望的な叫び声だけがいつまでも聞こえていた。
 
 
 
 琴は呆然とイスカ領域の向こう側に消えて行った奏と佐々倉想平を見つめていた。
「あんた、とんでもないことを……」
「別にいいじゃないか」
「奏は自分の意志で行ったけど、佐々倉さんはひどい」
「そうかなー」
 伊集院照子がとぼけている。
 いくら伊集院照子でも、心が痛んだはずだ。
 イスカ領域に吸い込まれる前の佐々倉想平のこの世の終わりのような顔。
 あの顔を見て、罪悪感を抱かないとしたら悪魔しか居ない。
「ま、これで厄介者も消えて、大人しくなったじゃないか。とりあえず一件落着」
 伊集院照子に集まった軽蔑の視線を気づかない振りをして、彼女は口笛を吹きながらイスカ領域から離れていった。
 父と琴と階は、ただ顔を見合わせて、本当に人の子なのか怪しい、怪物を目の当たりにしてしばし呆然とするしかなかったのである。

 

 そして、物語は現世より隔世へ――。

 

 【第一部 現世編(御札と戒具の章) 完了】


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