あっちから変なの出てきた

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第十章 【 イヨマンテの夜 】


 奏はモニター越しに目撃した。
 煌々と輝く虹色の光の中、人型のシルエット。
 まるで神の降臨のごとく、光の輪に包まれた「それ」はゆっくりと上空のイスカ領域から降り立った。
 光の翼をはためかせるように。
 思わず目を奪われた。
 これはひょっとして、人外の襲来などではなく、全知全能の神の降臨ではないのか。
 モニターから伝わる余りにもの神々しさに、奏はしばし茫然自失としたが、次には突然起こった事態に戸惑うこととなる。
 人外が降臨したのは黙祷が終わったわずか五秒後。
 そして、奏たちが待機する民家に予定外の集団が大声を撒き散らしながら押し入ってきたのは黙祷が終わって二十秒後の事だった。
 全てが夢の中の出来事のようだった。
 まず、民家の玄関がもの凄い音を立てて蹴破られる音がした。
 何事かと立ち上がる奏。
 黙祷を終えていた付き添いの術師たちも警戒した。
 玄関のほうから慌しい集団の足音。
 不穏な空気。
 奏は術師たちを見やる。
 術師たちもお互いを見やる。
 今度は奏たちのいる居間に、木材が破壊されるような音。
 音のほうを見ると、鍵の掛かった居間の扉を蹴破って集団が押し入ってくるところだった。
 集団は大声で何かをまくし立てる。
 動くな、大人しくしろ、そんな怒鳴り声。
 言われなくても、奏は硬直して動けない。何が起きたのか、訳も分からず呆然とするしかないのだ。
 入ってきた集団は見える限り五人。
 続いて居間から面した庭川の窓ガラスが割れる音。
 縁側だ。
 今度は窓ガラスを破られ、七人の集団が居間に押し入ってきた。
 一様に手にしているのは――戒具だ。
 術師ならば一目で分かる。
 居間に押し入ってきた二十人あまりの集団に囲まれる。
 付き添いの術師たちは突然のことに戸惑っていたが、一人の術師が背後から頭部を殴られ卒倒すると、術師たちは事態を瞬時に把握した。
 卒倒した術師を何度も足蹴にする集団。
 止めようとするものはいない。
 付き添いの術師たちは両手を上げ、無条件降伏状態。
 奏は呆然と立ちすくむ。
 奏の周囲にいる集団は術具を奏の鼻先に向ける。
 少しでも動けは――。
 足元で踞るユーナ。
 モニターを睨みつけながら、犬歯をむき出しにし続けるラナ・カン。
 頭を垂れて、祈り続ける伊集院照子。
 ――なんなんだ、この現状は。
 集団がまず、付き添いの術師たちを押さえ込んだ。
 恐怖で悲鳴を上げる術師たち。
 一体何者なのか。
 居間に押し入ってきた集団は、一様に同じ服装をしている。
 戦闘服。そう見えるが、あきらかに自衛隊や警官隊のものではない。
「あなた方を拘束します。大人しく付いてくれば危害を加えないことを約束しましょう」
 奏の正面に立っている誰かがそう言った。若い男であること以外、誰なのかは分からない。
 術師の一人が袋叩きに遭った場面を目撃している奏に抵抗する意志は無い。
 誰もが自分を失っている状況。
 駄目押しするような襲撃。
 目的は分からない。
 奏はただひたすら戸惑うばかり。
 自分の意志など微塵も関係なく、事態は進行する。
 奏は数人に肩と腕を掴まれる。
 酷く痛みを感じたが、訴えても無駄な気がして、口を噤んでいた。
 ラナ・カンは触れようとした大家貴信の術師に対し、酷い剣幕で威嚇した。
 瞬時に戦闘員は御札を取り出し、ラナ・カンの周囲に結界を張った。
 御札のランクは分からないが、今のラナ・カンならC級札でも拘束できる。
 同様にユーナにも結界が張られた。
 ユーナは床にひれ伏したままである。
 ナユタは同様に結界を張られたが、意識の無いナユタに抵抗の意志が無いことは明白だ。
 問題は伊集院照子。
 大家貴信の術師が伊集院照子を拘束しようと触れようとしたとき「触るな!」とヒステリックな声がした。
「三下無勢が私に触れるな」
 もう一度言うと、伊集院照子が立ち上がる。
 伊集院照子の情報は彼らにも伝わっているのか、周囲に居た術師たちが警戒して距離を置く。
「人類が敗北しようとしているときに、まだ人間は内輪でもめようとしているのか。愚か過ぎる。こんな種族など、滅んで当たり前か」
 いつもの伊集院照子に見えた。
 奏は大家貴信の術師たちに拘束されながら伊集院照子を見る。
 伊集院照子は自分以外の人間を虫けらだとでも言わんばかりの冷ややかな視線で周囲を見渡す。
「まず自己紹介してもらおうか。無礼に私に触れるつもりなら、ここにいる人間全てに苦汁を舐めさせるくらいのことは出来るぞ」
「我々の情報では、目覚めたばかりのあなたに抵抗する力は無いと」
「ならばやってみるがいい。いずれにしろ、言うことを訊かなければ力ずくのつもりなのだろう」
「手荒なマネはしたくありません」
 リーダ格なのだろうか。先ほどから口を開くのは若い男一人のみである。
 その他は「動くな」「大人しくしろ」「抵抗するな」などしか発しない。
「断っておくが、私は力には屈しない。物々しく踏み入ってきおって。無礼にもほどがある。貴様らが何者であろうと、この先、私を利用しようとしているのなら諦めろ。愚か者には手を貸さん」
「結構です。我々はあなたの助力が欲しいわけではない。ただ、事が終わるまで大人しくしていただければそれで」
 奏はピンと来た。
 これが伊集院照子のやり口であるのだ。
 傲慢な態度を取りながら、相手の感情を揺さぶって、情報を聞き出そうとする。
「大人しくなどするつもりはないと伝えただろう。お前らの力など高が知れている。私を誰だと思ってる?」
「明治の英雄、伊集院照子様と認識しています」
「現代に私の事がどう伝わっているが知らないが、この暴挙。お前らは私のことを知らないに等しい」
「確かに存じ上げません。あなたにまつわる数々の伝承。あれが真実だとすれば、あなたは化け物だ」
 伊集院照子の伝説。
 後述することもあるかもしれないが、確かに「暴れっぷり」に関しては日本史上最強であるかもしれない。
 伊集院照子は腰に手を当てると、あからさまに高飛車な素振りで怒鳴り散らした。
「私も現在の私に関する伝承は知らないが、お前らがのこのここの私を拘束にし来るところを見ると、伝承は極めて控えめに伝わったらしい」
「あなたが従来の力を持っていたら、それなりに準備してきたでしょう。ですが、抵抗なさるのならやり方があります」
 どんなやり方だ? などと訊くのは愚の骨頂。
 伊集院照子は一笑に付すと、猫の轢死体でも見やるような卑下した視線を目の前の男に向ける。
「ばかばかしくて笑えてくるね。私を拘束できるのはこの世で私自身くらいなもの。くだらぬはったりを嚼ましたものだな。それだけ私を恐れているということか」
 男は「ふふ」と笑って見せた。
 奏は静かに動向を注目する。
「もう良いです。今からあなたを拘束しますが、本当に私どもを駆逐する力を持っているかどうか、試してみましょう」
「困ったら力に頼るのはいい考えだとはいえないな。私が英雄であったのは、安易に力に頼らなかったからと言える。お前のせいではないな。お前に指示を出している人間の頭の悪さだな。私を拘束するのに、お前はなんと指示を受けた?」
「あなたには関係ない」
 伊集院照子は突然ヒステリックに高笑いした。
「言うに事欠いて、関係ないか! お前は自分が、この私より位が高いとでも!? お前は一体この世界にどれほど貢献した? 一体、何人の命を救った? その逆でも良い。お前は一体、何人の人間を殺して見せた?」
「もうおしゃべりの時間は終わりだ」
 男が指示を出し、伊集院照子を拘束する行動に出るタイミングは幾つもあった。だが、伊集院照子がそうさせない。
「私を拘束したいのなら、それなりの交渉役を用意すべきだったな。お前に出来るのはお上の命令どおり、忠実な犬になって尻尾を振るくらいなものだろう」
 見せた。
 男は苛立った表情を見せた。
 男は反論しようと唇を動かそうとしたが、集団の背後から「もうやめなさい」声が上がったため、男は口を噤む。
 悔しそうな顔をしたのは伊集院照子のほうで「ちっ」と舌打ちが聞こえてきそうだった。
 集団の背後から姿を見せたのは女性だった。
 それも、見たことのある……。
「彼女の術中にはまらないで。あなたは命令どおり彼女を拘束すればいいの」
 川本クリスティーヌだ。
 奏は目を見張る。
 川本クリスティーヌが出てきたということは、この急襲してきた集団は大家貴信の手のものということだ。
 川本クリスティーヌが姿を見せるや否や、リーダ格の男は一歩下がって頭を垂れる。上下関係は明白で、集団のリーダは川本クリスティーヌのようである。
「なるほど、お前か」
「昨日はどうも。今日はあなたを拘束に来ました」
「どうやらそうらしいな。しかし一度敗北した人間がのこのこまた姿を現すとは。また苦汁を舐めたいのか?」
「あなたを拘束するのは一度手合わせた私だから可能なのですよ。確かに悔しくて気が狂いそうでしたが」
「それで? お前が私を拘束すると?」
「はい」
 伊集院照子は再び怪しく笑い出そうとしたが、次には口を噤み、真顔で川本クリスティーヌを見た。
 微笑をたたえているのは川本クリスティーヌのほうだった。
「私はあなたと一度手合わせた。それから、鳴音奏さんの作り出した対人間用の結界を目撃した。ああ、そういう発想もあるんだな、と感動とともに納得もしたのです」
「なるほど。すでに私は拘束されていたのか」
「ええ。私が姿を現す前に、すでに」
 奏は不可解に思った。
 すでに拘束したとは一体どういう意味だろう。
「対人間用の結界。あなたの周囲に張りました。これで情力無効の力も結界の外にいる我々には通じません。もちろん、他の力もです。しかもあなたはそこから一歩も動けない」
「なるほどね。しかし、裏を返せば我々をこの場所から動かせないのでは?」
「それでいいのです」
 川本クリスティーヌは美しく微笑むと、甲高い声で周囲の術師たちに指示を送った。
「居間に設置された機材を全て停止。予定通り、本来送られるはずの定例報告を代理で本部に送って。絶対に彼らを拘束したことを外に知られては駄目。最低でも戦闘が終わるまで、彼らを拘束し続けます」
 川本クリスティーヌの指示に、一斉に動き出す術師たち。
 川本クリスティーヌが奏を見た。
「奏さん、あなたからは本当に沢山のことを学びました。おかげでこうしてあなたたちにを拘束できそうです。抵抗しなければ危害を加えませんので、大人しくソファーにでも腰掛けてゆっくりしていてください」
 皮肉に聞こえた。
 対人間用の術は奏だけの専売特許のようなものだったが、早々にその特権は奪われたようだ。
 言われたとおり術師に指示され、伊集院照子と同じ結界内に放り込まれるとソファーに腰掛ける。
 隣では諦めたのか、伊集院照子もソファーに腰掛けている。
「全く、これで人類は本当の終わりを迎えたな」
 伊集院照子のつぶやき。
 奏はラナ・カンとユーナの様子を見る。相変わらずだ。ラナ・カンはどうしてしまったのか。どうしてただの獣に戻ってしまったかのように唸り続けているのか。
「ラナ・カンは自分を見失っているのさ。理性はあると言っても、そこは獣の類だってことだ」
「ユーナは?」
「知らん」
 斬って落とされる。
「伊集院さんはもう大丈夫なんですか?」
「大丈夫もクソも無い。見ろ」
 伊集院照子が手のひらを奏に向ける。
 その手はまるで別れを告げるように左右に小刻みに震えている。
「恐ろしくて溜まらん。震えが止められない」
 奏は呆然とする。
 その動揺の中で、大家貴信の術師集団相手の立ち回り。
「伊集院さん、落ち着いて見えます。本当にそんなすごい人外が来たんですか?」
「ああ。人間の術師ぶせいが束になっても一蹴されるだろうな」
「負けるってことですか?」
「間違いなくな」
「そんな。勝てる方法は無いんですか?」
「未曾有の人外危機に、身内で争ってるくらいだ。絶望的だな。私はもう諦めた。奏も覚悟しろ。今この瞬間から、この場所から世界の終焉が始まる。まだ、現実感が無いだろうがな。少しは人間も抵抗するだろうが、人間界でも戦力の明白な戦争同様、負ける側が蹂躙されて終わる。もっとも、私は人間側が自爆行為に走って自滅すると憶測するが」
「自滅って?」
「核だろう? 人間の最後の砦は。無駄だと分かっていても人間は使用するだろう」
 頭の中で、何かが崩れ去るような音を聞きながら伊集院照子を見る。
「そんな顔をするな、と言うほうが無理か。まあ、期待するほうが楽ならそうすればいい。放射能がどれほど人外に影響を与えるのかは未知数だが、被害をこうむるのは人類だけだろうな」
 坦々と語る伊集院照子。
 言うとおり、現実味が無い。
 伊集院照子の緊張感の無さか。
 平和ボケしている奏の脳みそが働いていないだけか。
 どんな悲劇が起こる?
 テレビや映画で見るのと同様な惨劇が起こる?
 そんなまさか。
「まあそれより目の前の問題。川本クリスティーヌの作り出したこの結界、見事と言わざるを得ないな。脱出できそうにないし、出来たとしても、この民家から逃げ出せそうに無いな」
 伊集院照子がこんな弱気なことを言うなんて。
 諦めている、と言う言葉は本当なのだろう。
 全力で逃げ出しても無駄。
 そう言っている。
 奏は必死に考えた。
 いま、イスカ領域は開いたのだろうか。
 モニターは電源を落とされ、情報は断絶され、なにも分からない。
 人類が負ける?
 蹂躙される?
 隔世では二ツ目は奴隷らしい。
 明日の命をも分からない奴隷。
 人類は隔世からの来訪者に奴隷にされる運命なのか。
 家族が。
 兄弟が。
 友達が。
 そんなの……。
 奏はそれとなく周囲を観察する。
 結界を張られて逃げ出せないと安心しているのか、すぐ傍に監視はいない。
「伊集院さん、この結界、出れるとしたらまだ希望はありますか?」
 小声で伝える。伊集院照子以外に誰にも訊かれないほどの。
 伊集院照子はゆっくりと奏を見やったあと、再び正面を向く。
「結界を出れたとしてもなにも変わらん」
「もし、今人類が負けても、いつか逆転できるかもしれない。その可能性は?」
「ないな。こちらから隔世にわたる術があれば作戦の立てようもあるが」
「じゃあ、わたる方法があればいいんですね」
 伊集院照子が再び奏を睨みつけた。
「あるというのか?」
 奏は首を横に振る。そんなもの、あるわけが無い。
「方法は無いですけど、可能性が無いって諦めるより、少しでも可能性を模索すれば、きっと何かアイデアが生まれるかも」
「いいだろう。たとえば、この結界を脱出する方法。自分を失っているラナ・カンとユーナとナユタを連れて脱出する方法。脱出できたとしても集団から逃れる方法。逃れられたとしても絶望的な人外襲来の中、ユーナとナユタ、ラナ・カンを隔世に戻す方法。戻してから私たちが生き延びる方法。全てを解決し、上手くいく方法を少なくとも三十分で考え出し、実行に移す。出来るものならやってみよう」
 皮肉がこもっている。
 奏は挫けそうになるのを必死に堪えて訴える。
「結界は出れます」
「出れるのか?」
「結界なんて欠点だらけなんです。結界は出れるので、他の方法を一緒に考えてください」
 伊集院照子は口を尖らすと、ひとつ鼻で深呼吸した。
「いいだろう。結界が破れるのなら集団から逃げ切るのは可能だ。見る限り、平和主義の日本国よろしく、重火器の類は用意できていないないらしい。術師が繰り出す情力、戒力なら私が無効に出来るだろう」
「じゃあ、ユーナとナユタ、ラナ・カンの結界は解除できる。あとは連れ出す方法……」
「私は大丈夫です」
 ユーナが返事をした。
 みると、ユーナが身体を起こしている。
「ユーナ……」
「すみませんでした。もう大丈夫です。歩けます」
「でも……」
「大丈夫です」
 ユーナの瞳に力がこもっている。
 確かに気力が充実しているように見える。
 ならば、さっきのは一体なんだったのか。
 猜疑心を拭えない。
 ユーナの傍にはナユタがいる。その傍には自分を見失っているラナ・カンも。
 ユーナたちを覆っている結界は、伊集院照子が情力無効の力を発揮すれば解除される。
「ラナ・カンは俺が抱きかかえて連れて行きます。三人を隔世に戻す方法ですが……」
「それについては、不確定要素が多すぎる。情報を遮断されている以上、行ってみなければ現状は分からない」
 イスカ領域に近づいてみて判断する。それ以降の作戦はその場で考えるということか。
「いいか、奏。覚悟は出来ているのか?」
 覚悟。
 それは死ぬ覚悟。
 死んでしまってもいいのか。
 自分が失われてしまってもいいのか。
 忘れたい。
 目を背けたい。
 アニメのような、主人公に都合の良い物語が用意されていると信じたい。
 自分の死はない。
 そう約束されていると――。
「よし、お前の無謀な作戦に乗ろうじゃないか。このままでいても、行動を起こしても、どうせ死ぬ。そう思え」
 そんなことを思っても、気は楽にならない。そう反論しようと思ったがやめた。
「ところで、どうやって結界を出る?」
「結界を出るのは伊集院さんだけです」
 奏はそう言って、首から提げていたネックレスを伊集院に手渡す。
「なんだこれは」
「人間の情力や戒力を封じる対人間用の御札です」
「まさか。なんで……なんの為にこんなものを持っている?」
「俺は対人間用の御札を何度も使ってきました。それは情力に反応するもので、俺自身が使おうとすると自爆行為です。だから自分の力を封じる必要があったんです」
「いつも身に付けていたと?」
「大抵は。御札が発動しない程度に弱めてあります。通力の高い伊集院さんが身に付けると、少し苦しいかもしれません」
「お前は苦しくないのか?」
「もともと俺は情力が少ないですから。苦しさも初めてネクタイを締めるくらいものです。最初は息苦しかったですが、最近はもう慣れました」
 伊集院照子が奏を睨みつけている。
 なにが不満なのか。
「お前はどうやって対人間用の御札など作り出した? どこからか古い文献でも探し出したのか?」
「いえ……それが」
「情力や戒力が視覚的に見ることが出来る。そういうことだな」
「はい……」
 ふう、と伊集院照子が溜息を漏らす。
「どうやら、覚悟が足りなかったのは私のほうのようだ」
 伊集院照子の言葉。
「まあ、同情してくれとは言わないが、私も再び目を覚ましてからめまぐるしく変動する現状に、多少うんざりしている。正直に言えば少し疲れた。心が投げ出してしまっていたようだ。理解してくれ」
 奏はなにも答えなかった。
 なにも言わない事が得策に思えた。
 伊集院照子も人間。
 それも若い。
 手の震えや顔色だって、まだ回復していない。
「脱走の相談かしら」
 突然、川本クリスティーヌに声をかけられた。モニターのあった箇所に立っている。
 気配に気づかなかった奏は尻が浮くほど驚いたが、伊集院照子は眉ひとつ動かさなかった。
「あら、図星だったかしら」
「ずいぶん余裕を振りまいてくれるじゃないか」
「ええ。あなたは無理だと判断すれば、あっさり諦めるような方だとお見受けしたものですから。この結界は破れない。そうでしょう?」
「力が万全なら、こんな結界など蹴散らしてやる」
「万全なら、私は勝てないでしょう。でも、勝負に体調や状況は関係ない」
「へえ、これが勝負だったとは初耳だ」
 奏の動揺で悟られそうになった作戦を、伊集院照子が上手く受け流している。
 奏は思考をめぐらす。
 口を開く伊集院照子、川本クリスティーヌを見ながらも、ユーナたちをどうやって隔世に戻すのか。
 経験したことの無い現状だが、出来る限りの想像はめぐらせておく。
 拙い準備である。
 でも、想像することで奏は今までのピンチを乗り越えてきた。
 他にすがるものがない。
 溺れる者が掴んだのが藁であろうと、両腕いっぱいの藁ならば浮き輪代わりになるだろう。
「さあ、負けを認めて。伝説の英雄様」
「負け?」
「あなたはこの通り、私の結界に捕まって身動きが取れない。私に勝つ方法があるとすれば結界を脱出して、逃げ出すこと。今、そのことを話していたんでしょう?」
 やはり見破られている。
「さあ、やってみて。結界を壊し、この家から見事逃げ出して見せて。もちろん、あなたの力で」
 かちん、と伊集院照子から音が聞こえてきた。
 伊集院照子を見ると、不安が的中した。
 伊集院照子が歯軋りしながら獣のような笑みを浮かべている。
「頭にきた」
 伊集院照子はそう言うと、首に掛けている奏の渡したネックレスを取り外し、それを川本クリスティーヌに投げて渡した。
 川本クリスティーヌは足元に落ちたネックレス形の御札を見る。
 拾い上げたりはしない。どんなトラップが仕掛けられているか分からないからだ。
「そうだ。お前の言うとおり、その情力を抑制する御札で一時的に力を抑え、結界を脱出しようとしたのさ。手に取っても問題ない。発動してはいるが、大して力の無い御札だ」
 なにを血迷ったのか、せっかくの作戦を台無しにしてくれた。奏は溜息を漏らしてうな垂れた。
 川本クリスティーヌは御札を拾い上げると「なるほど、嘘は言ってない様ね」とまじまじと御札をみる。
「これは奏の提案だ。だから脱出できたとしても奏のおかげ。それじゃ我慢ならん。お前に敗北という苦渋はもとより、更に屈辱的な思いをさせて再起不能にしてやる」
 恐い。
 奏は素直にそう思ったが、果たして他に作戦があるのか。
 川本クリスティーヌは「やれるものならやってみて」と斜に構えて伊集院照子を見下している。
 女同士の戦い。
 恐い。
「お前は三つのミスを犯した」
 伊集院照子は猛々しい目で川本クリスティーヌを睨みつけながら、三本の指を立てる。
「へえ、ぜひ教えていただきたいわ」
「請われなくとも教えてやる。お前の悲しくなるほどの愚かさその1。それはお前が姿を現したこと。我々にはお前らの正体が最初、分からなかった。不確定要素は作戦を立てるためには大きな足枷となるが、お前が姿を現したことで、この集団が大家貴信のお抱えであると我々に気づかれてしまった」
「大した問題じゃないわ」
 伊集院照子は川本クリスティーヌの言葉を無視して「お前の同情すら覚える軽率さその2」と言って、薬指を負って二本指を立てる。
「前にも言ったが、私の口車にまんまと乗せられて、通常の拘束手段を放棄して、早々に奥の手の結界にて私を拘束した。何度も言うが、人間相手に動きを止めるには、拳銃ひとつで事足りる。だが、拳銃を用意できなかったお前らは、恐らくこれ以上の手はないと確信している」
 川本クリスティーヌは答えなかった。
 図星だったからなのか、余裕からなのか。奏には分からない。
「お前の絶望的な救いようの無い阿呆振りその3。お前は私のことを知っているつもりでいるが、その実はなにも知らないに等しい。私が明治の英雄だと知っていながら、どうして現代に生きているのか。それを考えなかった事がお前の敗因だ」
「敗因? そう言ったように聞こえたけど?」
「頭の悪さに拍車を掛け、言葉も理解できんらしい。いいか、私はお前に一度、能力を見せただろう。私は力を封じることに長けた術師だ。これまでもお前に沢山のヒントを与えたな? まだ気づかないか?」
 川本クリスティーヌが若干目を見開いた。
 ――気づいた?
 だが遅かった。
 伊集院照子は獲物に取り付く猫のようなすばやさで、川本クリスティーヌの胸倉を掴んでいた。
「お前の愚鈍さオマケだ。お前の一番の失敗は、この私にケンカを売ったこと」
 川本クリスティーヌの表情が凍りついた。
「な、なんで!?」
 周囲が異変に気づき、駆け寄ってくるよりも早く、伊集院照子は掴んだ胸倉を思い切り引き込んだ。
 伊集院照子に抱きかかえられる形で、川本クリスティーヌが飛び込んできた。
 ――結界の中へ。
「動くな!」
 伊集院照子の一喝で、異変に気づいているもの、気づいていないもの全員の動きが凍りついた。
 伊集院照子は川本クリスティーヌの首に腕を回している。
 凶器は手にしていないが、相手は伝説の英雄。人一人殺すことなど造作も無いように思える。
 誰もが動きを止めた。
 伊集院照子の効力解除の力で、すでに川本クリスティーヌが作り出した結界は解除されている。
「悪かったな、奏。せっかくの作戦を無駄にしてしまって」
 そう言った伊集院照子に詫びれている様子は一切ない。
 相手の集団も動けないが、自分たちも動けない。
「いくら力の弱まっている私でも、腕一本くらいは情力を抑え、結界の外に出すことは造作もないこと」
 まるで恋人のように、川本クリスティーヌの耳元で囁いた。
 川本クリスティーヌは歯軋りしながら顔をそむける。
 奏は呆然と見ているしかない。
「さて、結界は解除した。奏、お前は人外どもを連れて、先に行け。とりあえず、誰にも見つかるな。誰がこいつらの仲間か分からないからな」
「い、伊集院さんは?」
「私は残る。お前らだけで行け」
「でも……」
「私は戦前で戦うより、後方で支援するほうが向いている。あんな瘴気を発する人外などに近づきたくも無いしな」
 奏は戸惑う。
 ひとり伊集院照子を残し自分たちだけ脱出するなんて。
「いいから行け。正直に言えば、こいつらが私たちを拘束したがっていた理由を知りたいだけだ。お前らと一緒に行っても、なにも分からず戸惑うだけだ。無線機を持っていけ。分かったことは無線で知らせてやる」
 傍に居た囚われの術師が無線機を手渡してきた。受け取るが、戸惑いは拭えない。
 ユーナがナユタを抱えて立ち上がった。
「奏さん、行きましょう」
「でも……」
「私とラナ・カンが隔世に戻れば、こっちの世界の役に立てるかもしれない。私は私の出来ることをやります。だから、奏さんも」
 行くしかないのか。
 奏は気が立っているラナ・カンを抱え込んだ。腕や胸を引っかかれ、噛みつかれる。
「すみません、伊集院さん。行きます」
「行け。私に構うな」
 伊集院照子は川本クリスティーヌを抱えたまま、玄関先まで付き添った。
「言わなくても分かるが、奏たちを追うなよ」
 周囲の人間に釘を刺す。
「奏、走れ。そして、目的地まで絶対に立ち止まるな。誰に声をかけられても絶対に立ち止まらず、振り返らず、イスカ領域を目指せ」
「はい」
 暴れまわるラナ・カンを抱え込みながら、ナユタを抱えるユーナに目で合図を送る。
 ユーナが頷いたとき、伊集院照子の「走れ!」という甲高い声がスタートの合図となった。
 奏はなりふり構わず駆け出したのだった。
 
 
 
 イスカ領域を、距離にして半径百メートルを囲むように配備された術師、自衛隊員、警官隊は目撃していた。
 光である。
 イスカ領域を目視できない人間たちは、虹色ではなく、ただ真っ白な光を目撃した。
 その光は、春の太陽に照らされた一輪の花のようであり、女神の微笑みのようでもあった。
 思わずひれ伏してしまうかのような神々しさ。だが、吹き荒れてくるのは禍々しい瘴気。
 父からの全体周知の無線がイヤホンから聞こえてくる。
「油断するな。身構えて置け」
 自衛官たちが銃を構え、術師たちは新型戒具を手に持った。上空では無数のヘリが飛び交っている。
 各部隊のリーダの指示があちこちから聞こえてくる。
 モチベーションは低くない。
 一時の絶望的な雰囲気からすれば、奇跡的な立ち直りといえる。
 不意に、光がやんだ。
 中央に光が集束され、純白の花がつぼみに戻った。
 イスカ領域が閉じた?
 いや、軽率な判断はするな。
 自分にはイスカ領域を目視できない以上、最悪を常に考えろ。
 弦は自分を叱咤する。
 光が急速に閉じたせいで、視界には黒い残像が残った。
 視界を遮っている。
 ――肝心なときに!
 こんなことなら、見惚れず光を直視しないような方法が取れたはずだ。
 投光器で昼間のように明るいと思っていた周囲は、更に強い光が目を焼いて、酷く暗く感じた。
 人外は降り立った?
「弦、よく見ろ」
 父親の声。
 弦はイスカ領域に降り立った人外を見た。
「一体?」
「ああ。一体だ」
 あれほどの瘴気を放っておいて、現れたのは一体?
 この瘴気はたった一体の人外から……。
 絶望に底があるとすれば、弦は混沌たる絶望の底を覗き見た気分だった。
 無線機から、状況を知らせよと本部からの連絡が入る。
 父親が逐一報告している横で、弦は双眼鏡を覗き込んだ。目に焼きついた残像が目障りで仕方が無い。
 よく姿が見えない。
 本当にたった一体なのか。
「人型の人外が一体。身長、体格は人間のそれと変わりなし。武器を持っている様子もなし。ですが、断定は出来ません」
 父が本部に報告をしている通りの風貌。
 人型の人外。
 イスカ領域に降り立ったのはたった一体の人外。
 今、ただ立ちすくんでいる。
 存在するだけで押し流されてしまいそうな瘴気。
 瘴気を遮断する御札を身に付けていなければ、瘴気に気圧され後退していてもおかしくない。
 上空を飛び交うヘリの騒音。
 人外に向かって照らされるサーチライトの無数の光線。
 視界が回復してくる。
 再び双眼鏡を覗く。
「男……」
 思わずつぶやく。
「弦、もっと様子を伝えろ」
 父に命ぜられるがまま、双眼鏡越しに見える人外の様子を伝える。
「未だ動きません。私から見えるのは横顔です。人間で言うところの男性の風貌。白髪、でしょうか。白、あるいは銀色の長髪。服装はまるで中世ヨーロッパの貴族のような装飾の入った衣服を身に着けています」
「それ以外の異変は? 本当に一体か?」
「はい。そう見えます。人外に一番近いのは我々です。もっと詳細に知るには偵察隊をだして近づくしかありません」
「いや……」
 緑眼の獅子はふと何かに気づいたように、口元に手を当てた。
 何か思案している。
 すると、思い至ったかのように顔を起こすと、無線機で指示を送った。
「本部。上空のヘリに離れるよう指示を出してくれないか? 十分でいい。青空公園の上空から離れて、待機してくれ」
 無線から、なぜそうするのか、質問が飛んできたが、それに答える前に、父は弦に別の指示を送った。
「自衛隊が集音器材を持っていたはずだ。部隊を組んで、五分で用意してくれ」
「五分で? そんな無茶な」
「準備はしてある。呼んでくれるだけでいい。ある可能性について、念のため準備しておいた。まさか、役に立つとは思えなかったが、あるいは……」
 何か考えがある?
 弦は英雄を信じることにし、直ちに準備を始めた。
 準備が終わったのは七分弱。その間、人外は立ち尽くしたまま動きは無かった。
 人外だって取り囲まれていることは分かっているはず。
 だが、現れてから十分以上、置物のように立ち尽くしたまま微動だにしない。
 なにを企んでいる?
 先陣部隊なのだろうか。
 どんな攻撃をしてくるか、イスカ領域の向こう側からこっそりこちらの様子を覗いているのかもしれない。
 上空からヘリがいなくなると、周囲は静寂に包まれた。
 無音ではない。
 自然管理委員会や自衛隊たちが使用する各数の機器からは電子音や冷却装置のファンの音、投光器から発せられるチリチリという音が聞こえる。
 だが、継続的な音の連続は妙に静けさを強調するものだ。
 膠着が続く。
 人外降臨から二十分が経った。
 午前零時を知らせる、誰かの腕時計のアラームが聞こえてきたとき、用意していた集音部隊から声が上がった。
 弦と父が呼ばれる。
「人外がなにか話しているようです」
 そう言われ、ヘッドホンを手渡された。
 耳にあてがうと、確かに集音マイクが拾った音声が聞こえてきた。
 ――我々は話し合いに来た。私はその代表としてやってきた。其方も代表者を立て、会談を要求する。もう一度言う。我々は話し合いに来た。私はその代表として――。
 父と弦は顔を見合わせた。
 父は自衛官の技師に「この受信を、本部にも繋げられるか?」と訊ねる。
 出来るようだ。技師は回線を本部に繋げると、受信した音声を本部でも聞くように父が無線で連絡した。
 ヘッドホンから別の言葉が聞こえてきた。
 ――あなた方の代表が姿を見せない場合、今から五分後に、我々がここにやってきて、話し合いに至った経緯を話す。あるいは私を攻撃してきた場合、時空の裂け目から私の仲間がやってきて、戦闘となることは否めないだろう。我々は和平を望む。
「室長、本当でしょうか」
 弦の疑問に父親は頭を振る。
「分からん。日本語を喋っているのも気になるな。しかし、選択肢は無い」
 本部から無線が入る。
 代表を立て、人外との交渉を行えとの指示が下った。
 本部も和平の道を模索できるなら、最良と言うわけだ。
 しかし、一体どういうことだ。
 人外は現世へ襲撃に来るのではなかったのか。
 ユーナという人外に一杯喰わされた?
 それとも、これは罠?
「交渉の代表として、私が行こう」
「いや、しかし、まだやつの言ってる事が本当だとは……」
「罠だとしても、動かなければ進展しない。あれだけの瘴気を持ちながら、襲撃してこないのはなにか理由があるのだろう」
「相手もこちらの情報はなにも知らないはずです。慎重になっているだけでは? こちらに力がないと気づかれたら最後です」
「心配するな。それより用意して欲しいものがある。お前には用ばかり頼んで悪いが……」
「構いません。それより本当に室長が行くおつもりですか? 他の誰かだって良いでしょう。どこかにネゴシエートの専門家がいるはずです」
「専門家がいるとしても、これが俺の仕事だ。俺が心配か?」
 弦は答えない。
 人間側にとって、万が一の伝説の英雄の喪失は敗北に等しい。
 それを危惧している。
 そう言おうと思ったが伝えられなかった。
 ――父親を心配しない息子がどこにいる。
「室長、用意するものとは?」
「二つある。すぐに用意して欲しい」
 弦は覚悟を決めた。
 死なば諸共の状況。
 所詮、誰にも先は予想できない。
 やってみるしかないのだ。
 
 
 
 奏は走る。
 あとについてくるユーナ。
 言葉は無い。
 勝手知ったる自分の生まれた土地。
 見慣れた風景。
 住宅街。
 ここが失われる。
 そんなのは我慢ならない。
 救いは住人の避難が済んでいるという事。
 ただの術師としてのデビューだったはず。
 術師の仕事をひとつもこなせずにこんなことになるなんて。
 多少奇妙であるものの、日常であったはずの生活。
 なんでこんなことになったのか。
 その混乱の根源に一役買ってしまっているのだろうか。
 公園が見えてくる。
 公園周囲、および公園内はいたる処に投光器が焚かれ、深夜であるにもかかわらず明るい。
 周囲に自衛隊、術師が見えてくる。
 みんな奏を知っている。
 ユーナやナユタ、ラナ・カンの存在も知らされているはずだ。
 公園の入り口が見えた。
 しかし、出入り口は術師や自衛隊員によってバリケード封鎖されている。
 奏は立ち止まる。
 術師や自衛隊員がこちらを見ている。
 事情を話せば協力してくれるかもしれない。
 しかし、伊集院照子の言葉。
 誰も信用するな。
 どこに大家貴信の腹心が潜んでいるか分からない。
 奏は逡巡した結果、ひとまず引き返すことにした。
「ユーナ、公園の正規の出入り口からは入れない。別の道を捜そう」
 ユーナは神妙にうなづく。
 奏たちがバリケードを見て引き返したのを目撃した術師や自衛隊員が怪しんで追跡してくるかもしれない。
 奏は公園の周囲を取り囲む森の中に入った。
 森の中には人員は配備されていないようである。同時に光源も無い。
「足元の気をつけて、ユーナ。俺のあとについてきて」
 勝手知ったる生まれた土地。
 この森にも詳しい。
 あるいは人目を避けて公園内に入り込めるかもしれない。
 暗闇の森を歩く。
 公園の方角は上空を含め、仄かに明るい。
「そういえば、飛び交っていたヘリはどうしたんだろう」
 ふと疑問に思う。
 それだけではない。
 人外が現れたのは三十分も前のことである。
 戦いが起こっているような気配は無く、とても静かである。
 一ツ目レベルの人外が出現すれば、当然大騒ぎになるはずなのに。
「どういうことだと思う、ユーナ。牽制しあってるのか」
「分かりません。とにかく先を急ぎましょう。静かなら、今の内じゃないですか」
 ユーナに諭された。
 積極的なユーナ。
 隔世に帰れることが現実味を帯びてから、ユーナは協力的になった。
「分かった。俺についてきて」
 森を進む。
 この調子で行くと、あと数分で公園内に立ち入れる。
 そう思ったときだった。
 確かに、すんなり逃げ出せるとは思っていなかった。
 町を駆け抜ける奏たちを目撃した大家貴信の腹心が異変を察知していてもおかしくなかった。
 奏の進行方向。
 暗闇の中に、仄かに発光する物体が見えた。
 まるで蛍光塗料のように淡くぼやけた光。
 紫色の直線。
 ――気づく。
「ユーナ、止まって」
 気づいていなかったユーナに手を伸ばし、足を止める。
 来た。
「藪北ファミリーだ」
 ざし、ざし、と枯葉を踏みしめる音が近づいてくる。
 紫色の淡い光以外に容姿は暗闇に紛れている。
 あれは、俵原孝司か。
 一人だろうか。
 たとえ一人であっても、今の奏に御札の装備はひとつも無い。
「隠れて」
 まだ気づかれていないのか。
 奏たちは茂みに身を潜める。
 近づいてくる足音。
 こちらの存在に気づいている?
 こんな森も一人でいるくらいである。
 奏たちを待っていたのだろうか。
 今の奏の装備。御札ひとつ持っていない。鉢合ったらひとたまりも無い。
 しかも相手は恐らく、人外殺しはもとより、人殺しに対しても抵抗の無い人間……。
 十メートルあまり。
 相手が声を出す。
「あの女はいないのか?」
 暗闇の向こう側から漂って来た静かな声は、確かに俵原孝司の声。
 やはりこちらに気づかれていたか。
「人外は暗闇で目立つからな。居場所は分かってる。いいから出て来い」
 奏は額に溜まった汗を拭う。
 俵原孝司に対して、出し抜いて逃げる算段はまるで無い。
 言うとおりにするしかない。
「ユーナ、そこにいて」
 そう言うと、ユーナが奏の腕を掴んだ。
「奏さん、駄目です」
「でも、逃げたって逃げ切れる相手じゃない」
「私、奏さんに話さなくちゃいけないことが……」
「話さなくちゃいけないこと?」
 ユーナは必死な表情で頷いてみせる。
 話って、こんなときに?
「分かったよ。絶対に切り抜けるから、ちょっとここで待ってて」
「絶対ですか?」
 ユーナは奏の腕を離さない。
 どうしたのか。
「絶対。ユーナを隔世に戻すまではなにが何でも切り抜ける」
 ユーナは不安そうにしていたが、腕から手を離した。
 どうしたんだろう。
 やはり、人外が降臨してからユーナの様子はおかしい。
 しかし、それを考えるより直面している問題がある。
 正直、切り抜ける算段まどまるでない。
 どうしたらいい。
 奏はユーナを残し、ラナ・カンは抱えたまま、茂みから身を乗り出した。
「なんの用だよ」
 俵原孝司の前に立ち、声をかけた。
 俵原孝司はユーナの存在に気づいているのだろうか。
 最悪、ユーナだけ逃がすことは出来るだろうか。
「なんの用だとはご挨拶だな。お前を見かけて追いかけてきたのさ。俺がお前らに用が無いとでも思ってるのか?」
 無いわけがない。
 だが、俵原孝司は有無を言わさずこちらを襲ってくるつもりはないらしい。
 ジリ貧かもしれないが、会話で時間を稼ぎ、何らかの好機を待つ作戦しかない。
 時間を稼ぎ、幸運が訪れる保証など微塵もないが。
「伊集院照子はいないのか?」
「いない。俺だけだ」
「お前だけ? あと人外三匹いるだろうが」
 やはり、全てを知っていて現れたのだ。民家に押し入ってきた川本クリスティーヌから逃れてやってきたことも知っているのだろう。
 奏は次に紡ぎだす言葉を考える。
 伊集院照子ほど饒舌ではないし、奏自身がそれほど饒舌ではない。
 この状況を回避する言葉など、思いつきやしない。
 ここで諦めるのか。
 ユーナやナユタ、ラナ・カンが故郷に帰ることの出来る異世界の扉は目前だと言うのに。
「……行かせてくれないか」
「行かせる? どこに?」
 俵原孝司はすでに新型戒具の力を発動している。
 攻撃の意志が明白だ。
「お前を見逃して、俺に何の得があるのか教えてくれ」
 なんの得があるのか。
 そんなもの何もない。
 人間としての良心。
 そんなもの、目の前の男には一番期待してはいけないものだ。
 どうする。
 ここで終わるのか。
 こんな暗闇の森で。
「奏さん」
 背後でユーナの声がした。
 振り返らず「黙ってて」と答えたが、それでもユーナは「奏さん」と繰り返し呼ぶ。
 奏は前方の俵原孝司に油断せず、少しだけ振り返る。
「なにか……近寄ってきます」
「近寄ってくる? なにが……」
 俵原孝司から視線をはずせない。
 そのとき、確かに背後から足音が聞こえてきた。
 今度は誰だ。
 敵か、味方か。
 会話で時間を引き延ばしたのは功を奏したのか、無意味だったのか。
 奏は振り返る。
 背後から近づいてきた暗影。
 不意に声を上げる。
「新型戒具は初めて使うけど、こりゃすごいな」
 場違いに戯けた口調で歩いてきたのは、訊いたことのある声の持ち主。
「何でこんなところに……」
 奏の呟きを聞いた暗影は、棒状の戒具を手で弄びながら答える。
「何でって、奏兄ちゃんを見かけたから追いかけてきたんだよ。今夜は俺も出動が掛かってるんだ。少しでも戦力が欲しいってね。この天才に声が掛かったんだよ」
 現れたのは奏の弟、階だった。
 まるで予想だにしていなかった人間の登場だ。
「ちなみに、俺はまだ現場経験がないからコブ付だったけどね」
「コブなんて失礼な言い方。私はあんたの監督官よ」
 次に声を出したのは女性の声。
 ――姉ちゃん。
「何でこんなところに……」
 奏は再び同じ言葉を繰りかえす。
 姉ちゃんは暗闇に紛れて、完全に姿が見えない。
 姉ちゃんは呆れ口調で答える。
「あんたを見かけたから、持ち場放棄して追いかけてきたのよ」
 心が。
 奏の胸に、絡まっていた心が溶けるような安堵と、心強さが満たしていった。
「姉ちゃん!」
 思わず声を上げていた。
「情けない声出すんじゃないの。ここまでやっておいて、今さら姉ちゃんに頼るんじゃない」
 油断すれば涙が出そうだった。
「兄弟再会のところ悪いが、一人や二人増えたところでなにも変わらないぞ。俺は他のメンバーみたいに優しくないからな」
 俵原孝司の声。
 そうだ。
 兄弟が現れて、何かが変わったとも思えない。
 ただ、巻き添えにしてしまうだけかもしれない。
 逃げて。
 そう言いかけて、階の言葉に障られた。
「威勢のいい奴がいるみたいだけど、俺たちが誰なのか分かってないみたいだ」
「知ってるさ。鳴音一家。長女の鳴音琴と鳴音階。だからどうした。お前ら二人増えたところでこの先には誰も行かせないし、家柄だけでのうのうと委員会に蔓延って居られる人間が、地獄を味わってきた俺に勝てるとでも思うのか」
 階がふふ、と笑ったのが聞こえてきた。
「へえ。自信家なんだね。俺たちがただの世襲だけで委員会に居られると? お前がどんな地獄を味わったのか知らないけど、確かに俺は地獄なんて知らないな。知る必要がないし」
 言いながら階は歩き出し、奏の横を通り過ぎた。
 すれ違いざま、階は小声で「兄ちゃん、ここは俺に任せて先に行って」と口遊んだ。
 先に行く?
 そんなことできるはずがない。
 相手は俵原孝司だ。
 協力して――。
 階を引きとめようとして、琴に肩を掴まれて制止された。振り返ると術師の現場用の制服を来た琴が「いいから先に行くの」と念を押した。
「でも……」
 言いかけるが、姉ちゃんには逆らえない。強引に肩口を掴まれたまま「ほら、行くよ」と強引に引っ張られた。
「ほら、そこの人外も行くよ」
 ユーナも慌てて付いてくる。
「ちょっと姉ちゃん」
「私が付いてってあげる。あんたは無事、人外を隔世に戻すのよ」
「どうして……」
 どうして協力してくれるのか。
 あれほど反対してたのに。
 階を振り返る。
 階もこちらを見ていた。――ような気がした。
 階……。
 ありがとう。
 でも、絶対に死ぬな。
 戦えば傷つく。
 でも、お前の力ならきっと逃げることは出来るかもしれない。
 だから、出来る限り逃げる選択をしてくれ。
「階!」
 奏は声を上げていた。
 声は届いていただろう。
 階はもう返事をしなかった。
 
 
 
 階は新型戒具を手にして、興奮を抑え切れなかった。
 新型戒具。
 どれほどの高機能を備えているのか。
 奏が琴に引っ張られて森の奥にきて行くのを確認しながら、指先が微電流で疼くのを意識する。
 発動したい。
 今すぐに発動して、自分の力を試してみたい。
「行かせるか」
 俵原孝司が去ろうとする奏たちを追いかけようと足を踏み出した。
 それをきっかけにして、階は嬉々として新型戒具を発動した。
 階が発動した戒力を見て、俵原孝司が反射的に飛びのいた。
 追いかけようとしていた俵原孝司の足止めにはなったらしい。
「へえ。新型戒具を使うと、戒力がこんな形に具現化されるのか」
「お前……初めて使うのか?」
「当たり前だよ。今夜初めて支給されたんだし、俺はまだスクール生だからね」
 俵原孝司は驚愕の表情でこちらを見る。
「嘘だ。なんの訓練もなく、新型を使いこなせるはず……」
「愚問だね。俺のこと、本当に知ってる? 五十年に一度の大天才なんだってさ。知らなかったの?」
「天才だと……?」
「あんたのような常人でもある程度の力をだせるみたいだけど、やっぱり力の差は出るみたいだね。同じ道具を使えば、通力の天才のほうがより強力な戒力を発揮できる。当然の理屈だね」
 しかし、余裕を見せながらも階は戒具に吸い取られる通力を意識した。
 出力が高いということは、それだけ消耗も早い。
 これは長く続かない。
 瞬発力は高くとも、まだ年端の行かない階には戒力を出力し続けるだけの体力もキャパシティもない。
 悟られる前に……。
「確かに大したもんだ」
 階の具現化した戒力は、三本の蛸足のように伸びた鞭のような力。
 三本ある。
 これは階が狙って具現化したものではない。
 戒具を使用すると、その人間の個性に見合った術が具現化されるというが。
 確かに出力は高い。
 だが、見破られている。
 俵原孝司が冷静さを持ち直したのは、恐らくこの三本の鞭を見て気づいたからだ。
 ――俺に実戦経験はない。
 しかも、対人間用の戒具同士の戦いなど、スクールでも教えない。
 その上、三本の鞭。
 扱えるわけがない。
 立てた三本の指を、人差し指、中指、薬指とそれぞれに自在に動かすには訓練が居る。
 手だれになれば有効な戒力かもしれないが。
「それ、まともに扱えるのか?」
 俵原孝司の優位を確信した顔。
 分からない。
 だからといって、奏兄ちゃんに格好付けてしまった手前、引き返せない。
「天才って言葉、お前に思い知らせてやるよ。地獄のような訓練をしてきたかどうか知らないけどな、世にも理不尽な才能の差ってモンを見せてやる」
「生意気なガキだ」
 俵原孝司は戒具を構えた。
 俵原孝司の戒具はとてもシンプルな直線の剣。だが、戒具を構えるその佇まいだけで相手が手だれだと分かる。
 幾ら切れ味の鋭い刀を持っていても、生身の身体の部分はなにも守られていないことに変わりはない。
「殺し合いだぞ。覚悟できているのか?」
 出来ているわけがなかった。
 もう、俵原孝司に呑まれてしまっている。
 手が震えるのをどうにか堪え、動揺を顔に出さないことに必死だ。
 ――兄ちゃん、俺が死んでも兄ちゃんのせいじゃないからな。
 階は無理矢理に覚悟を決めた。
 
 
 
 
 これでよかったのか。
 奏は琴に腕を引かれながら何度も後ろを振り返る。
 これではまるで、階を犠牲にしたようなものじゃないか。
「気にしないの」
 琴が気遣った。
「さっきね、全体周知があったの。出現した人外についての情報」
 そうだ。奏は情報を截断されて、全く情報を把握できていない。
「襲来した人外は一体だそうよ」
「一体……」
「一体で恐ろしい瘴気。周知では今からお父さんが一人で交渉に向かうらしいの。分かる? この意味」
 意味?
 分からなかった。
 考えられなかった。
「和平の道を模索できるかもしれないってこと。もしかしたら、争いは起こらない」
「本当に?」
 奏はユーナを振り返っていた。
 振り返った先のユーナの表情は暗闇に紛れて読み取りづらい。
「ねえ、弟」
 改まった声で呼ばれ、再び正面を見る。
 相変わらず姉ちゃんに腕を引かれてなすがままの状態。
「あんた、本当に色々大きな問題を起こしてくれたけど、今となっては私、あんたのこと少し誇りに思ってるのよ。大変だったでしょうに。人外を連れて一ヶ月以上も逃亡生活を続けて、あんたは最初からずっとひとつのことを達成しようとしてたのよね。委員会本部ビルに襲撃したり、園山で人外特殊災害対策室――大家貴信のところに乗り込んだり。あなたにそんなことが出来るなんて思わなかったし、他の誰かだって、そんなことで斬るわけがない」
 ふと、奏は気づいた。
 思えば、奏のしていることを今まで誰一人、一度でも肯定してくれたことはなかった。
「しかも、人外を隔世に帰す、こんなとんでもない、誰も考えないし、誰にも実現できそうもないことを、あんたはついにやり遂げようとしてる。なんて強い子。なんて頭の良い子。力も無いのに、あんたの成し遂げようとしていることは本当に偉大なことよ」
 姉ちゃんがこんなことを言うなんて。
 胸が熱くなる。
 誰もが奏のやっていることを愚かしいと言った。反逆者と罵った。
 間違ってなかった。
 今ほどそう思えたことはない。
「だから、絶対に成し遂げるの。もう、人外を隔世に帰す、このことはあんただけの目的じゃない。鳴音家全員の希望なの。だからこそ、階はあんたのために……」
 姉ちゃんが振り返る。
 まるで恋人を見るような憂いだ表情。
「奏、見事やり遂げて! あんたの思ったとおり。最後まで!」
 姉ちゃんの表情。
 階の想い。
 これはもう自分ひとりの想いじゃない。
 ――人外との和平の道が歩めるかもしれない。
 要するに、もう人間と人外が争うことはなく、イスカ領域が開いた今、現世に迷い込んだ人外を殺さずに隔世に帰すことも出来、またその逆も。
 自然管理委員会のあり方が変わる。
 殺すのではなく、帰す。
 そのパイオニアとなれと姉ちゃんは言っている。
「分かったよ。絶対に成し遂げる」
 奏が確かな意志を持って答えた。
「その言葉、忘れないでね」
 そう言ったときだった。
 姉は気づいていたのだ。
 追跡されていることを。
 姉ちゃんは突然、腕を強く引くと姉ちゃんは一人立ち止まった。
 奏は前方によろめきながら振り返ると、姉ちゃんは奏に背中を向けている。
「姉ちゃん、どうしたの?」
 ユーナも立ち止まって振り返った。
 なにも言わない。だが、気が焦っているのが分かる。
 早く先に進みたい。
 早く隔世に帰りたい。
 ユーナの思いが伝わってきた。
 姉ちゃんは背後の暗闇を睨みつけながら、少し顔をこちらに向ける。
「奏、行きなさい。さっき言ったことは分かったわね。絶対に人外を隔世に帰すのよ」
 どうしたんだ? そう訊ねる前に奏も気づいた。
 暗闇から落ち葉を踏みしめる足音。
 先ほどと同じシチュエーション。
 暗闇の向こうに目を凝らす。
「いいから行きなさい。このために私は来たのよ」
 藪北ファミリーだろうか。
 藪北ファミリーなら、歩いてくるのが佐々倉想平だったら?
 姉ちゃんが担当する区域の、姉ちゃんの監督官。言わば上司である。
 鳩谷多恵だったら?
 鳩谷多恵は琴の昔馴染みではなかったか。
 そんな人間と戦えるのか?
「早く行きなさい! もうあんただけの問題じゃないって言ったでしょ! 目的のために、私は残るの! あんたはあんたの役割を全うしなさい!」
 奏は迷った。
 当然迷う。
 だが、行かなければならない。
 それを決意するまでに必要な逡巡。
「ごめん、姉ちゃん」
 奏はそう言い残して、ユーナを見た。
「行こう」
 ユーナはいたたまれなさそうに頷いた。
 奏は琴を置いて駆け出した。
 今は、目的を達成することが姉ちゃんへの報いだと信じて。
 
 
 
 琴は両手に戒具を持っていた。
 新型戒具だ。今回の作戦で支給されたもの。
 ただし、琴には二つ支給された。
 それは琴が二つの戒具をあやつる術師だということを物語っている。
 暗闇の向こうからゆっくりと踏み寄ってくる人物。
 ずっと追いかけてきていた。
 藪北ファミリーに間違いない。
 佐々倉想平だったら?
 鳩谷多恵だったら?
 当然考えた。
 私は恩師と戦えるのか。
 游人と戦えるのか。
 じっと待つ。
 足音は徐々に近づいてくる。
 人型のシルエットが確認できたとき、近づいてきた相手は声を上げた。
「あいかわらず仲良し兄弟なのね」
 女の声だった。
 藪北ファミリーで女は誰かと考える。
 川本クリスティーヌ、鳩谷多恵。
 それぞれが持つ力の特徴も知っている。
 鳩谷多恵だと分が悪い。
 ――どちらか。
 やってきたのが誰かなのかは、相手が戒具を発動したときに判明した。
「私を足止めしたって無駄よ」
 暗闇に怪しく光る紫色の光。
 奇妙にくねる姿は海蛇を思わせる。
 鞭型の戒力。
 鳩谷多恵。
「時間稼ぎかな? そんなに弟がかわいい? そう言えば、昔から弟の面倒をよく見てたものね」
 鳩谷多恵は昔馴染みである。それほど親しいわけではないが、小学生の頃、よく遊んだ記憶がある。
 会ったのは十年以上ぶりか。
「時間稼ぎのつもりはないわ。私は戦いに来たんだもの」
 そう言って、二つの戒具を発動した。
 琴の戒具はブレスレット型の腕に装着するもの。
 具現化された戒力は、円盤型の平面。両手にお盆を持っているとイメージすると正しい。
「やる気満々ね。お姉さんが幾ら戒具を持ったって、対人間用の戦いを訓練したことはないでしょう?」
「あなたはあるの?」
「そうね。少なくとも対人間型の人外用の戦闘訓練は受けてる。それに、私は剣道初段だしね」
「奇遇ね。私は合気道二段よ」
 さて、その段位がお互いの武器の特色からして役に立つのかどうか。
「さっさと終わらそうか」
 鳩谷多恵が足を踏み出してきた。
「その前に、目的を教えてくれない? 大家貴信は人外特殊災害対策室の室長を降りたんじゃないの? あなたは誰の命令で奏を追いかけていたの?」
「教えると思う? あなたが作戦遂行中に、誰かに同じ質問されたら答える?」
 確かに答えないわね。
 なら、痛い目にあわせて口を吐かせるか。
「ひとつ断っておくけど」
 鳩谷多恵が言いながら少し戒具を動かす。具現化された紫色の鞭が奇妙にうねる。
 まるで催眠術でもかけるかのように。
 いつあの鞭が襲い掛かってくるのか。
「これをただの戦いだと思ってるなら、今すぐ道を開けることね」
「どういう意味?」
「昔馴染みだから特別に教えてあげる。これから私がやろうとしてるのは人殺し。嘘だと思う? 私たちが大家先生のもとで受けた訓練はどういうものだと思う? 地獄だと形容できそうなほど残酷で苦しいものだった。まずは人としての邪魔な良心や倫理観を捨てる訓練。人を殺せるようにならなければ、私たちはあの人に認めてもらえなかった」
 琴の胸が恐怖に躍る。
 人を殺す訓練。
 まさか、本気で言っているのか。
 人を殺そうとしている相手に対して、私はその覚悟はない。
 かたや殺そうとしてくる相手に、私は勝つことが出来るのか。

 

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