あっちから変なの出てきた

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 -- 怪物を助けてしまった青年の逃亡劇 --

 ときどきあっちの世界から変なのが現れて、こっちの世界に悪影響を与えるらしい。額にゼンマイのある猫や巨大な一ツ目の化け物、火を吹く少女。そんな変なのを退治するのが俺の仕事であるはずなのに、美少女な怪物に誘惑されて、助けてしまったことから味方に追われるはめに・・・。


   

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第一章 【 時の流れに身をまかせ 】


 もちろん、これから綴るのはこの世のことである。多少なりに奇妙な現実だと思われるかもしれないが、実のところ俺も半信半疑である。
 曖昧な言葉で大変申し訳ないが、俺にだって説明出来たら苦労しない。まず大前提として、俺の所属する漠然と大きな組織があって、俺の家族――弟を除く――は組織の一員として日々奇妙な仕事に励んでいる。
 組織とは「自然管理委員会」と呼ばれる国家機関であるが、詳しくは後述することもあると思われるので割愛する。
 口で説明するには不可解すぎると思われる仕事については、実際に見ていただくのが一番早い。ここで知っておいて頂きたいのは、俺は組織の運営するスクールを出たばかりの新卒会員であること。また、この日が俺の仕事デビューの日だということ。
 と言うことで、今日は初仕事の日。医者の息子が医者になるように、芸能人の二世が活躍するように、例外なく俺も父親の仕事を生業にさせられた。させられたという表現が重要で、ソサエティーの令嬢が婚約者を両親に決められてしまう理不尽さで、俺はこの職に付かざるを得ない状況に追い込まれてしまった。
 そして俺の姉も同様、同じ職業である。姉は自分の宿命に疑問には思わなかったのだろうか。いずれは弟も疑問も抱かず同じ職に付くに違いなく、この敷かれたレールに沿うような世襲制度を恨まずにはいられない。
 俺の担当する地区は街の小さな区域。水無月市五月女町の三丁目。どのくらいの広さというと、たとえるなら東京ドーム一個分程度。大きいか小さいかで言えば、ドンでもなく小さい。俺の親父は激戦区である水無月市全域を監督しているというのだから、規模の小ささは明白だ。
 初仕事は最初の数日間、必ず監督役が付き添う決まりだった。術師としての適合性を判定、評価する立場の人間としばらく一緒に仕事を行う。だが、これもなあなあ体質の蔓延る組織事情で、監督役は俺の姉が割り当てられた。監督役を身内が担うという、公正な評価とはかけ離れた人事である。身内を酷評する人間はおらず、不祥事が起ころうとも身内のよしみで揉み消されることだろう。ようするに、この組織はその程度のもの。国家機関よろしく隠匿体質に身内根性丸出しなのである。
 姉は現在、隣県の某市を担当するイケ面野郎の補佐として活動中であるが、一週間だけ俺の初仕事の監督役として、この地域の仕事を担う。
 さて、俺の仕事は大抵深夜に始まる。理由は単純、深夜帯が人気が少なく仕事がしやすいからである。午後一時を過ぎ、電車の終電が終わり、世間が寝静まった後の深夜。
「この周辺の事情はもちろん把握しているわね」
 姉に指摘されて、俺は眠気眼を擦りながら「うん」と曖昧に答えた。
「返事は『はい』よ。今日のわたしは監督なんだからね」
「はい……」
 さっき家で「自覚が足りない」と姉――監督にこってり絞られたが、自覚もなくも俺はまだ高校一年生だ。裕福でもないが貧乏暮らしでもない中流家庭に住む俺は、この日本社会でホゲホゲと高校生をしていればいいはずだ。これは権利であるはずだ。
「如月陸橋の下、青空公園の茂み、浮浪者はそこに住んでいる」
 浮浪者の話題。だが、浮浪者が俺の仕事に一切関係ない。
「青空公園の周囲はジョギングコースになってるから深夜、早朝でも稀に人が通る。それから明けきらない早朝は新聞配達員も通る」
 問題は「目撃者」の存在である。隠密に等しい俺の仕事は、誰かに見られていいものではなかった。周囲の事情は把握すべきである。
「分かってるよ」
 俺がぶっきらぼうに答えると、姉は怨霊のような視線を俺に向けて「敬語使え」と凄んでみせた。
「分かってます」
 言い直してから、深夜の住宅街を姉の後について歩いた。
 つかつか無言で行進しながら姉が口を開く。
「わたしの初仕事のときは兄さんが監督役だったけど、わたしは不安でいっぱいで、兄さんにいろんな質問を繰りかえした。仕事のアドバイスが欲しくて、うまく仕事をするにはどうしたらいいか、もし解決できない問題が発生したらどうやって助けを呼んだらいいかとか」
 先を歩く姉はじっとりと俺を振り返る。
「あんたはまったく気にならないの? 不安じゃないの? 緊張しないの?」
 何を答えてもお説教が待っていると判断した俺は、ううん、と曖昧に返事する。これは正しい判断ではなかった。
 深夜の通りを、俺は姉のヒステリックなお説教を聞きながら歩くことになった。
 仕事現場に付いた頃はへとへとで、どうにか保っていたモチベーションも底を付いてしまっていた。
 青空公園。俺の主な仕事場となる場所。大きな公園で、三丁目はほぼ公園だ。
「幾つか仕掛けの檻を置いておいたから、まずはそれの回収ね。手順は、まず檻に獲物がいたら新種かどうか確かめる。図鑑は持ってきたわね。既存種の場合はその場で処分。全部あんたがやるのよ。ただし二級以上の獲物の場合、わたしがやる。見つけたら自分でなんとかしようとしないで」
 この世は現世。現世と並行する隔世があり、その現世と隔世の間には世界のバランスを取るように心的世界が存在する。心的世界(精神界)とは、二つの世界の潤滑油のような存在で、二つの世界を隔て、摩擦による不具合が生じないよう、うまく吸収剤としての役割を担っている。隔世は宇宙論や量子力学でお馴染みのパラレルワールドと呼ばれる世界のことであるというのが通説であるが、実のところ、あっち側の世界のことはほとんど分かっていない。だから以下の説明も、古い時代から言い伝えられる想像の範疇であることをご了承いただきたい。
 普段、現世と隔世の二つの世界はらせん状に交わっているものの、重なり合うことはない。ところが世界には至るところに二つの世界との差が曖昧な場所がある。そこがイスカ領域と呼ばれる、心霊スポットとか聖域とかで馴染みのある場所だ。
 そんな場所には隔世からの来訪者が稀に訪れ、隔世の人外境の住民が発する瘴気が、人々に様々な悪影響を与える。
 その前に処分する。簡単に言えばそれが俺の仕事。
 欠伸をしながら涙目を擦っていると、早速監督にお叱りを受ける。
「瘴気はわたしたちにだって悪影響を与えるのよ。瘴気は精神に作用する。気をしっかり持たなければ取り込まれるわよ」
 脅しているつもりだろう。
 仕方無く、表情だけでも引き締めてみせる。

「公園のあんたの担当区域を四つに分ける。東西南北よ。それぞれにひとつづつ仕掛けがある。あんたは北と西の仕掛けを確認して。獲物が居たら携帯電話で連絡して」
 伝えると「はい」と形だけは返事をした。実の姉である琴(こと)にさえ、弟の奏(かなで)の考えている事が良く分からない。
 由緒正しき我が鳴音(なるね)一家きっての素質のなさ。スクールでも歴史的劣等生で、この職業の適正なしと判断されたにもかかわらず、お家柄と父親の裏工作があってようやく現場に出れるようになった奏。はたして本人にもやる気が感じられず、素質も全くないとなれば、無理してこの仕事をやる必要はない。一番上の兄も居れば、奏の下に弟も居る。二十五の兄はエリート街道まっしぐらで、今では本部の仕事をしている。我が家では弟が五十年に一人の逸材と言われる強力な情力、戒力といった通力の持ち主だし、その弟は現在スクールで就学中である。奏が無理して家業を手伝い必要などどこにもないのである。
 しかし、出来の悪い子ほど可愛いというが、ひんやりと氷のように冷たい兄と、優等生の弟の傲慢な性格の中にあって、人に優しい気質の奏の事が、琴はとても好きだった。
 昔から他人に苛められて泣いて帰ってきても、無関心の兄と、情けないと馬鹿にする弟に変わって私が仕返しにいじめっ子を蹴っ飛ばしに行ったのもそんな事が理由だ。
 絵を書かせれば繊細で独創的な水彩画を描き、休日になれば粘土を買ってきて造形に勤しんでいる。想像力豊かで心優しい、そんな弟で良かったのに。
 通力を殆ど持たない弟は、身を守る手段として幾つかの御札しか使えない。危険な職場に出向くことも出来ず、奏は恐らくこの職業を続けても、今夜のような深夜の見回り程度のことしかでいないだろう。
「さあ、行くわよ」
 弟と別れ、琴は自分の担当地区である公園の南と東にそれぞれ仕掛けた檻の様子を見に行った。
 檻と言っても、獣などを入れておく鉄檻などと言うものではない。数多く存在する御札――御札も木片のような特殊な素材を使用した十センチほどの長方形のもの――の情力とか、戒力といった力を封じ込めたものを四隅に設置し、その中心部に結界を張ったものだ。人の目には見えないし、もし、そこに獲物が囚われていたとしても人の眼には人外境からの来訪者――人外は見る事が出来ない。
 公園は中央にある広場のほかに、樹木が生い茂り、小径を繋げた散歩道が網目のように通っている。
 春になれば様々な花や桜が咲き乱れ、海外からも青空公園の美しき情景を見に来る観光客も居る。
 そんな公園を守るのがこれからの奏の仕事になる。難しい仕事ではない。現世と隔世との差が曖昧になるイスカ領域と言ってもその網目は小さい。
 隔世からわたってくる人外といってもせいぜい三等レベル。御札の使い方さえ間違えなければ、対処できるレベルである。
 琴は公園の南、ちょうど噴水広場のあるロータリ付近に仕掛けた檻までやってきた。仕掛けの中に人外がいる様子はない。
 こんなこともある。むしろ、この公園では人外が出現することのほうが珍しいくらいだろう。
 琴は檻を囲む御札を交換し、公園東の仕掛けに向かった。まだ奏からは連絡がない。恐らく向こうも仕掛けには何も掛かっていない証拠だろう。
 東の仕掛けまでやってくる。公園の中央広場から少し離れた茂みに仕掛けた檻。遠めに見ても、何かが引っかかっているのが分かった。
 琴は肩にたすき掛けしているバッグから御札を取り出す。これは目標を殲滅するための少々過激な御札である。御札の発動は安全装置の役割を果たすシールをはがし、相手に投げつけるだけ。相手の瘴気に当てられると御札は炸裂し、相手にダメージを与える仕組だ。
 傍まで寄ると、獲物を観察した。
「これは……」
 思わず声が漏れていた。
「見たことのない人外……」
 思わずバッグに手をやると、図鑑は奏に預けてあることに気づく。
 檻に入っているのは人の形をした人外である。子供のような容姿で人間と見間違うほどに人間に酷似している。
 だが、発せられる瘴気と雰囲気は明らかに人外のものである。
 人の形をした人外は山ほどあるが、ただの擬態能力のある動植物だったり、人ほどには知恵を持たない類人だったりだったが、そうだとしても、琴はこれほどまでに人に酷似した人外は見た事がない。
 結界の中心で膝を抱えて縮まる人外は琴に気づくと慌てて立ち上がり、結界の隅に逃げた。
 この仕掛けから逃げられないということは三等級の下等人外であることは間違いない。人外と人間との歴史の中で、三等級で新種の発見など何百年も発生していない。
 嫌な予感がする。
 琴は携帯電話を手に取り、奏に連絡して図鑑を持ってこさせようとした。
 そのとき。
 琴より先に、奏より着信が入ったのである。嫌な予感を抱きながら携帯電話を耳に押し当てる。
 ――姉ちゃん、ごめん、俺……。
 暗い声。嫌な予感が琴の胃袋をきりきりと痛めつける。
「どうしたの奏。そっちでも何かあったの?」
 問いかけたが返事がない。
「聞こえてるの!?」
 思わず声を張り上げると、ようやく奏から小さな弱々しい声が帰ってきた。
 ――姉ちゃん、ごめん、俺、失敗しちゃった。
 琴はぞっとしてしばらく言葉を失った。
 失敗?
 普段なら馬鹿やろうの一喝で済ますところだが、今夜は別だ。
 新種らしき人外。
 琴は檻の中で警戒する人型の人外を振り返りながら戦慄した。
 
 
 
 少し時間をさかのぼって。
 姉と別れて仕掛けの檻に向かった奏は、一人とぼとぼと深夜の公園を歩いていた。
 深夜の公園。聞こえるのは不気味な正体不明の虫の音。
 何でこんな不気味な時間帯に高校生が公園なんて歩き回らないといけないんだ。
 口の中だけで呟きながら、こそこそと檻に向かう。
 本当にこんな奇妙で現実離れした仕事が自分の生業になるのだろうか。自分の将来を悲観しながら公園の遊歩道を行くと、突然、奇妙な感覚に襲われた。
 何を感じたのか分からない。
 ひょっとして近く人外がいるのではないかと周囲を懐中電灯でうかがってみるが何もない。
 人外でなく、幽霊?
 奏は人外よりも幽霊が怖い。
 必死に周囲をうかがって異常のないことを確認するが、全身を覆う奇妙な感覚は消えない。
 奏に人外の気配を察知するような能力はない。弟の階であれば可能だろうが、この奇妙な感覚は人外のせいではないということになる。
 とするとなんだ。
 目の前の風景が、妙に揺らいでいるような感覚。
 たとえるなら、遠くの信号機の明かりが青から黄色に変わり、赤に変わる微妙な色合いの変化が周囲を照らし、鋭くなった感覚に引っかかったような。
 そう。目の前の風景が、微妙に色合いを変えている?
 なんだこれは。
 ふと、奏は空を見上げた。
 見上げたその一瞬、何かを見た。
 見上げた瞬間、消えうせてしまった何かを見た。
 UFO?
 奏の脳裏によぎるアルファベット三文字。
 夜空に一瞬、奇妙な光を見た気がした。
 オーロラのような光だと思ったけど……。
 空を貫くように七色が渦巻いて見えた。
「気のせいかな……」
 今はいつもの夜空。星は綺麗だが、相変わらず夜の公園は不気味だ。
 奏は仕事を思い出して、懐中電灯片手に今にもお化けが出現しそうな暗闇の小径を歩き始めた。時々近くの茂みがざわざわと音を立てては竦み上りつつ、檻の近くに付いた。
 どうか、何も居ませんように。
 願いながら、遠巻きから檻の近くを観察してみる。相手に気づかれるのが恐ろしく、懐中電灯は当てられない。
 ――居るじゃないか!
 奏は頭を抱えた。
 一発目から大当たりだ。
 とりあえず近くに寄って観察して、新種かどうか確かめなければならない。三等級の人外で新種などまずありえないが、義務である以上、仕方がない。
 姉の作った檻である。破られる心配はないだろう。
 そう思いながら、そろそろと檻に近寄って行く。
 ぼんやりと発光する人外の様相が見えてきた。小径の脇にある茂みに仕掛けられた檻には人外が好むと言う特殊な匂いを発する餌が置かれており、それに飛びついたと同時に人外の瘴気に反応した御札が発動し、人外を閉じ込めるのである。
 人外は人型のようである。
 膝を抱えるようにして、顔を伏せている。
 ――しくしく。
 声が聞こえた。泣いている?
 奏はぞっとした。
 恐い。
 肩にたすき掛けしたバッグから、人外殲滅用の御札を取り出す。
 足音を殺して近づいていくと、奏の気配に気づいたのか、人外が顔を起こして振り返った。
 ぎょっとしたのは人外も奏も一緒で、お互い目の合った瞬間、弾け飛ぶように距離を置いた。
「か、か、観念しろ」
 震える声で強気に出てみたが、明らかに動揺を悟られたのか、人外は表情を微妙に変えた。
 まるで人のそれと代わりのない人外は、性別で言えば女。身体には布一枚巻きつけており、表情まで人と同じである。
 人外は戸惑いつつ、俺の様子を観察するような目つき。
 奏は思い出したかのように図鑑を取り出した。懐中電灯を当てながら図鑑を必死にめくるが、分厚い図鑑の中に、目の前に居る人外が載っているか載っていないかなどすぐに分かるものではない。
 人外の研究は進んでいるが、やはりまだカテゴライズの点で難がある。多種多様な人外を、地球上の科目の物差しで割り当てることができない。
「助けて……」
 声が聞こえた。奏は図鑑より視線を移し、目の前の人外を見た。
「今、お前喋らなかったか?」
「助けてください」
 奏は混乱をきたした。
 日本語だ。日本語を喋っている。
 スクールで習ったことを思い出せ。
 言葉を介する人外は存在する。人語を話す人外は、以下の場合に限られる。
 人間の狩の手から逃れ、現世に長く住み着いている場合で、ある程度の知的能力がある。過去に例はあるらしいが、稀であることから、その人外は一等級にカテゴライズされた。
 ということは目の前に居るのは一等級の人外。
「私、どうしてこんなところに居るのかわからなくて。出してもらえませんか?」
 奏と歳のかわらなそうな女は、図ったようにか細い声を出す。
「だ、瞞されないぞ、この人外め」
「私の弟も居るんです。はぐれてしまって……。ここがどこなのか教えてもらえませんか?」
 悲しそうで困っている表情だ。瞞されるな。同情心をあおって、人に取り憑くのが妖怪の常套手段だって、マンガでもよく描かれているじゃないか。
 そうは行くか。
 姉ちゃんを呼ぼう。そう思って携帯電話に手を伸ばしたとき、人外はまた言葉を吐いた。
「お願いです。弟を捜さなくちゃ。私はどうして閉じ込められてるのでしょう。ここはどこなんですか? 助けてください。助けてくれたらなんでもしますから」
 何でもする?
 見てくれはか弱き美少女。
 そんな子が何でもすると言っている。
 思春期の卑猥な想像が奏の脳裏を駆け巡る。
 頭を振っておかしな妄想を追い出す。
 気をしっかり持て。
「残念だけど、そこからは出られないよ。君は抹消しなけりゃいけないんだ」
「抹消? どうしてそんなひどいことを……」
 演技なのか? この弱弱しさは演技なのか?
「現世に来てしまったのが悪いんだ。来てしまった人外を隔世に戻す方法もない。君が現世に居る限り人間には毒なんだ。だから消えてもらうしかないんだ」
 自分に言い聞かせるように諭す。抹消する相手に対しては無駄な説明だ。
「そんな……わたし、何も悪いことなんてしてないのに……。弟は? 弟はどうなるんですか?」
 答えられない。言い渋っていると、人外は両手で顔を覆って「しくしく」と泣き出した。
 なんだこれは。
 人外って、もっと凶悪で人に悪さする悪いやつじゃないのか。いや、これが悪魔の誘いと言わずなんと言おうか。か弱く見せておいて、近寄ったら牙を剥くかもしれない。
「お願いです。私はどうなってもいいです。せめて弟だけは……。弟だけは助けてやってください」
 そんなこと言われても……。
 奏はううんと悩んでしまう。
 無線機を睨みつける。
 どうしよう。ちょっと探ってみるか。
「お前はどうしてここに居るんだ? ここに来る前は何をしてたんだ?」
 奏が訊ねると、涙で濡れた顔を起こした人外は切なそうに答える。
「分からないんです。弟と一緒に近くの町まで買い物に出かけたんです。山道を歩いていると突然暗闇になって、気づくとここに。弟とはぐれてしまって、歩き回っているうちにここに囚われて」
 町? 山? ひょっとして、この人外は隔世のことを話しているのか?
 隔世にも町があり、山がある? これはもしかして重大な発見ではないのか。
「私の家は貧しくて、父は幼いうちに亡くして、母は腰を悪くして寝たきりなんです。家にはまだ幼い妹が一人きりで留守番していて、お腹を空かせているだろうし、母は私が持ち帰る薬を心待ちにしています。私が戻らないとみんな困ってしまう」
 時代劇などで不遇の身の上を持つ生娘を絵に描いたようなお家事情だ。一家の生計を担う生娘の美少女。借金の担保に連れて行かれそうになるが、上様が現れて、美少女を狙っていた黒玉の悪代官を退治して……。
 気持ちをしっかりもつんだ奏。
 まさか、人外を檻から逃がす行為などあってはならない。そんなことをしたら俺が破門になるどころか、由緒正しきお家柄に傷をつけてしまう。
「ああ、弟は今頃知らない土地で、お姉ちゃん、お姉ちゃんと嘆きながら彷ってる事でしょう。母や妹は私が戻らないと食事も出来ず、お腹を空かせて悲しんでいるでしょう」
 ひとしきり喋ってから、人外はちらりと奏の表情を覗った。
 俺の反応を見ている。
 俺の反応が薄いと見るや、人外は再び顔を覆って泣き出すと喋りだす。
「なんて残酷なんでしょう。罪のない者が理不尽に抹消されなくてはならないんでしょう。どうして私が抹消されて、家族が不幸にされなければならないんでしょう」
 そう言って、再び奏の表情を観察するかのように覗う人外。
「分かったよ! ちくしょう」
「本当ですか? 出してくれるんですか?」
 待ってましたかと言うように目を煌かせる人外。まだ出してやるとは言ってない。
「本当は言っちゃいけないんだろうけど教えてやるよ。確かなのは人語を話す人外は珍しいから抹消される心配はないと思う。幽閉されるかもしれないけどさ」
「どういう意味ですか? 殺されはしないけど、一生監禁されるということでしょうか」
「うん」
 頷いてみせると、人外は再び顔を覆うと「しくしく」と泣き出した。
「なんて残酷なことでしょう。弟は悲しむでしょう。悲しみすぎて死んでしまうかも知れない。私が戻らないと一家は飢え死に――」
「ああ、もう! 分かったよ!」
 そう声を張り上げると、待ってましたかのように顔を上げ、人外は「それじゃあ、出してくれるんですか?」と詰め寄ってきた。
「出すよ。出せばいいんだろ。弟は本当に居るんだろうな」
「本当です。ここに来るとき弟の声が確かに聞こえたんです。ここはどこ? ここはどこ、お姉ちゃん。助けてお姉ちゃん。さびしいよう、さびしいようって」
 ここぞとばかりに必死に情へ訴える人外。
 このやろうめ。
「言っとくけど、結界を解いた途端に襲ってこようとしたって無駄だぞ。お前を殲滅できる御札があるんだからな」
「そんなことはしません。絶対しません」
 神に祈るように必死に訴える人外。
 だが目は「いいから早く出せ」と爛々と訴えている。
 俺はバッグから御札を取り出すと、人外の見える位置に構えつつ、結界の四隅のひとつの御札をはずした。
 結界に安全装置のシールを張ると、結界の効力は消え失せた。
 奏はすぐさま人外と距離を置き、油断なく御札を構えた。
 人外は戸惑ったかのように立ちすくんでいる。
「ほら、結界は解いたから行けよ。他のやつに捕まるなよ。結界に気をつけろ。それからほかの奴に捕まっても、絶対に俺が逃がしたことを喋るなよ」
 そう言っても、動かない人外。
 しばらく呆然としていた人外は、物言わず暗闇に消えて言った。
「お礼ぐらい言えっての」
 一人ごちながら、奏は姉に対しての弁解を考えた。
 人外は檻に掛かっていなかった、という弁解は通じない。ここには人外の正気が残っているし、姉が見れば一発でばれる。
 ならば手違いで人外を取り逃がしたと言うしかない。まさか、わざと獲物を逃がしたなど言えず、ここは人外を退治しようとしたが失敗したということにしようと思った。
 故意ではなく失敗なら許されるはずだ。
 そう高をくくった奏は、ひどい思い違いをしていたことを直後に思い知らされることになる。
「姉ちゃん、ごめん、俺、失敗しちゃった」
 携帯電話でそう知らせると、姉はすぐに飛んできた。

 壊れてしまった――わざとだけど――結界を見てしばし呆然とする姉。
「奏、ここに入っていた人外は、どんな人外だったの?」
 姉が慎重に訊ねてくる。口調に一抹の不安。まさか、奏が人外を逃がす様子を陰から一部始終見ていたなんてことはないだろうか。
「それが……」
 言いよどむ振りをして、言い訳を捜す。
「あれだよ、あれ。名前なんだったっけなあ」
 そういいながら図鑑をめくる。
 三等級の人外のページを開いて「これだよ」と適当に指差してみる。
「どうして結界を壊したの?」
「抹消しようとして、失敗して」
「どう失敗したの?」
 鷹揚のない口調。
 奏はどぎまぎしながら「近寄りすぎて、結界をふんずけちゃった」と苦しい弁解をすると、壊れた結界の様子を調べていた姉が振り返り、全てを見透かすような視線を向けて言った。
「その図鑑に載ってる人外は『御辞儀草』っていうのよ。隔世の植物で、小動物などの臭いを嗅ぐと御辞儀するように頭を傾げて、葉で小動物を包むように捕らえる。移動型であるけれど、その動きは緩慢で、移動速度は人の歩く程度。そんな人外を捕り逃がしたって言うの?」
 奏に言葉はない。必死に次の弁解を考える。
「そうかもしれないけど、俺、恐くて」
 そう言うと、姉ちゃんはふうと溜息を漏らす。
「分かったわ。一緒に付いていなかった私の責任でもあるわ。とりあえず西側の檻に行くわよ。こっちにも獲物が掛かってたの。どうやら新種のようだから、本部に連絡を取って引き取りに来てもらうわ」
 ホッとした俺は「新種?」と訊ねると「そう、人型の、人間そっくりの人外」と姉が答える。
 ぎょっとして「人型?」と呟くと、姉は覗き込むように奏の顔を覗う。
「何か知ってるの?」
「知らないよ。人型の人外なんて珍しいなって思って」
「そう。それも人間にそっくり。そんなの聞いたこともない。ひょっとしたら擬態系の人外が人間に化けてるだけかもしれないけど、とにかく助っ人を呼ぶわ」
 西側の檻に戻って行く姉についていく奏。
 姉の言っている人型の人外は、ひょっとしてさっきの人外が話していた弟だろうか。
 勘ぐりながら後を付いていくと、西側の檻に入れられた人外は案の定、幼い男の子の様相を呈した人外であった。
 怯えたように奏たちを見る人外。
 年のころ十に満たないどころか、ひょっとしたら人間で言う五歳か六歳くらいに見える。
 よくよく人間に似ている。
「とりあえず、眠らせておくか」
 姉はそう言いながらバッグから御札を取り出す。抹消の御札と同じ系列の御札だ。衝撃を与えて気を失わせようとでも言うのだろう。
 怯えて結界の隅のほうで小さくなる人外。
 姉はあれを見て、なんとも思わないだろうか。
 姉は手に持つ御札の安全シールを剥がす。御札を人差し指と中指の間に挟んで、トランプを飛ばす要領で人外に投げつける。
 御札は人外の肩の辺りに当たって跳ね返り、地面に転がった。
 しばらくの沈黙。
 姉がゆっくりと振り返る。
 俺を見ている。
「あんた、今なにかした?」
 俺は慌てて首を横に振る。
 御札が炸裂しない。
 姉は再び御札を取り出すと、再び人外に向かって投げつけた。
 はたして御札は人外の足に当たると、跳ね返って地面に落ちた。
 姉が鬼のような顔をして俺を振り返った。
「どういうつもり?」
「な、なにが?」
「邪魔したでしょ。どういうつもりなの?」
「知らないよ」
「すっとぼけないで。効力キャンセルの御札使ったでしょ」
 俺が背後に手を回して掴んでいる御札を、姉がすばやい動きで取り上げた。
 その御札は、御札の効力をキャンセルさせるもの。有効範囲は半径五メートル程であるが、B級などの強力な御札には無効である。
 姉は据わった視線を俺に向ける。
「説明してもらおうか」
 容赦なさそうな低い声。
 俺が言いよどんでいると、姉は俺の胸倉を掴み、女とは思えない力で締め上げた。
「まさか、人外に同情したどでも言うんじゃないだろうな」
 震えるように首を横に振る。
「甘く見るんじゃないよ。あんたのその軽率な行動が、沢山の人命に関わってくるってこと、理解してないわけじゃないだろ」
 迫力に、思わず涙が出そうになる。
「二度と同じことをするな。いいな?」
 取り殺されるのではないかと思った。
 俺は服従することに決め「分かりました」と答えると、姉は突き飛ばすように手を放す。俺は尻餅を付いて咽こんだ。
 姉は見られたところから出血しそうな鋭い視線から俺を解放し、改めて人外に向き直る。手に持っているのは御札。
 もう止められない。
 あの美少女な人外には申し訳ないが、弟は囚われの運命だ。
 姉は御札を投げつけた。
 御札は横回転しながら、まっすぐ迷うことなく人外めがけて飛んで行く。
 御札は人外の頭に当たると、何事もなく地面に落ちた。
「くぉらぁ! 奏!」
 火山の噴火のごとく、世界の終焉の訪れのごとく、悪魔のような殺気を放って振り返った姉に、瞬時に金縛りにあう奏。
 姉は懐から戒具を取り出す。
 戒具は、己の通力を発散するための道具。要するに人外以外にも有効な、とても恐ろしい道具である。
 俺は金縛りをどうにか解き、慌てて逃げ出した。
「待てコラー!」
 姉の女を忘れたがなり声を背後に、猛ダッシュで公園を疾走した。
 命の危機だ。
 人生において、これほどまでの恐怖を抱いたことはない。
 奏はバッグから御札を取り出す。
 御札は戒具と違い、人外の瘴気に当てられないと発動しない。でも、通力を持たない奏は人間にも有効な戒具を使用できない。
 情力や戒力を持つ人間が、力を封じ込めた他力本願の御札しか使用できないのである。
 だが、奏は御札の仕組を理解している。御札のメカニズムは、電気を溜め込む乾電池同様、その情力、戒力を封じ込めることのできる特殊な素材と、表面に描かれた文様が力を発動するための電極を現す。
 電池から電力を取り出すにはプラスマイナスの通電させる媒体があればよく、その媒体が瘴気の変わるものであれば良い。
 奏は自分で作成した文様を書き換えた御札を取り出した。
 人外に瘴気あらば、人間に情気あり。
 情気に反応するオリジナル御札だ。
 猛然と追いかけてくる姉に向かって、奏はオリジナル御札を投げつけた。
 
 琴は戒具を片手に、猛然と奏を追いかけた。
 これほどまでに憤慨したことはない。
 人外を排除することを担う我々が、人外を助けるために同業者の邪魔をするなど言語道断。絶望的な裏切り行為。奏の監督が実の姉である琴でなかったら、奏が破門になるどころか、由緒正しきお家柄に傷をつけるとともに、父親や兄の地位まで揺るがしかねない愚行である。
 多少激しい折檻をしてでも、そのことを思い知らさなければならない。そうしなければ、この先取り返しも付かない事態に発展することもありえるのだ。
 琴は戒具を伸ばした。伸縮自在の警棒のような形状をした戒具は、個人の持つ戒力、情力といった神通力を取り込み、発揮するものだ。攻撃した対象には外的衝撃とともに心的にもダメージを与え、衝撃は電撃にも似て相手の行動力を奪う。
 必死に逃げる奏が、不意に振り返った。
 奏はこちらに何かを投げて寄こす。
 暗闇でも分かる。御札である。
 御札は人間には無効だ。人外の瘴気に当てられて初めて炸裂するものだ。
 苦し紛れの反撃だろう。
 高をくくって、琴は戒具で飛んできた御札を打ち払った。
 そのときだった。
 御札が炸裂した。
 ばし、という音とともに、戒具に当たった御札が眩い閃光を放った。
 周囲が昼間のように明るくなったと思うと、暗闇に馴染んだ琴の視界が失われた。
 琴はうめき声を上げて踞る。
 何てことだろう。
 やられた。
「なんなの、今の」
 御札は人外の持つ瘴気にしか反応しないはず。どうして炸裂したのか。
 まさか、炸裂すると分かっていて、奏は御札を投げつけたのか。
 人間に有効な御札?
 そんなもの聞いた事もない。
 そんな事が可能だとしたら御札を製造している教員レベルの所業だ。
 あくまで、可能だとしたらの話だ。
 ならば、投げてよこしたのは御札ではない別のものだ。
 琴は仕方無く、眩んだ視界が回復するのをじっと待った。
 
 うまくいった。
 奏は内心で歓喜した。
 ところがすぐに強烈な不安に駆られる。姉にあんなことして、後でどんな恐ろしい仕返しが待っているのだろうか。
 家に帰れない。
 ああ、どうしよう。
 なんて弁解しよう。
 恐怖で竦み上がりそうになる全身の筋肉を必死に動かしながら、奏は先ほどの西側の檻まで戻ってきた。
 子供の人外は、まだ檻の中で縮こまっていた。
「おい」
 声をかけると、小さな人外は顔を上げて俺を見た。本当に小さな子供と見間違うほどに人間に酷似している。唯一人間と違うところは、人外から発散される瘴気のみだ。
「言葉を喋れるんだろ」
 そう声をかけると、人外は俺の言葉を理解したかのように顔を上げる。
 人外はなにも答えなかったが、俺は結界を構成する御札のひとつを無効にし、結界を解いた。
「行っていいぞ。お前の姉ちゃんが捜してる。合流してどっかに逃げろ。二度と結界に捕まるなよ」
 人外は小さくなったまま動かない。
「早く行けよ。悪魔より恐い姉ちゃんが戻ってくるだろ」
 人外は恐る恐る立ち上がると「助けてくれるの、お兄ちゃん」と子供らしい愛らしい声を上げた。
 やっぱり喋れるのか。しかも語尾に「お兄ちゃん」ときたもんだ。
「次に捕まったら、もう知らないぞ」
「でも、僕どうしたら分からないよ」
 人外はそう言うと、踞ってワンワン泣き出してしまった。
 人外のくせに泣くな。
「泣きたいのはこっちなんだよ。姉ちゃんに御札ぶつけちまったし。どんな仕返しが待ってるかと思うと」
 思い出して、奏は身震いした。
「いいからお前は自分の姉ちゃんを捜せ。この公園にまだ居るだろうから」
「僕のお姉ちゃんを知ってるの?」
「さっき会ったよ」
 そう答えると、人外は希望を取り戻したかのように必死な顔で訴えた。
「お兄ちゃん、お願いだよう。一緒にお姉ちゃんを探してよう」
「無理だ、そんなの」
 そう答えると、人外は見る見る顔をゆがめて、再びワンワン泣き出した。
「僕は死んじゃうんだ。こんなところに一人にされたらきっと死んじゃう。だって僕、子供だもん。悪い人に捕まって、奴隷にされて」
 人外の姉ちゃんと同じパターンで攻めてきた。いくら子供だからって、俺には俺の人生設計がある。このまま深みにはまったら、それこそ取り返しの付かないことになる。
 もう耳を貸すものか。
「そこを動かないのなら勝手にしろよ。俺はもう知らないからな。お前の姉ちゃんと違って、俺の姉ちゃんは恐いんだぞ。戻ってきたら容赦ないぞ」
 脅してみたが、世の中は残酷だと言わんばかりに、さらに大声で泣き喚く。
 うんざりしてうな垂れたときだった。
「奏―! お前ー!」
 背後から恐怖の声がした。
 全身を粟立てて振り返ると、そこにはこの世の終わりが大津波のように迫ってきていた。
 奏は悲鳴を上げると、慌てて人外を抱きかかえて一目散に逃げ出した。
 人外は意外にも人のような温もりがあった。
「兄ちゃん、追いつかれるよ!」
 抱きかかえた人外が、俺の肩越しに追いかけてくる姉ちゃんを見ているらしい。
 俺はバッグから御札を取り出す。
 狙いも適当に放り投げると「二度と食うかー!」という姉ちゃんの張り上げた声の次に「ぎゃあああ」という悲鳴が聞こえた。
 見事姉ちゃんに炸裂したらしい。
 今度の御札は目を眩ませる程度のものではない。情気と反応した御札は熱を発しつつ、強烈に臭い煙を発するのである。
 刺激的な煙は呼吸器を冒し、一時的な呼吸困難を与える。
 どうにか逃げ切った奏は、もう駄から瘴気を辿って仲間の位置なんか分からないのか?」
「ジンガイってなあに? ショウキって?」
 ああ、人間の一方的な解釈は通じないのか。
 近くの茂みがガサリと音を立てた。
 奏は心臓が縮み上がる思いで身構えた。
 ――風だろうか。
 姉がやってくる目だと道端にへたり込んだ。
 もう二度と家には帰れない。
 どうなってしまうんだろう。俺の人生は。
「ありがとう、お兄ちゃん」
 人外がお礼を言っている。どうして俺は人外にお礼なんて言われてるんだろう。
 惨めになってきたので、あまり考えないように勤めた。
「どうするか。お前、姉ちゃんの場所、分からないのか? 人外なんだ気配はなく、ひとまずホッとする。
 リアルな鬼ごっこでもしているようだ。
「お姉ちゃんの居場所なら分かるよ。北のほうに居るみたい。じっと動かないでいる」
「北? やっぱり居場所が分かるのか?」
「僕は特別だよ。お姉ちゃんには僕のこと、分からないもん」
「お前の何が特別なんだ?」
「僕は特別だから、特別なんだ」
 心なしか誇らしげにそう訴える人外。そりゃ、人外にだって力の差はあるだろう。奏と、奏の弟の階(かい)では、歴史的大差で通力の違いがあるように。
「よし、とりあえずそこまで行こう。そこまで行ったらまた考えよう」
「うん」
 人外がそう言って、奏の手を握った。温かいて。小さな手。
 弱者を擁護しようとする余計な本能が顔を出す。
 よく考えろ。俺が守っていいのは人間で、この人外のチンチクリンじゃない。
 分かってはいるけれど。
「僕、ナユタ」
「は?」
「僕の名前はナユタ。お兄ちゃんは?」
 いかん。名前など聞いたら、余計感情移入してしまう。
「俺は奏」
 それだけ言ってナユタを抱えて立ち上がった。物音を立てないよう、周囲の気配に細心の注意を払って移動する。
 ナユタの指差す方向に向かって出来るだけゆっくり歩く。
 三等級の人外の瘴気ならば、距離があれば位置を悟られる心配はない。
「僕のお姉ちゃんはミユナ」
「ミューナ?」
「ミユナだって」
「ユーナ?」
「……それでいいや」
「ユーナか。変な名前だな」
「そうかな」
 姉が訪れる気配はない。
 大きな公園であるし、何より深夜である。暗闇は奏の味方をした。
「この辺だよ」
 背負っているナユタを地面の降ろす。
 ナユタは勝手に駆け出し、奏は慌てて後を追った。意外とすばしっこいナユタを見失いかけた頃「いたよ。こっち」と声がした。
 立ち入り禁止となっている菜の花畑に、ナユタの姉ちゃんであるユーナが居た。
 奏が追いついた頃には、ナユタがユーナがひしっと抱き合っていた。
 しかも、そこは北に仕掛けていた結界の中であった。
「また、結界に閉じ込められてしまって」
 ユーナが申し訳なさそうに言った。
「次は無いって言っただろ」
 咎めると、ユーナは見る見る顔をゆがめて、弟と抱き合いながらシクシクと泣き出した。
 結界に捕まっているユーナに抱きついているナユタ。もちろん、兄弟揃って結界にとっ捕まっていることになる。
 これは名誉挽回のチャンスではないのか。
 この状態のまま姉ちゃんに突き出せば、最悪の事態は逃れられる。まだ引き返せる。
「なんて私は不甲斐ないのでしょう。親切にしてくださったのに……。二度もご迷惑はかけられません。ごめんね、ナユタ。こんな姉ちゃんでごめんね。わあああ」
 ひしっとナユタを抱きしめて、大泣きするユーナ。するとナユタが「なに言ってるんだよ、大好きだよ、お姉ちゃん」とユーナの頭を撫でてやってるではないか。
 全身から嫌な汗が噴出する。
 二人は泣きながらも、ちらり、ちらりと俺の様子を覗ってやがる。
 そもそも、二度も結界に引っかかる奴が悪い。一度引っかかれば、ここに結界があるなどと想像するのは容易ではないか。
「ああ、神様。どうか私たちを天国にお導きください。どうか苦しまずに逝かせて下さい。無慈悲で残酷なこの方を、どうか許し、地獄などには落とさないでください」
「大丈夫だよ、姉ちゃん。奏兄ちゃんはとてもいい人なんだ。僕だって助けてくれたんだ。地獄に落ちたりしないよ」
「助けてくださったの? なんていい人でしょう。なんて心優しい人でしょう」
 さっきは無慈悲で残酷と言ってなかったか?
「こんな優しい人に、もう無理は頼めないわ。迷惑が掛かってしまうもの。絶対に無理。そう思うでしょ、ナユタ」
 嫌な汗は絶えずだらだらと滴り落ちる。
 その覗うような視線はなんだ。二人してそんな目をするな。
 俺がなにも言わないでいると、再び二人でシクシク泣きはじめた。
 しばらく泣いては、ちらりちらりと俺を見る。
 もう我慢できない。
 俺は結界を破壊した。
 破壊すると、途端に二人は泣き止んで、無言で俺をじっと見詰めている。
「なんだよ。なんか文句あるのか」
 それでも答えない。
 二人はしがみ付きあったまま、ゆっくりと腰を上げる。
「助けてくださるのですか?」
「助けない。逃がすだけだ。次はもう絶対に助けないからな」
 兄弟はやはり無言で俺を眺め続ける。何だ、なんなんだその目は。
「私たち、これからどうしたら……」
 そう来ると思った!
「絶対にこれ以上面倒見ないぞ! 俺に取り憑こうなんて考えるなよ。そんなことしたら抹消してやるからな」
「でも、私たちだけでは食べるものもないし、家に帰る道も」
 図々しいにもほどがある。
 むかっ腹が脳天までやってきて、いっそのこと痛い目合わせたほうが理解が早いのではないかと思い始めた頃、ナユタが言った。
「お姉ちゃん、仕方が無いよ。助けてくれたんだよ。充分だよ」
「でも、ナユタ。ここがどこかだって分からないし、このままじゃ、二人とも死んじゃうよ。お家帰れないよ」
 そう言うと、ナユタが下唇を噛み締め、必死に何かに耐えるように「大丈夫。お姉ちゃんは僕が守るから」と力強く言った。
「ナユタ……」
 今度は奏のほうをチラ見しない。
 奏は悪寒と冷や汗を止められない。
 俺はいい奴だ。自分で良く分かってる。だけどお人好しじゃない。必要であれば、我が子だって谷に突き落とす。そう。筋の通ったいい人なのだ。
「……お前らは……」
 そこまで言って、俺は強烈な腹痛を堪えるように呻いた。
「お前らは、何を食うんだ?」
 ユーナとナユタが俺を見ている。
「聞こえたろ。何を食うんだ?」
 主食は人間です。と言われたらどうしよう。
「何でも食べます。腐ってないものなら」
「野菜とか、果物とか、肉とか?」
 ナユタがゴクリと喉を鳴らしたのが分かった。食べる事が出来るらしい。
「人外が消化できないものはあるか?」
「分からないですけど、たぶん大丈夫だと」
 油断すると、全身がガタガタと震えだしそうなのを必死に堪え、搾り出すように言った。
「安全なところに案内してやる。とりあえず今から言う場所に行け」
 奏は決意を固めなければならなかった。
 
 
 
 琴は北側に設置した檻が破壊されているのを発見し、いよいよ奏と人外は公園の外へ逃亡したことを悟った。
「っく、あの馬鹿が」
 琴はその場で頭を抱えて、どうやって事態を収拾しようか考えた。
 まさか、奏が人外にそそのかされて手を貸して一緒に逃亡しているなどと、どうして説明できるものか。
 あんのやろー。
 自分が何をやってるのかわかっているのか。
 とりあえず、取り繕うしかない。
 一度実家に戻って報告する。
 琴は奏をめちゃくちゃに殴り飛ばす想像をして、どうにかストレスを押さえ込みながら家路を急いだ。
 家に着くと、居間で父親が待っていた。一人、広い座敷の中央で将棋盤を睨みつけながら動かないでいる。
『人外に瘴気あらば、人に情気あり』
 豪快に筆で描かれた掛け軸は、ご先祖様が残した言葉である。
 掛け軸を背景に威かに正座する父親を目の当たりにし、琴は背中にびっしょり汗をかきながら一礼すると、座敷に足を踏み入れる。
 父親と将棋盤を挟むようにして座すると、対局するかのように琴も将棋盤を睨みつけた。
「その様子だと、芳しくないようだな」
 琴は恐ろしくて口が開けない。弁解は用意しておいた。だが、それが喉を憑いて出てこない。
 父親の気難しさを語る眉間に刻まれた皺と、意志の強さを物語る太い眉。視線はかつて獅子と囁かれていた、気の弱い人間なら眼光ひとつで人を殺せそうな緑眼の持ち主だ。
「も、申し訳ありません。私の監督不行き届きです」
「まあいい。事情を話せ。あの馬鹿は何をしでかした?」
「はい」
 決して視線を上げる事が出来ず、顔を伏せたまま事情を説明した。
「日中のうちに私が仕掛けた檻に二体の人外が掛かっておりました。東と北の檻を奏に確認しに行かせた際、どうやら奏は人外に近づきすぎ、瘴気に中てられてしまいました」
「瘴気に?」
「はい。瘴気に中てられた奏は、人外に操られてしまい、結界を壊すと人外を逃がしてしまいました」
「ふうむ。困ったな。奏はまだ人外に操られたままなのか?」
「はい、恐らくは人外とともに行動しているものと思われます。ただし、三等級の人外であるため、命の危険はまずありません」
「そうか。それで逃げ先の見当は付いているのか?」
「それが……」
「見当付かないか」
 いつ父親の雷が落ちてくるのか、ことはそればかりを心配した。
「さて。ここでお前を叱り付て尻ぬぐいするのは簡単だ。だが、ここはお前の監督役である私の責任範疇で指示を出そうじゃないか」
 琴は始めて顔を上げる。
 父親はなんとも言えず穏やかな目をしていた。
「夜明けまでに奏を連れ戻し、人外を殲滅せよ。それが出来れば、このことの監督責任は不問と処す」
 一瞬、父親の言っている事が分からなかった。
 いや、分かっていた。
 容赦なく厳しいこの父親が、失敗を不問にすることが信じられなかっただけだ。
 私の責任問題を、更に上位の父親がまとめて包括し、責任を取ると言っている。
 ありえない。普段なら。
 私が少しでも失敗しようものなら、嬉々として身を乗り出し、事態を収拾しようとするはずだ。
 これは、奏のためである。
 どういう意味があるのかは計り知れていない。だが、今回のような琴が唖然としてしまうような決断を下すときは、いつだって奏が絡んでいる。
 父親は奏に甘い。
 どうしてか、父親は奏に愛情を注ぐ。
 そのことについて、琴は特に嫉妬したりはしない。父親に対する尊敬の念は揺るがないし、私だって愛された。
 エリートの知性派の兄。神通力において天才的な弟。ずば抜けていないが、私だってバランスの面では優れた術師であるはずだ。
 前代未聞の劣等生の弟に甘いのは、私が弟を愛する気持ちと同じなのか。
 これは夢物語ではない。都合よく劣等生が天才を打ち破るような幻想世界ではない。
 奏は明らかにこの世界には不適合である。それなのに父親は何かを奏に期待しているとでも言うのか。
「分かりました。夜明けまでに奏を取り戻し、人外を殲滅します。ただ……ひとつ気になる点が……」
 今回の人外は、人間に酷似した人型であると言うこと。説明すると、父親は口元に手を当て、しばらく考え込む仕草をする。
「少し調べてみるか。まあ、お前は気にするな。奏の奪還と人外の殲滅。それだけに集中しろ。何かあったら連絡する」
「はい」
 琴は父親に一礼すると、居間を退散した。
 襖を閉めて、額に溜まった汗をぬぐいながら溜息を漏らすと、深夜まで勉強に勤しんでいた一番下の弟とすれ違った。
「ねえ、馬鹿兄が瘴気に中てられて、人外に操られたって本当?」
 一番下の弟の階が訊ねてきた。先ほど父親に話して聞かせたばかりで誰も知らないはずだった。こいつ、傍耳を立ててやがったな。
「そうね」
「あんな簡単な仕事で失敗するなんて、スクール生の僕だって、そんなヘマしないと思うよ」
 それはそうだ。スクールで実地の授業は山ほどある。奏だって、それは分かっているだろうし、瘴気を遮る御札だって発動して装備しているはずだ。
 瘴気に中てられた所業ではない。それは琴の都合のいい理屈である。
 おそらく今回の失敗は、組織でも奏しかやりえない失敗なのであろうと思った。
 わざと人外を逃がすなどという破天荒な所業など、あいつ以外の誰がやるものか。
「まあ、そう言うな」
 別の方向から声がした。
 弟と一緒に視線を転じると、廊下の先から一番上の兄である弦(げん)が歩いてくる。
「帰ってたの?」
 普段、本部勤めの兄は、職場の近くに下宿している。
「ちょっと、古文書を調べにな」
 嘘である。これでもここに集った三人は奏の兄弟である。みんな奏が心配なのだ。
 わざわざ遠い下宿からこんなところまで古文書を調べにくる必要などどこにもないし、こんな夜更けに起きて家を徘徊している理由も無い。
 琴は立ち去ろうとした兄を引き止めた。
「弦(げん)兄さん、ちょっと聞きたいんだけど」
「うん?」
 振り返った弦の表情は微笑んでいる。だが、虎眼の持ち主と言われた父親の眼光を引き継いでいるのは、間違いなくこの弦だ。
 弦は自分の表情が、相手にどのような影響を与えるのか、よく知っているからこそ普段はいつも微笑んでいる。
「人間相手に有効な御札ってあるの?」
「人間相手の?」
 兄は微笑を一瞬だけ素に戻すと「あるにはあるが」と視線を巡らす。
 巡っていた視線が琴で止まると、探るように琴を睨みつけた。琴は背筋が凍りつく思いがした。緑眼。この緑色を帯びる眼は一体なんなのか。
「ただし、人相手の御札は禁忌とされているけどな。まあ失われた技術だから製造できる者はいない。先祖の書き残した禁忌の古文書を検索すれば製造方法くらい載ってるだろうけど。もし、そんな御札を製造して使用する奴が居たら、そいつは組織に対するテロリスト同然だ」
 弦の言葉を訊いて、ぞっとするしかない琴であった。このままでは奏を擁護している私だって、監督責任を問われるどころか、同じテロリストにされかねない。
 琴は頭を抱えて踞ってしまいたかった。
「まさか、使った奴を知ってるとでも言うのか?」
 緑眼が私を捉える。
「し、知らないわよ。ただ、ちょっと興味があっただけ」
 苦しい弁解を見破られてしまっただろうか。ところが兄は私に背を向けると、気にするそぶりも見せず廊下の闇に消えていった。
「人間に有効な御札ね」
 一番下の弟、階が顎に指を当てて思案した。
「もしそんな御札を作れるとしたら、御札の構造や材質をよほどマニアックに把握していて、しかも組み込まれているプログラムにアクセスできるパスワードみたいなものを解読できた人間、ってところかな」
「そんな難しいの?」
「お姉ちゃんは壊れた精密機械の複雑な集積回路を見て修理できる?」
「出来ないわよ」
「仕組を知れば出来るかもしれないけど、さっき弦兄ちゃんが言ってたように、人間に有効な御札は禁忌なんだ。マニュアルは封印されていて、誰も製造法を知らないんだよ。江戸時代の人間がパソコンを修理しようとするようなもんなんだ。修理するには宇宙語に等しいプログラム言語を理解して、組み替えないといけない。マニュアルが無い以上、それら暗号の集合体をひとつひとつ解析して、充分理解しなければ、そんなの作れやしない。何を心配してるのか知らないけど、絶対無理だって、そんなの」
「む、無理なの? 絶対に?」
「無理。ありえないね。古文書があるとしても、本部の高セキュリティエリアに厳重に保管されているだろうし、誰にも閲覧できない。御札の仕組を解析するより、本部の高セキュリティエリアに侵入することのほうが難しいだろうし」
 琴はしばし言葉を失う。
「御札を製造している教官レベルでも無理なの?」
「だから言ってるだろ。御札を製造している上位の術師は、魔法瓶に熱湯を注いでるようなもんなんだ。どうして魔法瓶に入れた熱湯がいつまでも冷めないのか、そんなの理解しているわけじゃないよ」
 絶句した。
 ひょっとして、父親が奏を必要以上に溺愛する要因が、まさにそこにあるのではないか。
 
 
 
 さて、深夜でもやっている商店といえばコンビニエンスしかない。なけなしの小遣いをはたいてコンビニで購入したのは、ミネラルウォーター二本と弁当二つ。
 それで小遣いは底を付いた.
 コンビニ袋を携えてやって来たのは、工事途中で頓挫したマンション建設現場。ほぼ完成に近かったが、この町の市長が変わった折、市民からの猛反対を受けて、市会議員の宿舎になるはずだったマンションは、完成間近で放置されたまま民間企業の買い手を待っていた。
 工事現場は不法侵入を抵む余りに、外界からの遮蔽性も高かった。
 人も立ち入らない、誰も管理しないこの場所にいる限り、人外を抹消せんとする術師に見つかる心配は軽減された。
 マンションの周囲に張り巡らされた金網を乗り越えて、マンション内に立ち入ると明かりは一切なく、マンション全体に覆われたシートが風になびく音ばかりが暗闇に響いていた。
 不気味である。一人ならこんなところ来たくも無い。しかも、ここで待っているのはこの世のものではない人外二人。
 何度も何度も重い溜息を漏らしながら、約束の場所に行く。
 建設中マンションの奥まった窓もない場所。そんな場所を見つけて隠れていろと伝えたが、正確な場所は奏にも分からない。
「ナユタ、ユーナ、いるか?」
 声を上げると、かすかに「こっち」と返事が聞こえた。
 暗闇の中で、小さな声はおどろおどろしさに拍車をかける。
「こっちこっち」
 マンションのエントランスをまっすぐに行った突き当りの廊下の過度から、半身を乗り出して俺を手招くナユタの姿が見えた。
 ナユタは仄かに発光しており、暗闇の中で見ると少々不気味である。改めてナユタが人外であると認識した。
 ナユタに手招かれるがまま後を付いていく。ナユタとユーナが隠れ家に選んだのは地下の小部屋で、恐らくここは災害時用の備蓄食料などを保管する地下保管庫のような場所に思えた。
 窓がなければ月明かりも無く、そこは暗闇である。だが、ナユタもユーナも仄かに発光しているせいで、すぐに居場所が分かる。
「まずはこれが食えるかどうかだけど」
 床にコンビニ弁当を置いた。
 ナユタが興味津々そうに弁当を眺めている。ユーナが先に弁当を手に取り、毒見でもするように恐る恐る口に運ぶ。持っているのはプラスチック製のスプーン。慣れた様子を見ると、隔世にもスプーンは存在するのだろうと思われた。
「大丈夫です。食べれます。むしろこんないろんな味がして、とても美味しいもの食べたこともありません」
 そう言うと、ナユタも弁当にがっつき始めた。
「水もある。飲んでみろ」
 ミネラルウォータを差し出すと、さすがにキャップのはずし方が分からず困惑している。キャップをはずして改めて手渡すと、少量の内容物を口に含んで見せる。
「大丈夫です。普段飲んでいるものと変わりありません」
 姉に習ってナユタも水を飲んでみせる。ナユタには感想は無い。
「不思議だな。どうして食べ物が大丈夫なんだ? 水もそうだけど、お前ら本当は、こっちの世界にずっと住んでたんじゃないのか」
「私、ここで待ってる間ずっと考えてたんですけど、奏さんの話し振りを聞いてると、私たちは別の世界から違う世界に飛んできたように聞こえるんですが……」
「だから、そうなんだよ」
「ええ!?」
 ユーナは驚いて、目を丸くする。
 今更かよ。
「でも、信じられないけど、そうなのかもしれません。ここに来るまでの間に見たのは、元の世界とはまるで別。建物も風も匂いも。それに、あの結界と呼ばれる見えない箱は、私の全く知らないものです」
「この世界の住人だってほとんど知らないけどな。お前の住んでた世界はどんなところなんだよ」
「どんなところといわれても。私は奴隷の身ですし、三ツ目族の方々は別の言語を喋ります」
「三ツ目族?」
「知らないんですか? ここにはいないんですか? あなたは奴隷ではないんですか?」
「三ツ目族なんていない。俺は奴隷でもないし、高位の人間でもない」
「じゃあ、誰が支配してるんですか?」
「支配? まあ、誰かが支配してるのかもしれないけど、俺の世界は、少なくとも俺の知っている小さな世界では、多勢の人が相談して、みんなの代表者を決めるんだよ。その人がみんなのために色々決めごとをする」
「本当ですか? なんて素晴らしい世界なんでしょう。ああ、ここはひょっとして理想郷なのでは?」
 理想郷でありそうな裏側では、今でも奴隷制は色濃く残り、民族差別、迫害、殺戮は現在もなお続いている。そんな話は今すべきではないと思った。
「奴隷制のあるような君の住んでたところよりは居心地はいいかもしれないな」
「本当に。ここに私の住めるような場所はないのでしょうか。もし良かったら私の家族も連れてきて一緒に住めたら。ほら、顔だってよく似てるし、私もあなたと一緒に暮らせるかもしれません」
 なぜか希望に満ちた瞳を輝かせるユーナ。そんなに元の世界の暮らしは大変なのか。
「残念だけど元の世界に君を戻す方法は無いんだ。それに、元の世界から誰かをこっちに呼び寄せる術も無い」
 希望に瞳を輝かせるユーナに、俺はひどく残酷なことを言おうとしている。それなので言葉を途中で区切り、別の質問をした。
「元の世界には君のように言葉を話せる人が沢山いるのか?」
「はい。いま私が使っているのが奴隷の言葉です。高貴な言葉は三ツ目族か四ツ目族が使います。三ツ目族に対して対抗的な獣族も私と同じ言語を使っています。獣族は多言語ですのでこの言葉だけじゃないですが」
 また新しい種族が出てきた。とりあえず聞き流し、奏はバックから図鑑を取り出した。
「ここに載ってるものが、いまこっちの世界で分かってる、君の世界の生物なんだけど」
 ユーナが興味深そうに図鑑を眺める。その横からナユタも覗いた。
「これは、ほとんど森の動植物や家畜の類ですね。私の種族や別の種族は載ってないです。言葉は悪いですが低俗な動物ばかり。獰猛な動物も載ってますが、言葉を話す生物はひとつも載ってません」
 ううん、と奏は悩み始める。
 ひょっとして、俺はものすごい大発見をしているのではないか。
 この世に人の社会が出来てから存在するといわれる組織が、何千年も知らなかった事実を、いまあっさりと知ってしまっているのではないか。
 ひとつ疑問がある。
 どうして何千年も現れなかった隔世の言葉を介する人外が、この現世に一度も現れたためしがないのか。あるいは、どうして今になって現れたのか。
 ユーナは図鑑から視線をはずすと、ふう、と溜息を漏らした。
「どうした?」
「あのう、私たち、これからどうなってしまうんでしょうか」
 そんな質問、俺には答えられない。生き延びるのなら、このまま一生逃げ続けなければならない。
 だが仲間もいない。孤立無援の別世界。こんな本性の知れない人外を世界に受け入れるほど、人間の頭は柔らかくないのだ。
「君たちが人間のふりが出来ればいいんだけど」
 独り言のように呟くが、人外に瘴気あらば、人間に情気あり。瘴気と情気は相容れないものであり、交じり合えばお互いに悪影響を及ぼす。
 だからこそ、現世と隔世の隔たりが生まれたのかもしれない。世界がなくなってしまわないよう、神様が二つの世界を分けたのだ。
「人間のフリですか……」
 ユーナが悩んでみせる。気づくと、食事を終えたナユタがユーナの膝枕で寝息を立てている。
「とりあえず、休んだら?」
 はい、と小さく声を上げるユーナ。
 ふと気づく。布団が無い。
 夏に近い季節、布団なしでも風邪など引きやしないだろうし、人外が風邪を引くのかどうかも分からないし、人外が普段、布団を敷いて眠るのかどうかも分からない。
 だからって布団を用意してやるのが人情だ。
 奏は頭が痛くなってきた。
 とんだ初仕事になってきた。
 一体、この事態の結末は、どんな風に締括られるのか。
 俺の将来はどうなってしまうのか。
 俺が立ち上がると、ユーナが「どこに行くんですか?」と不安そうに訊ねてきた。
「布団になるようなものを捜してくる。それに人間の発する情気は、君たちには毒なんだよ。俺は君たちの発する瘴気を防ぐ御札を身に付けてるけど、あんまり一緒にいると、お互いに悪影響だ」
「一緒に居れない?」
 そう。彼女が一瞬でも希望に感じた、こっちの世界に順応するという案は、そう言った理由で実現が出来ない。
 残酷なようであるが、人間の情気に中てられ続ければ、ユーナもナユタもいずれ病を患い、死ぬ運命にある。
 強い人外で、持って三年。
 恐らく二人は、現世での寿命は三ヶ月程度だろう。そのうち半分は病に倒れ身動きすら取れない余生になる。逃げ切れたとして、この二人の運命は結局残酷なものであるのだ。
「奏さんが付けてる御札を私も付けたら」
「瘴気を抑える御札を君が付けたら、エネルギーの源である瘴気が抑えられて、君は弱ってしまうよ」
 そう言った瞬間、俺は何かを感じた。
 なんだ? いまの自分で発した言葉に、とんでもないヒントが。
 直前にひらめいた「なにか」は手に救った水のようにこぼれて失われていく。
 だめだ。分からない。
 いま、何を思いついたのか。
「とにかく今は休んでろよ。ちゃんと戻ってくるから」
 そう言い残して部屋を出た。
 念のため、装備を確認しておく。
 人間に有効な閃光札がひとつ。それに人外に有効な殲滅札と煽風札がひとつずつ。効力解除の札は、姉に全部使用してしまったため、残っていない。残りは結界作成の札と、瘴気を防ぐための御札、戒具は通力の無い奏には使用できないため、装備していない。
 なんとも心許ない装備だ。
 今、琴に攻め込まれても勝ち目はない。
 ーーしかし、腹が減った。
 金銭的都合で、弁当はユーナとナユタの分しか買えなかった。
 鳴る腹を抑えながら、どこかに布団代わりになるものはないかとマンション内を探索していると、突然、嫌な予感に駆られた。
 ぞくぞくと爪先から股間にかけて悪寒が走る。続けて脳天にビリビリと微電流のような刺激。
 奏は思わず振り返った。
 振り返った先には自分が歩いてきた闇。
 ――くぉうら! 奏、てめえ! この中にいるのは分かってんだぞ!
 姉の怒鳴り声が聞こえた。途端に恐怖で全身が痺れだす。
 じっとりと全身に冷たい汗が噴出すと、拡声器からのものであろう姉の声が再び森閑のマンションに轟く。
 ――マンションの周囲に結界を張った! お前は逃げられるだろうが、かくまっている人外は逃げ切れないぞ! いいか、猶予をやる! 三十分以内に出て来い! そうすればお父さんには上手く話して置いてやる! 出てこなかったらぶっ飛ばすからな!
「深夜に近所迷惑だろ」
 悪態づいてみせるが、声は震えている。
 パニックに陥って、その場でおろおろと地団駄を踏んでいると、何事だとナユタを抱いたユーナが姿を現した。
「なんですか、今の声」
 血の気が引いて卒倒しそうな意識を必死に繋ぎとめつつ、奏は答える。
「姉ちゃんだ。姉ちゃんがその気になれば、俺なんかすぐに捕まっちまう。おまけにここに結界を張ったらしい。まさか、こんなに早く居場所がばれるなんて」
「結界って、例のですか?」
「そう」
「私、結界に囚われるの、三回目ですね」
 そう言ってユーナが照れくさそうに笑ってみせる。何をほのぼのと。この緊急事態が分かっていない。
 ところが、ユーナは笑った直後に「いいんですよ」と憂いそうに言った。
「こんなに良くしていただいて……。私も自分の置かれてる環境がなんとなく分かってきたんです。あなたが私にしてくださっている事の重大性も分かりました。私たちのためにあなたが自分の立場を失うようなことは無いんです」
 またこの作戦か。
「もし私とナユタが元の世界に戻れたとしても、二人とも奴隷の身。いつ命を失いか分からない日々が戻ってくるだけです。それならばこちらの世界で滅したとしてもなにも変わりはありません」
 様子が違う。今度は泣いたり様子を覗ったりしてこない。
 ただうつ向いてユーナは話を続ける。
「御札、でしたよね。それで私とナユタ、すぐに消滅できるんですよね。痛いんでしょうか。苦しまないでしょうか」
「一瞬だから、なにも分からないうちに消え失せるよ」
「良かった。なら、せめて私たちに良くして下さったあなたの手で、私たちを滅してください。ナユタが眠っているうちに……」
 今度は本気だろうか。
 そんなこと、俺が出来やしないと高をくくって同情を誘っているんじゃないのか。
 釜をかけてみよう。ここはひとつ、試してみようじゃないか。
「いいのか? 本当に消滅してしまっても。俺の話して聞かせたことは全部、作り話かもしれないぞ。本当はどこかに君の住んでる土地があるかもしれないとは思わないのか?」
「はい。なんとなく分かるんです。奏さんの言っていた情気っていう人の発している気が私たちの体力を奪っています。そのうち私もナユタも病気になって苦しみながら死ぬ事になるのでしょう。それに、私たちがあなたの世界にとって悪いものであるというのも分かります。実は、私たちの世界にも時々、おかしな生物が現れます。それは悪い気を放っていて、人々を病気にすると言われている動植物です。今考えてみれば、それはこちらの世界からやってきたものだったんですね」
 現世からも隔世に動植物が行くことがある。その説は古くから可能性として語られてきたが、宇宙に宇宙人が存在するという仮説同様、実証されていなかった。
 ユーナはこれから先、短い寿命であろうとも、数々の新事実をその口から語ることになるだろう。人間の物差しで計れば、これほど重大なことは無い。
 ――五分経過!!
 姉の、女と思えないがなり声が聞こえる。
「ユーナとナユタの現世での寿命はおおよそ三ヶ月」
 ユーナが顔を起こす。
「まだ時間はある。それまでにどうにか隔世に戻る方法を考えてみよう」
 ユーナが目を丸くして、俺を見ている。
「まだ二人とも生きてるんだ。死に急ぐ必要はない。それに、人外抹消の御札は持ってないんだ」
 突然、ユーナが目を潤ませた。
「なんて、優しい人」
 ユーナはそう言って、俺に抱きついてきた。
「ありがとうございます。私、あなたに全てお任せします」
 おお。
 何を俺は人外にときめいてるんだ。
 まるで女のような抱き心地。
 いや、女なんて今まで抱きしめたことなんてないのだけれど。
 でも。
 ああ。
 深みに嵌って行く予感。
 ――十分経過―! コラー! まだかー!
 琴の声で夢から覚める。
 張り付いていた二人が離れると、改めて今の窮地を思い知る。
 ユーナが不安そうに「どうしたら……」と小さな声を出す。
 どうしたらいいんだろう。
 俺一人なら逃げ切れる。
 だけど、結界がある以上、ユーナとナユタはこのマンションから出ることは出来ない。
 後二十分の猶予が終われば、琴はマンションに踏み込んでくるだろう。
「後二十分……」
 何か考えろ。
 結界の外へ逃れるには、結界を破壊するしかない。
 だが、破壊したら最後、外に出ようとしているのがばれて捕まる。結界はワナだ。琴は俺が結界を壊すのを待っている。
 琴に気づかれずに結界を壊す。そんな方法が無いか。――思いつかない。
 琴がマンションに踏み込んでくるのを待ち、罠を張る。琴が罠に嵌って動けないうちに結界を破壊して逃げる。
 これが一番堅実な方法か。
 問題は罠作りである。
 どうやって琴を身動きの取れない状態に嵌めるか。でも、どこかの部屋に閉じ込めてしまったら、出れなくなってしまう。琴は携帯電話を持っているのだろうか。誰かに知らせて、ここに来ているのだろうか。
 ――奏にいちゃーん! おおーい!
 琴とは別の声がした。すぐに気づく。
 一番下の弟である階だ。
 ――瘴気に中てられて、人外に操られてるんだってなー。
 次に聞こえたのは一番上の兄貴の声。弦の声だ。
 琴一人ならまだしも、兄弟が三人そろってしまった。
 しかもエリート術師の弦と、通力の天才の階。この状況にあって、逃げ切れる可能性は……。
 俺がよほど絶望的な顔をしていたのか。ユーナが悲しそうに「やっぱり、駄目なんですね……」と暗い声を出す。
「駄目じゃない。まだ時間はある」
 琴は正面玄関付近から拡張期で「あと十五分」と怒鳴っている。
 まだ、逃げ出すための良い案は浮かんでいない。
「ユーナ、君はなにか特別な力を持ってるか?」
「特別な力? 私、なにも……」
 人外だからって超能力者ではない。
「ごめんなさい、私、何も役に立てなくて」
 心底申し分けなさそうにうな垂れる。
 本当に何の力も無いのか。例えば奏がジャンプして三十センチ以上高く飛べる事は、現世では誰でも出来る常識的なことであるが、ユーナにとってはとんでもない超能力に感じることかもしれなし、ユーナが常識的に持っている力が、俺にとっては超能力であるかもしれない。
 だが、それをゆっくり聞き出している時間は無い。
 ――後十分だぞー!
 長男の弦の声だ。
 なんだって、こんなときに限ってほとんど家に帰ってこないような奴がここにいるのだろうか。
 普段、俺に無関心な弟の階しかり。
 嫌がらせだとしか思えない。
 時間が無い。
 奏は再度、装備を確認した。
 人間に有効な閃光札がひとつ。人外に有効な殲滅札と煽風札がひとつずつ。結界作成の札が四つ。瘴気を防ぐための御札が二つ。
「やっぱりこれしかないか」
 奏が一人ごちる。ユーナが不思議そうに奏の顔を覗き込んでいる。その顔を見返る奏。
「ちょっとつらいだろうけど、試してみる価値はあるかもしれない」
「何か方法が……?」
「多分、行けると思う。でも、ユーナやナユタにはちょっと辛いかもしれない」
「大丈夫です。なんでもします」
 本当に大丈夫だなんて保証は無い。駄目だったらどうするか。こんな貧相な装備に、三兄弟相手に正面突破はありえない。
 ――後五分だよー!
 階の声。
 三人とも同じ方向から声が聞こえてくる。正面玄関の付近だ。
 やるしかない。駄目でもともとだ。
「ユーナ。正面玄関から反対側の裏口のところで待っててくれ。猶予時間が終わった直後にそこに行くから、絶対に動かないで待っててくれ」
 ナユタを抱きかかえたユーナがひどく神妙な顔で頷いた。
 ユーナと別れる。
 奏は意志を固めなければならなかった。
 あの兄弟たちに歯向かうなんて。
 考えただけで気が遠くなりそうだ。
 
 
 
「時間切れよ! 待ってなさいよ、奏! きつーいお仕置きしてあげるから!」
 琴が拡声器から怒鳴り散らすと、鬼の面を階に向けた。
「階、いま奏はどこにいる?」
 階は地べたに胡坐を掻きながら「ううん、多分、マンションの奥」と答える。
 三等級の弱い瘴気でも、察知して探査できるのは通力の強い階だけの能力だ。
 このマンションに潜んでいると、見つけ出したのも階だ。
 それにしても、三十分もの猶予を与えてあげたのに、まったく顔を出さないとはどういうことだ。
 泣きながら「ごめんよー」と顔を出すものだと高をくくっていた琴の想像を裏切った奏に対する怒りは頂点に達しようとしている。
「じゃあ行きますか」
 のそり、と長男の弦が足を踏み出した。
「かわいい弟の尻ぬぐいをしなくちゃな。まったく、とんだ問題児だ」
 全くだ。こんな優しい兄弟を持ったことを誇りに思え、奏。
 三人はマンションの正面玄関に立ち入る。
 その時だった。
「待って」
 そう言ったのは私ではない。弦でも階でもない。
 マンション内の暗闇から、奏の声が聞こえてきたのだ。
「奏、もう遅い! 今からそっちに行くからな!」
 琴が声を張り上げると、暗闇から「ちょっと話を聞いてくれ」と奏の声。
 容赦無用と足を踏み出した琴を制したのは弦。長男は穏やかそうに笑みを作っている。
「奏が俺たちに口答えなんてしたためしがあったか? ちょっと面白そうだから、あいつの言い分も聞いてやろうぜ」
 面白そうだから、という部分が、この男の屈折した人格を物語る。
「結界を解いて見逃してくれよ、姉ちゃん。あの人外、そんなに悪そうなやつに見えないじゃないか」
「馬鹿言ってんじゃないわよ。人外は存在そのものが悪なのよ。あんただって人外といつまでも一緒にいれば、あんたが病気になるわよ」
 暗闇の向こうの奏の姿は見えない。だが、すぐ近くにいる。
「でも、俺、思うんだよ。どうして悪者だって決め付けて、すぐに抹消しなくちゃいけないんだろう。もしかしたら瘴気を取り除いてあげれば、共存だって出来るかもしれないだろ」
 それには弦が答える。
「人外にとっての瘴気は、生命力と同じだ。取り除けば人外にとっての死となる。人外は生きている限り、人間にとっての百害になる。しかも、一利もない」
「でも、現世には毒蜘蛛だって、獰猛な野獣だっているわけだろ。でも、人間はどんな生き物だって保護したりするじゃないか。どうして人外は殺さなくちゃいけないんだ?」
「毒蜘蛛も野獣も、それは現世にとって必要な動植物だからだ。なにも人間だけに害があるから人外を駆除しているわけじゃない。人外は瘴気を発する限り、現世にある全ての生命に疫を与える。そのことで現世の生態系が破壊され、深刻な状況に陥る危険がある。人外を隔世に押し戻す、またはイスカ領域を閉じる方法を見つけない限りは、駆除していくしかないんだ」
 暗闇から、奏の声がなくなった。
 そんなこと、奏にだって分かってるはずなのに。
「奏はまだそこにいるの?」
 小声で階に訊ねると、言葉なく頷いてみせる。
 奏は心が優しすぎる。この現世に押しなべて悪影響を与えると分かっている人外を擁護するなんて。
 奏は全人類が滅びると分かっていても、一番傍にいる大切な人を守ることを選択するかもしれない。
 悲しいが、そんな危うい奴が、この仕事をしていいわけがない。
「分かった!」
 奏が暗闇から声を上げた。
「そんなに人外が悪いというなら、俺が見つけてやる!」
「見つける? 何を?」
 弦の表情が変わったのが分かった。
 何を見つけるの?
「俺が、人外を隔世に戻す方法を絶対見つけてやる。だから、逃がしてくれよ!」
「いつまでも馬鹿なことを言ってるんじゃない!」
 弦が怒鳴った。
 ビリビリと、弦の通力が電気のように肌を刺激する。
「お前一人を捕らえることなんて簡単なんだぞ。相手が兄弟だと思って甘く見てるのなら、お前がしていることの重大性を、嫌というほど思い知らせてやる」
 弦の発散する情気は、弱い人外であれば浴びただけで滅びそうである。
 分かって、奏。弦もあなたを心配している。強引に捕まえるより、あなたが気づいて、自分でここまで歩いてくることを望んでいる。
 しばらくして、小さな奏の声が聞こえてきた。
「逃がしてくれないなら、自分で逃げる」
 確かにそう聞こえた。
 逃げる? その方法があるとでもいうのだろうか。
「行くぞ、琴。仕方がない。少々、厳しいお仕置きをしてやらないとな」
 私たちはマンションに踏み込んだ。
 ――瞬間。
 まばゆい閃光が走ったかと思うと、マンション内がモノクロに目に焼きついた。
 カメラのフラッシュのごとく、目を焼いた閃光は琴の視界を失わせた。
 私は愚かだ。同じ手に二度も掛かるとは。
「なんだ今のは!」
 隣で弦の声がする。弦も目を焼かれたらしい。しまった。説明しておくべきだった。
 だが、言えなかった。奏が、もしかしたら禁術に手を出しているかもしれないなどとは。
「目がいてー」
 階も声を上げている。三人揃って、閃光に目を焼かれてしまったらしい。
 一時はパニックに陥ったが、視界を数秒奪われたところで、人外とともに結界の外へ逃げられるとは思えない。
 それに、結界の御札は巧妙に隠してある。奏が走り回って結界の四隅に設置した御札を捜そうとしても、そう簡単には見つけられないだろう。
 ただの足掻きだ。
「やばいよ」
 階が不意に声を上げた。
「やばいって?」
 琴が戦慄しながら階に訊ねる。
「良く分からないけど、人外の気配が消えた。どういうことだろう」
「気配が消えたって……」
「奏が自ら、人外を葬ったか」
 弦の呟きが聞こえた。
 気配が消えたのなら、奏が観念して人外を抹消したのかもしれない。
 だけど、おかしくないか。
 去り際の奏は、確かに「逃げてやる」と言ったのだ。言動と行動が矛盾する。
「結界は壊されていない。とにかく、中に入って捜すぞ」
 ようやく視界が回復してくる。残像は視界を邪魔するが、歩けないほどではない。
 結界の高さは約二メートル。マンションを取り囲んでいるから、仮に人外がまだ生きていたとしてもマンション一階か地下にいるだろう。
「琴、念のため、逃げ道を封鎖しろ」
 弦の指示は、廊下に結界の幕を張って行動範囲を狭めて行き、奥に追い詰めよ、ということだ。
「念のため言っておくが、頭を柔軟にしておけ。相手はたかが奏だが、組織には人外を擁護して逃げ回る奴を追い詰めるマニュアルは存在しないし、スクールでも習わない。そんな奴が過去に存在したためしがないからな。これは俺たちにとっても試練だ。よく考えろ」
 よく考えろ。結界を壊さずに人外を外に出す方法があるのだろうか。
 そんなこと想像したこともない。
 弦は懐中電灯を点し、前方を照らした。
 見えるのはコンクリートの打ちっぱなしされた壁と床。まだ装飾などされておらず、付近には埃が舞っている。
「階、気配はないの?」
「ない。情気は察知できないから、奏の居場所は分からないし」
 奏は人間であるから、結界の外へは自由に出入りできる。一人で逃げたとすれば、ここにはもういない。
「三手に分かれるぞ。通った廊下には結界を張れ」
 弦の合図で、私たちは三手に別れて奏の捜索に向かった。
 
 
 
 そして、捜索開始から三十分後、再び合流した三人は呆然とさせられたのであった。
 汗だくになった三人は、顔を合わせると無言で首を横に振った。
「逃げられたか。まあ、奏一人で逃げたのなら問題ない。人外が駆除されれば悪影響はないからな」
「まったく、馬鹿兄貴が」
 階が溜息を付いた後、大あくびをした。
「もう眠いよ。なんか明るくなって来ちゃったし」
 夜明けである。
 徐々にマンション内も黒から灰色に変わりつつある。
「奏は取り逃がしたが、人外は抹消した。そう親父に説明しよう。後は親父の判断に任せて、とりあえず俺たちは家に帰って一眠りするか。俺は明日も普通に仕事だからな」
 今から眠って、何時間眠れるのか。
 私だって大学生だ。
 明日は学校がある。
 そういえば、奏も学校だ。
 この様子だと出席する様子はないだろう。
「やれやれ。仕事だってこんな疲れやしない。琴は結界に使った御札を回収しておいてくれ。親父の説得役は俺がしておくよ」
「でも、私が監督だし」
「いいんだよ。琴の監督はどうせ実地研修だし。本当の監督は俺なんだから」
「え?」
 だから、普段帰ってこない弦が珍しく家にいたのか。私も奏も初仕事だったと言うことか。そう言えば、琴の初仕事は兄さんが監督だったのだし、当時の兄さんの役割を駆け出しの私が担うなんて、荷が重いと思っていた。
「言っとくけど、俺は慈善事業だぜ」
 階が不機嫌そうに言った。
 
 
 
「も、もう……いいでしょうか……」
 ユーナが力なく声を上げる。
 ユーナが俺の背に乗り、腕の中にはナユタ。
 女と子供といえども、かなりの重量を抱えながら、三十分以上も歩き続けている。
 ぜえぜえ息を付きながら、これだけ離れれば大丈夫だろうと、二人を地面に降ろした。
 周囲は明らんでいる。朝が訪れる直前の青の世界。
 周囲は住宅街。
 先ほど新聞配達員がバイクで追い越していった以外に人通りはないが、もうすぐ活発に人々が活動しだす時間だ。
「苦しい。まだですか?」
 幸い人外は人間には見えない。人に見られても、奏が一人、息切れ切れに歩いている姿が目撃されるだけである。
「私、もう限界……」
 仕方無く、奏はユーナの首からネックレスのように掛けていた御札をはずす。すると、水の底から這い出たかのようにユーナは息を付いた。
 ナユタからも御札をはずしてやると、久しぶりに呼吸したかのようにゼイゼイと息を付いた。
「大丈夫か?」
「ええ。大丈夫です」
 気丈に返事をするユーナ。
 ナユタは眠っている間に御札を首に掛けたため、夢にうなされているくらいなものだろう。だが、二人とも体力を喪失したことに変わりはない。
「うまくいったな。半信半疑だったけど」
 ユーナとナユタの首に掛けていたのは、瘴気から身体を守る御札。護符と呼ばれているが、本来は人間が付けるもので、人外の発する瘴気をある程度防いでくれる。
 これを人外に付ける。マンションの地下でもユーナと話したことである。
 護符を身に付けるとこで、人外の発する瘴気を抑え、瘴気に反応する結界から抜け出る事が出来るのではないか。
 試す暇はなかった。一発本番で奇跡的にも成功した。
 だが、ユーナとナユタの身体には非常に負担が掛かっただろう。現世で生きられる寿命を縮めるような行為である。
 どのくらい縮んだのか分からない。
 だが、あの三人から逃れるにはそうするしかなかった。
 階の気配察知能力から逃れるため。あわよくば、気配が消えたユーナとナユタが抹消されたと勘違いしてくれればと画策したのだ。
「休む場所を見つけよう。イスカ領域が傍になくて、術師が近寄らない場所がいい。なるべく生物のいない場所」
 一番は建物の中が良い。自然界の生物から一番隔離された場所。
 誰も立ち寄らないような場所。
 くそ、あのマンションが理想的な場所だったのに。
 悔やんでも仕方がない。
 ああ、なんで俺はこんなことで悩んでるんだ。
 幾度となく繰りかえした自問自答。
 こうして初仕事ならが失敗し、俺は人外二人を連れて逃亡生活に入ったのだった。
 ところがこの逃亡劇は、後に世界を巻き込むとんでもない事態へと変貌していくことなど、このときの奏には想像もよらなかった。


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